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山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪古代≫

 記述が大きく変わったといえるのは平安時代についてであり、律令制解体期の描き方である。とりわけ、天皇を中心とする宮廷社会、富豪の輩に代表される地域勢力、王朝どうしの国交に限定されない国際交流−これらの点に注目したい。


  1. 平安初期の政治改革
  2. 摂関政治
  3. 富豪の輩(富豪層)の台頭
  4. 国衙による地方支配
  5. 平安中・後期の国際関係
  6. その他

平安初期の政治改革

p.59 桓武朝の政策

桓武天皇は強い権力をにぎって貴族をおさえ,積極的に政治の改革にとりくんだ。

p.60(注3) 平安初期の令外官の特徴

令に規定されていないあたらしい官職を令外官というが,蔵人頭や検非違使は,官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった。

p.61 貴族社会の変化

桓武天皇以後,朝廷では天皇の権力が強まり,天皇と結ぶ少数の皇族や貴族が多くの私的な土地を持ち,勢いをふるうようになった。このような特権的な皇族・貴族を院宮王臣家とよぶ。下級の官人たちは,院宮王臣家の保護を求めてその家人となり,地方の有力農民も,これらの院宮王臣家と結ぶようになった。
[コメント]
 桓武・嵯峨朝の政治改革が(1)朝廷における天皇の地位(天皇の貴族に対する統制力)を強化する政策であったこと、(2)その政治改革の結果、院宮王臣家とよばれる、少数の特権的な皇族・貴族が権勢をふるうにいたったこと−この2点が明確に指摘されている。つまり、平安初期の政治改革の結果として貴族社会の再編成がすすんだことが指摘されている。天皇との私的な関係を構成原理とする新たな宮廷社会の成立である。もちろん、山川の教科書でそこまで明言されているわけではないのだが、上に引用した p.60注3 の記述はそのことを示唆する記述となっている。


摂関政治

p.65 藤原北家の台頭

9世紀の初めには,桓武天皇や嵯峨天皇が貴族をおさえて強い権力をにぎり,国政を指導した。しかし,この間に藤原氏とくに北家が天皇の権威と結びついて,しだいに勢力をのばした。

p.66 摂関政治

この時代には,摂関家の勢力がもっともさかんで,最高の官位を占める藤原氏のなかでも頂点にたつ者が藤原氏の「氏の長者」として大きな権力を持つに至った。

p.67注(2) 陣定

主たる政務は太政官の議政官(公卿)の合議によって審議され,ふつうは内裏の近衛の陣で行われる陣定の形式がとられた。審議の結果は,太政官符・宣旨などの文書で命令・伝達された。

p.67 摂関政治期の貴族社会

とくに,摂政・関白は役人の任免権に深くかかわっており,その影響力のおよぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから,中級・下級の官人層は摂政・関白などに隷属するようになり(3),上流貴族の権勢を強大なものにした。
注(3) 役人の地位の昇進の順序や限度は慣例として家柄・外戚関係によってほぼ一定していた。そのなかで中級官人などは律令制のもとで経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め,私領の獲得につとめた。

p.68 年中行事の発達

年中行事には大祓・賀茂祭りのような神事や,潅仏のような仏事,七夕・相撲などの遊興のほか,叙位・除目(官吏の任命)などの政務に関することまで,多くの儀式が定められていた。これらのなかには,中国に起源を持つ行事や,日本古来の風習にもとづくものもまじっているが,ともに貴族の宮廷生活の行事として発達した。
[コメント]
 摂関政治が平安初期に高められた天皇の権威と結びつくものであること、摂政・関白には藤原氏の氏長者が就任すること、摂関政治期においても太政官での合議にもとづいて政務が処理されていたこと(陣定)が書き加えられている。
 また、朝廷の儀式や年中行事が整い、さらに家柄にもとづく貴族社会の序列が形成されたことが指摘されている。なお、年中行事として「大祓」が記述されるようになったことには少し注目しておきたい。平安中期の摂関政治期といえば、ケガレ意識が肥大化した頃であり、それにともない貴族たちの国家意識(王朝意識)も変化していった時期である。そうした点に関連する記述がもう少し欲しいところだ。


富豪の輩(富豪層)の台頭

p.60-61 平安初期の地域社会の変化

8世紀の後半から,農村では調・庸などの負担をのがれようとして浮浪・逃亡する農民があとをたたず,9世紀になると,戸籍には男子が少なくなるなどいつわりの記載がふえ,班田の施行も8世紀の終わりころからその実行がむずかしくなった。桓武天皇は一紀(12年)一班に改めて励行をはかったが,9世紀には30年,50年と班田の行われない地域がふえた。 いっぽう,農業技術にすぐれ,多くの米を所有する一部の有力な農民は,周辺の貧しい農民に米を貸しつけたり,租税を肩代りしたりして彼らを支配し,墾田の開発を進めて勢いを強めた。政府や中央の貴族も,これら有力農民の力を無視できなくなった。
調・庸などの租税の納入の減少は,国家の財政にも影響をおよぼした。政府は,公営田・官田など,直営方式の田をもうけたりして財源の確保につとめたが,やがて,中央の官司はそれぞれに自分の田を持ち(諸司田),国家から支給される禄にたよることができなくなった官人たちも,有力農民の持つ墾田を買いとるなどして自分の田を持ち,それを生活の基盤とするようになった。
9世紀には,天皇も勅旨田とよばれる田を持ち,皇族にも,天皇から田があたえられた(賜田)。中央集権的な律令の制度は,こうして財政の面からもくずれはじめた。
[コメント]
 「有力農民」とのみ記されていて「富豪の輩(富豪層)」という歴史用語が用いられているわけではないが、富豪層の活動についての具体的記述が登場している。律令にもとづく公民支配を解体させた原動力ともいえる存在なので注意しておきたい。


国衙による地方支配

p.78 地方政治の転換

豪族や開発領主の力がのびてくると,国司は国内を郡・郷・保などのあらたな単位に再編成し,彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。これに応じて国衙には田所・税所などの行政機構が整備されて,国司が派遣する目代のもとで在庁官人が実務をとるようになった。
[コメント]
 開発領主が郡司・郷司・保司職に補任される点は旧課程の赤版でも明記されていたが、国衙の行政機構については新課程で初めて明確に記述された。つまり、公領については国衙による支配が行われるようになったことを意識した記述がなされるようになったということだ。京大の1996年度第4問で「10〜12世紀の国衙による支配と地方豪族との関係を論ぜよ。」という問題が出題されたが、これなど“国司による支配”ではなく“国衙による支配”に着目するものだった。
 なお、この部分の構成は「国司の地方支配」→「荘園の発達」→「荘園と公領」となっており、引用部分は、そのうちの「荘園と公領」のなかでの記述だ。確かに10世紀に“免田の集まり”としての荘園が登場するのだから「国司の地方支配」→「荘園の発達」→「国衙領の形成」という構成でもよいかもしれない。しかし、国衙による地方支配の確立(11世紀半ば〜)と荘園の領域支配の形成・寄進による国衙領の荘園化(12世紀)をうけて、一国が荘や郡・郷・保などの区分で構成される体制(つまり荘園公領制)に移行していくのだから、「国衙領の形成」→「荘園の発達」→「荘園と公領」という構成の方が妥当ではないだろうか。


平安中・後期の国際関係

p.68(コラム) 国際関係の変化

●●広がる国際関係の水脈
遣唐使が廃止されたからといって大陸への関心がおとろえたわけではなかった。日本人の渡航は禁止されていたが,巡礼を目的にする僧には許されたので,〓[大+周]然・寂照・成尋らは宋からやってきた商人の船に同乗して,大陸にわたって宋の文物を運んできた。なかでも〓[大+周]然が持ち帰った釈迦如来像は京都嵯峨の清涼寺に安置されて熱狂的な信仰を獲得し,経典は摂関家におさめられた。
他方,日本に渡来した宋の商人は博多に文物や薬品をたずさえてやってきて,かわりに金や水銀・真珠などの必要な産物を得て帰った。宋の商人がとくにのぞんだのは金であるが,これは奥州が特産地であったことから奥州への関心が高まった。11世紀に成立した『新猿楽記』という書物には,「商人の主領」として描かれた人物が,東は「俘因の地(奥州)」から西は「貴海の島(九州の南)」におよぶ活動を行い,唐物や日本のたくさんの品々を取り扱ったとしるされている。

p.69 国際関係の変化

これらの諸国とも国交はひらかれず,一般にわが国と海外諸国との公的交渉は不振であったが,私的交渉で書籍や薬品などが輸入され,11世紀後半にはかえって活発になった。
[コメント]
 「わが国と海外諸国との交渉は不振であった」と記述している旧課程の教科書(赤版)と比べて、記述がほぼ180度変更された。894年の遣唐使廃止と926年の渤海滅亡より以降は、東アジアの諸王朝との国交関係は消滅しているが、王朝どうしの交渉が消滅したからといって、その王朝が統治している地域の住民どうしの交渉が消滅するとは限らないし、現実に中国・朝鮮から商船がさかんに来航している。その点を意識した記述だといえる。
 もっとも、上記の引用のように平安中・後期の国際関係の広がりについてふれていながらも、国風文化については従来通り「遣唐使の廃止や海外情勢の変化によって、大陸からの直接的な影響が減少するとともに」(p.69)と記述されている。なにやら整合性がとれていない記述ではないか。海外情勢と貴族社会の変化とをそれぞれ特徴づけることのなかから、「国風」文化の形成を説明できるのではないかと思う。
 なお、「国風」文化という表記も奇妙だ。それ以外の文化の呼称が、それぞれ時代の呼称か年号かに由来しているにもかかわらず、この「国風」文化だけが例外である。かつては藤原文化とも表記されていたことがあるが、年号をつかって「延喜文化」とか「延喜・天暦文化」とでも表記する方が統一性がとれてよいのではないだろうか。


その他

p.39 大化改新

政府はこののち,世襲職の品部を廃止し,あたらしい官職や位階の制度を定めるなどの改革を進めた。孝徳天皇のときに行われたこれら一連の改革を大化の改新といい

p.59(注1) 対蝦夷政策

なお8世紀から9世紀にかけては,蝦夷の反乱を防ぐため,東北地方からは多くの蝦夷が各地に俘囚として移された。また各地の農民が東北地方に移住させられ,城柵のまわりに住んで農耕に従事した(柵戸)。

p.60(注1) 平城上皇の変

嵯峨天皇の即位後,奈良の平城上皇と京都の天皇との間に対立がおこり,天皇は兵をだして上皇の寵愛する藤原薬子を自殺させた(藤原薬子の変)。
[コメント]
 赤版では「平城上皇は寵愛する藤原薬子の言にうごかされて天皇と対立したので」と 藤原薬子を首謀者とみなす形で説明してあったが、チェック版では、藤原薬子を首謀者とする陰謀としてではなく 嵯峨天皇と平城上皇との対立という視点からの記述になっている。

p.61 平安初期の仏教革新

奈良時代の末には仏教が政治と結びついて腐敗したため,桓武天皇は僧侶の資格をきびしくするなどしてそれを改めようとした。これに応じて仏教界にも革新の動きがおこり,

p.63 弘仁・貞観文化の特徴

この時期には,国家の権威をかざるものとして,中国風の文化が重んじられた。

p.81 奥州藤原氏政権

奥州藤原氏は金や馬などの産物の富によって京都の文化を移入したり,北方の地との交易を行って独自の文化を育て,繁栄をほこった(1)。
注(1) 11世紀に奥州で2度の反乱がおきたあと,奥州の藤原氏が勢力をきずくと,藤原氏を媒介にして地方の産物が都にもたらされた。藤原氏は金の力を背景に平泉を中心に繁栄し,中尊寺や毛越寺などの豪華な寺院を建立した。最近の平泉の発掘・調査では,京都と北方の文化の影響がみられ,日本海をめぐる交流や北海道からさらに北方とのつながりもあるなど,広い範囲での文化の交流があったことがあきらかになってきた。

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