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山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪中世≫

 中世はそれほど大きな変更はないが、鎌倉〜室町時代の公家・武家関係を意識した形式・記述となったこと、中世の北海道に関する記述が大幅に増えたことが注目される。


  1. 鎌倉幕府と朝廷
  2. 建武の新政
  3. 足利義満による公武統一
  4. 惣領制の解体
  5. 鎌倉府の独立性の強さと上杉禅秀の乱
  6. 応仁の乱
  7. 中世の北海道
  8. その他

鎌倉幕府と朝廷

p.94-95 幕府と朝廷

幕府と朝廷の関係なども,新制(4)とよばれる朝廷の法令や宣旨で定められて,朝廷と幕府とは支配者としての共通面を持っていた。
注(4)10世紀以後、朝廷が定めた法令は新制とよばれ、荘園整理令も新制の一つである。こうした公家法としての新制はひきつづき鎌倉時代にもだされ、やがて幕府も新制とよばれる法をだすようになった。
[コメント]
 赤版ですでに、“京都の朝廷や公家・大寺社を中心とする荘園領主の力が残っていて二元的な支配が特徴的であったこと、朝廷と幕府とが支配者としての共通面をもっていたこと、幕府は一面では朝廷の支配や荘園・公領の維持をたすけたこと”などが、明確に記述されており、チェック版でもそれらの記述はほとんど受け継がれている。しかし、赤版にはなかった「幕府と朝廷」という節が立てられ、鎌倉時代が朝廷・幕府の公武二元支配の時代であったことがより一層明確に意識されることになった。


建武の新政

p.116 建武政権の政治機構

その目標は、幕府も院政も摂政・関白も否定して、天皇親政の理想を実現することであった。しかし現実には鎌倉幕府の遺産を無視することができず、中央には最高機関としての記録所とならんで幕府の引付をうけついだ雑訴決断所を設置し、諸国には国司と守護を併置した。また奥羽・関東地方をおさえるために,それぞれ陸奥将軍府・鎌倉将軍府をおいて,天皇の皇子を派遣したが,その実体はむしろ小幕府というにふさわしいほど旧幕府系の武士を重用したものであった。
[コメント]
 赤版では「天皇の理想とはあいいれないものであった」と記述されていた。ところがチェック版では、「現実には鎌倉幕府の遺産を無視することができず」、「旧幕府系の武士を重用したものであった」と記述されている。建武の新政の実態が後醍醐天皇の“理想”ととはズレたものであったことについては共通しているのもの、赤版ではなぜ理想とはズレてしまったのかについては説明がなかったが、チェック版ではその背景についての説明が追加された。そのことによって、後醍醐天皇のもとでの天下一統が“公武一統”であったことを意識させているとも判断できる。


足利義満による公武統一

p.119 足利義満の太政大臣就任

義満は将軍としてはじめて太政大臣にのぼり、出家したのちも幕府や朝廷に対し実権をふるったので、将軍の権威は著しく高まった(2)。
注(2)義満の妻は天皇の准母(名目上の母)となり、義満はその死後に一時は天皇の名目上の父として太上天皇の称号をあたえられようとしたが、幕府はこれを辞退した。
[コメント]
 足利義満が天皇を上回る地位と権威を確保することをめざし、武家による国家権力奪取の過程を完結させたことについては、赤版では意識されていなかったが、チェック版ではその点が明確に記述された。とはいえ、明皇帝からの日本国王への冊封を義満が受けいれたこともそれと同様の意義をもっているが、チェック版でもその点は指摘されていない。
 なお疑問なのは、足利義満が太政大臣に任じられるのは征夷大将軍を辞したあとなのだから、義満が「幕府や朝廷に対し実権をふるった」ところで、それがそのまま“将軍”の権威向上には直結しない点だ。向上したと表現するのならば、それは“将軍”の権威ではなくて“足利氏の当主(惣領)”の権威とする方が妥当だと思う。


惣領制の解体

p.118 南北朝期の武士団の対立・抗争

このように動乱がながびき,全国化した背景には,すでに鎌倉時代後期ごろからはじまっていた大きな社会的変化が横たわっていた。武士社会の相続法も,そのころからだんだんと単独相続に変化していくようになり,惣領制はくずれはじめていた。それまで分立していた本家と分家の関係も相互に独立したものにかわり,それぞれの家のなかでは嫡子が全部の所領を相続して,庶子は嫡子に従属するようになる。こうした変化は各地の武士団の内部に分裂と対立をひきおこし,いっぽうが北朝につけば反対派は南朝につくという形で,動乱を拡大させることになった。この変化は血縁的結合を主とした地方武士団が,地縁的結合を重視するようになっていくことでもあった。
[コメント]
 惣領制の解体は、赤版では鎌倉後期のところで触れられていたのだが、チェック版では鎌倉後期のところでは触れられず、南北朝の動乱が長期化した背景を説明する箇所に移されている。
 また惣領制=一族とその構成単位である家との関係については、よりわかりやすくなった。もともと赤版では次のように記述されていた。
「このころから武士社会の相続法も、分割相続からだんだんと単独相続に変化していくようになり、嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に完全に従属していった。それ以前に分立していた本家と分家の関係も相互に独立したものにかわり、惣領制はくずれはじめて、血縁的結合よりもむしろ地縁的結合が強まる情勢となってきた。」(p.108)
これだと、本家や分家といった、惣領制=一族の構成単位である個々の家内部にも、嫡子−庶子という関係が存在していることが判然としない。
 ところが、チェック版では血縁にもとづく武士団構成がくずれていく原因として、(1)本家と分家の相互独立化、(2)それぞれの家内部での庶子の地位低下、の2点を並列的に扱っている。つまり、一族・一門における惣領家(宗家・本家)と庶子家(分家)の関係、家内部での家督(嫡子)と庶子の関係がそれぞれ変化していくということが明示されている。


鎌倉府の独立性の強さと上杉禅秀の乱

p.129(注2) 上杉禅秀の乱

鎌倉府は、幕府に対して独立性が強く、1416(応永23)年、その内紛のさい、前関東管領上杉禅秀が、幕府の反将軍派と結んで反乱をおこし、幕府に鎮圧されている(上杉禅秀の乱)。
[コメント]
 鎌倉府の独立性が強かったことが明記されたこと、ならびに上杉禅秀の乱が記述されるようになったこと−この2点が新たに書き加えられている。しかし、幕府に対する独立性の強さと上杉禅秀が幕府に鎮圧されたことがどう関係するのか、この文章を読むかぎりでは判然としない。


応仁の乱

p.130 応仁の乱

細川勝元と山名持豊(宗全)が,それぞれ義視と義政・義尚を支援して対立は激化し,1467(応仁元)年,ついに応仁の乱がはじまった。
注(2)1468(応仁2)年,東軍は細川氏が幕府の中心にいたため,義政・義尚をかつぐことになり,これに対抗して西軍は義視を味方にひきいれた。
[コメント]
 乱勃発当初は将軍義政が西軍に位置づけられているように読めるが(そう断定はしていない)、乱勃発当初の将軍義政は調停者としての立場をとろうと努めていたのだから、西軍に位置づけるのはおかしいのではないか。
 注記のなかに「東軍は細川氏が幕府の中心にいたため,義政・義尚をかつぐ」とあるが、義視が京都を出奔しさらに西軍に投じることになったのは、義視暗殺をくわだてた伊勢貞親が義政に召還されたことが大きな動機であり、この注記は不適切ではないか。


中世の北海道

p.126 蝦夷ケ島

すでに14世紀には畿内と津軽の十三湊とを結ぶ日本海交易がさかんにおこなわれ,サケ・コンブなど北海の産物が京都にもたらされた。やがて南から津軽海峡をわたった人びとは,蝦夷ヶ島とよばれた北海道の南部に進出し,各地の海岸に港や館(1)を中心にした居住地をつくった。彼らは和人といわれ,津軽の豪族安藤氏の支配下に属して勢力を拡大した。
ふるくから北海道に住み,漁り・狩りや交易を生業としていたアイヌは和人と交易を行った。だが新来の和人の圧迫にたえかねたアイヌは,やがて1457(長禄元)年,大首長コシャマインを中心に蜂起し,和人居住地はほとんどせめ落とされた。わずかに上之国の領主蛎崎氏のみがもちこたえ,ついに勝利をつかむことに成功した。以後,蛎崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し,江戸時代には松前氏と名のって蝦夷地を支配する大名となった。
注(1) これら居住者たちの館は,渡島半島の南部一帯の海岸ぞいに連なり,道南十二館と通称されている。その一つ,函館市にある志苔館からは,越前や能登の珠洲で焼かれた大甕3個のなかに合計約40万枚にのぼる,おもに中国の古銭がおさめられたまま発掘された。この古銭がうめられた時期はおよそ15世紀前半ごろと推定され,これまで日本で1カ所から発掘された古銭としては最大の量である。当時のこの地域での経済的繁栄を物語る事実といえよう。
[コメント]
 中世の北海道については、赤版では「列強の接近」のところのコラム「アイヌと和人」で、近世・近代とセットで記述されていたが、チェック版では室町時代のところで説明され、記述内容も大幅に増えた。ところが、北海道の先住民族アイヌ(東北北部にも住んでいた)についての記述がほとんどない。


その他

p.91 養和の大飢饉

おりからの畿内・西国を中心とする大飢饉(養和の大飢饉)
[コメント]
  治承・寿永の乱のさなかに大飢饉がおこっていたことは赤版でも記述されていたが、「養和の大飢饉」という名称が明示された。

p.91(注1) 東国の範囲

幕府の支配権が強力におよぶ東国の範囲はこののちやや狭くなり、遠江・信濃以東の15カ国とされた。

p.97年表 連署の設置

1225 北条時房、連署となる
[コメント]
  連署の設置が1225年となっていることに気がついていない人がそれなりにいると思うので、注意を促しておきたい。

p.143 北条早雲

京都からくだってきた北条早雲(伊勢宗瑞)
[コメント]
 赤版では「牢人」と規定されていたが、それが消えた。

p.146(注4) 寺内町

これらの寺内町は,不入権・免税権などの特権を持ち,商取引が平等に行われる楽座(無座)などを原則とした楽市でもある場合が多かった。やがて戦国大名などに掌握され,しだいに特権をうばわれ,住民は城下町に吸収されていった。

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