山川の変更箇所[目次]/ [原始] [古代] [中世] [近世その1] [近世その2] [近代その1] [近代その2] [現代]
山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪近世(その1)≫

 記述が大幅に変更された。とりわけ身分秩序に関する記述が根本的に変更された。そして、武士の主従関係の変化、幕府と朝廷との関係・その変化を意識した記述が大幅に追加されている。また、武家政権と宗教勢力との関係についても、宗教勢力の世俗権力としてのあり方を意識した記述になっている。

 ただ、歴史学界での研究成果を記述のなかに盛り込むときに教育的配慮がどの程度払われたのか、非常に気になるところだ。


  1. 大航海時代
  2. 豊臣秀吉の対外政策
  3. 織田信長の統一事業
  4. 豊臣秀吉の天下統一
  5. 検地と刀狩
  6. 農民と百姓
  7. 兵農分離政策
  8. 江戸幕府の成立過程
  9. 江戸幕府と朝廷
  10. 禁教と寺社
  11. 藩と主従関係
  12. 主従関係の変化
  13. 文治政治
  14. 村・町と身分秩序
  15. いわゆる鎖国
  16. 江戸時代の朝鮮・琉球・アイヌとの関係
  17. その他

大航海時代

p.150 大航海時代

わが国が戦国時代の争乱に明けくれていた15世紀後半から16世紀にかけて,ヨーロッパはルネサンスと宗教改革をへて,近代社会へ移行しつつあった。ヨーロッパ諸国は,その国力を海外へむけ,新航路の開拓,海外貿易の拡大,キリスト教の布教,さらに植民地の獲得を求め,世界的規模の活動をはじめた。この結果,世界の諸地域が,ヨーロッパを中心として広く交流する大航海時代とよばれる時代にはいった。
当時,東アジア地域では,なお明が海禁政策をとり,私貿易を禁止していたが,環シナ海の中国・日本・朝鮮・台湾・琉球・安南(ヴェトナム)・フィリピンなどの人びとが,国の枠をこえて広く中継貿易を行っていた。そこにヨーロッパ人が,世界貿易の一環としての中継に参入することになった。
[コメント]
 相変わらず“鉄砲伝来・キリスト教伝来”から近世の記述を始めるという形式がとられているが、東アジアの貿易活動の活発化という状況が明記された。
 とはいえ、疑問がいくつかある。
(1) 後期倭寇が同時代の出来事であるにもかかわらず、その点が意識されているとは言いがたい。もちろん後期倭寇はp.124ですでに記述されており、それを前提として読めばよいと言えばそれまでかもしれない。
 しかし、1543年に種子島に漂着した中国船(ポルトガル人が同乗)は後期倭寇の首領のひとりである王直のものであるとも言われているように、倭寇(あるいは「倭人」)とポルトガル人の貿易活動とは密接な関係をもっていた。また、環シナ海のさまざまな人びとが国の枠をこえて広く中継貿易に従事していた状況は、明のもとでの平和的な貿易ネットワークが大きく動揺する状況でもあった(“倭寇的世界”)。これらの点が意識しにくくなっているのではないだろうか。
(2) 「世界の諸地域が,ヨーロッパを中心として広く交流する」とあり、この時代に地球がヨーロッパを中心に一つの世界として一体化していたかのような記述になっている点にも疑問をもつ。
 確かにポルトガル・スペインの東洋進出には領土的野心があったし、また彼らの東アジアでの貿易活動が本国と切り離されたところに存在していたわけではない。その意味では西欧諸国と世界各地を結ぶ貿易活動が展開しはじめたことは事実であり、西欧と世界の諸地域とのより直接的な交流が展開しはじめたことは事実だ。また、西欧諸国において大航海時代のなかで成立した世界像が、たとえば日本における伝統的な世界観の再編成のきっかけとなったことも事実である。だからといって、東アジア世界での西欧人の中継貿易が本国を中心とするネットワークの下位にのみ位置づけられるわけではないし、東アジア世界が西欧的な世界像に覆いつくされてしまったわけでもない(「世界貿易の一環としての中継に参入することになった」との記述のなかに、そのあたりの内容を読み込むことも可能かもしれない)。東アジア世界では、ポルトガルやオランダなどのヨーロッパ諸国も(西欧のなかでの主観的意図とは別に)中華秩序に一員として参加したのであり、中華秩序という既存の秩序と対立的な世界秩序を声高に主張していたわけではない。いいかえれば、中国(中華)を中心とする東アジアの世界秩序のなかで、その一員として中継貿易に従事し、東アジア世界の貿易ネットワークを補完していたのである。
 もちろん、西欧人が東アジアに本格的に出現した16世紀後半〜17世紀前半は、明のもとでの中華秩序が大きく動揺して倭寇的世界が拡大し、東アジア史がどこへ進むのか予断を許さなかった時代だ(結局のところ日本の朝鮮出兵とそれに対抗する明の派兵、そして清による中華制圧−華夷変態−と続く)。しかし極言すれば、西欧人の東アジア進出と西欧人相互の対立・抗争は、その中華秩序の動揺のなかの一コマにすぎなかったのではないか。


豊臣秀吉の対外政策

p.158 秀吉の対外政策の基調

16世紀後半の東アジアの国際関係は,中国を中心とする伝統的な国際秩序が明の国力の衰退により変化しつつあった。全国を統一した秀吉は,この情勢のなかで日本を中心とするあたらしい東アジアの国際秩序をつくることをこころざした。
[コメント]
 赤版では「秀吉は日本人の海外発展を有利にするため、ゴアのポルトガル政庁、ルソンのイスパニア政庁、台湾(高山国)などに対して来貢を要求した。秀吉は国内統一とともに明征服をくわだてた。」と記述されていた。これと対比すれば、チェック版が東アジア世界のなかで豊臣秀吉の対外政策をとらえようとしていることがわかる。


織田信長の統一事業

p.153 天下布武

信長は,美濃の稲葉山城を岐阜城と改名し,「天下布武」の印判を使用し,天下を自分の武力によって統一する意志をあきらかにした。

p.153 延暦寺焼き打ち

比叡山延暦寺を焼打ちにし,強大な宗教的権威と経済力をほこった寺院勢力を屈伏させた。

p.153 石山合戦

信長の最大の敵は,石山本願寺を頂点にし,全国各地の浄土真宗寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した一向一揆であった。

p.154 信長の統一事業の総括

信長は,組織性と機動力とに富む強力な軍事力をつくりあげ,すぐれた軍事指揮官として,つぎつぎと戦国大名を倒すだけではなく,伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し,これを破壊し,あたらしい支配体制をつくることをめざしていた。
[コメント]
 岐阜・天下布武が追加されたこと−つまり織田信長が天下統一を明確に意識していたことの指摘−と、信長が統一事業のなかで打倒した勢力として延暦寺・本願寺などの寺院勢力が特記されたことの2点が変更点。延暦寺については「経済力をほこった」と説明され(その内容説明が欠落しているが)、本願寺についてはp.146(注4)で寺内町の特徴が説明されていて、「伝統的な政治や経済の秩序・権威に挑戦し,これを破壊」というまとめにつながっている。
 なお、「岐阜」への地名変更については注で故事の説明を入れて欲しかったところだ(中国周の基礎をつくった文王が岐山から起こったという故事にもとづいたもの−岐阜という名称そのものはその地方に古くからあった地名−)。


豊臣秀吉の天下統一

p.155 惣無事令

関白になった秀吉は,天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称し,惣無事(全国の平和)をよびかけ,たがいに争っていた戦国大名に停戦を命じ,その領国の確定を秀吉の決定にまかせることを強制した。
そして,1587(天正15)年にはこの命令にしたがわず,九州の大半を勢力下においた島津義久を征討し,降伏させた。
[コメント]
 豊臣秀吉の天下統一の手段として惣無事令、つまり「平和の強制」が指摘されている。さまざまな勢力が武力を自主的に発動することを停止させ(自力救済秩序の否定)、平和を強制することによって、天下の統一を実現=平和的秩序を確保したというのだ−刀狩令や海賊停止令などもその趣旨から解釈することが可能だ−。
また、ここでは豊臣政権と天皇との関係も問題となっており、秀吉の全国支配権の根拠を“天皇からゆだねられたこと”に求めている。

 ところで「全国」とはどこからどこまでなのだろう?教科書の記述は、その領域については一貫してあいまいである(もちろん国家の統治領域が明確に区分されたものだったなどとは言えないが)。


検地と刀狩

p.156 太閤検地

天下統一の翌年の1591(天正19)年,全国の大名に対し,その領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じた。
この検地帳は石高で統一することが求められ,この結果,全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。そして,すべての大名の石高が正式に定まり,大名はその領知する石高にみあった軍役を奉仕する体制ができあがった。
この検地帳を作成するため,各地で統一した基準のもとにいっせいに検地が行われた。これら秀吉が実施した検地を太閤検地という。
[コメント]
 赤版では「天下統一ののちは一定の基準で全国にわたって行った。これを太閤検地という」と書かれていたが、国絵図と御前帳の提出が追加記述され、それが石高制・大名知行制が確立するきっかけであったと位置づけられている(なにやら全国版“指出検地”のようだ)。
 なお、御前帳提出が軍役奉仕の体制が確立するきっかけであるなら、軍事動員を確保するなかでその前提としての石高制が形成されていったというわけだ−その軍事動員が朝鮮出兵という一つの合戦に限定されたものにすぎなかったのか、さてまた恒常的な軍事動員体制づくりの一環であったのかはともかく−。ということは、石高制は統治のためのフィクションだと言えるのだろうか。


農民と百姓

p.156-157 一地一作人

この結果,農民は自分の田畑の所有権を法的に認められることになったが,自分の持ち分の石高に応じた年貢などの負担を義務づけられることになった。

p.157 刀狩令

刀狩は,農民から武器を没収し,農民の身分を明確にする目的で行われた。荘園制下の農民は刀などの武器を持つものが多く,土一揆などではこれらの武器が威力を発揮した。
[コメント]
 両者とも内容の説明のしかたが少し変更になっただけのことだが、身分法令のところでは“百姓”という表現を使っているにもかかわらず、なぜここでは“農民”と表現されているのだろうか。少なくとも刀狩令では“百姓”なのだから、身分法令の表記と統一すべきではなかったかと思う。


兵農分離政策

p.157 身分法令

1591(天正19)年,秀吉は人掃令をだして,武士に召使われている武家奉公人(兵)が町人・百姓になること,また百姓が商売に従事することを禁止した。さらに翌年,関白豊臣秀次が朝鮮出兵の武家奉公人や人夫確保のためにだした人掃令にもとづいて,武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの戸数・人数を調査し,確定する全国的戸口調査が行われた。このように,この法令は身分を確定することになったので人掃令を身分統制令ともいう。こうして,検地・刀狩・人掃令などの政策によって,兵・町人・百姓の職業にもとづく身分が定められ,いわゆる兵農分離が完成した。
[コメント]
 記述が大きく変化した。
(1)武家奉公人(兵)の存在を明記された。赤版では「1591(天正19)年に身分統制令をだして農民が商人になることや、武士が町人・農民になることを禁止した」とあったが、1591年の身分法令で触れられているのは“武士”ではなく、武士に奉公している侍−主人とともに戦う足軽・若党など−や中間・小者・あらしこ−戦場で主人を助けて馬をひいたり槍をもつ人びと−といった武家奉公人であるわけだから、正確な記述になったと言える。
(2)“農民”ではなく“百姓”という表記に変更になった。百姓がすべて農業民であるわけではないのだから当然のことだろう(江戸時代のところで、百姓には農業・林業・漁業に従事している人びとが含まれることが記述されている)。
(3)1591年の身分法令の名称と1592年の身分法令の名称が従来のもの−ならびに他の教科書−とは全く異なったものに書き換えられた。これまでは1591年のものは“身分統制令”、1592年のものは“人掃令”と記されていた(赤版では「1592(文禄元)年にいわゆる人掃令をだして全国の戸口調査を行い、朝鮮出兵の動員にそなえた」)が、呼称の変更については学界で通説として定着しているとはいいがたく、日本史教育の現場にいらぬ混乱を持ち込んでしまっているのではないか。


江戸幕府の成立過程

p.163-164 家康期

五奉行の一人石田三成と家康の対立が表面化し,1600(慶長5)年,三成は五大老の一人毛利輝元を盟主にして兵をあげた(西軍)。対する東軍は,家康と彼にしたがう福島正則・加藤清正らの諸大名で,両者は関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
天下分け目の戦いに勝利した家康は,西軍の諸大名を処分し,1603(慶長8)年,全大名に対する指揮権の正統性を得るため征夷大将軍の宣下をうけ,江戸に幕府をひらいた。江戸時代の幕あけである。家康は,全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を,また国単位に国絵図と郷帳の作成を命じて,全国の支配者であることを明示した。
しかし,家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼がいぜん大坂城におり,名目的に秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年,家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すためみずから将軍職を辞し,子の徳川秀忠に将軍宣下をうけさせた。家康は駿府に移ったが実権はにぎり続け,ついに1614〜15(慶長19〜元和元)年,大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣氏をせめほろぼした。

p.164 秀忠期

家康の死後,1617(元和3)年に2代将軍秀忠は,大名・公家・寺社に領知の確認文書をいっせいに発給し,全国の土地領有者としての地位を明示した。また1619(元和5)年,福島正則を武家諸法度違反で改易した。こうして法度を遵守させるとともに,将軍より年功の外様大名をも処分できる力量を示した。また秀忠は,1623(元和9)年,将軍職を家光にゆずり,大御所として幕府権力の基礎がためを行った。

p.164 家光期

1632(寛永9)年,秀忠の死後,3代将軍家光も肥後の外様大名加藤氏を処分した(3)。さらに1634(寛永11)年,30万あまりの軍勢をひきいた上洛は,全国の譜代から外様に至る大名に,統一した軍役を賦課して権力を示したものである。大名は領知石高に応じて一定数の兵馬を常備し,将軍の命令で出陣し,平時には江戸城などの修築や河川の工事などを負担した。
注(3) 加藤氏のあとには小倉から細川氏を転封し,小倉には譜代大名小笠原氏を封じて,九州も将軍の意のおよぶ地域とした。
[コメント]
 江戸幕府の全国支配(全大名への支配)が家康→秀忠→家光と段階をふんで確立していく過程が非常に具体的に記述されるようになった。
 まず家康期は、(1)天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが豊臣家(豊臣政権)の内紛として起こっていることを意識していると言える点(これは勘ぐり過ぎか)、(2)将軍宣下の意義として「全大名に対する指揮権の正統性を得る」ことが指摘されている点、(3)国絵図と郷帳の作成を命じたことに全国支配者としての地位をみていること、(4)「名目的に秀吉以来の地位を継承しているかにみえ」る豊臣秀頼との対抗関係のなかで、「将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため」将軍職を秀忠に譲ったことが明記された点。
 秀忠期については、(1)「大名・公家・寺社に領知の確認文書をいっせいに発給し」したことが指摘されている点−家綱のところでは「すべての大名にいっせいに領知宛行状を発給」(p.181)と書かれているが、それとの内容の区別があいまい(補)−、(2)秀忠が大御所として実権を握っていた時期があったことが指摘されている点。
 家光期については、(1)加藤氏の改易により「九州も将軍の意のおよぶ地域」となったと指摘されている点、(2)1634年の上洛にふれ、統一的な軍役の賦課を実現したことを指摘している点−その際、大名知行制のしくみを「大名は領知石高に応じて一定数の兵馬を常備し,将軍の命令で出陣し,平時には江戸城などの修築や河川の工事などを負担した」とまとめている−。

(補)
高埜利彦『集英社版日本の歴史13 元禄・享保の時代』では、寛文印知は「一斉にというのが意味をもっており、これ以前三代の将軍は、いずれも一斉ではなく、個々にまちまちに大名に発給されてきた。四代家綱によって統一的に、しかも同時に交付されたことは、前三代に比べ、将軍権力のより体制的な確立を示すものといえる」(p.37)とあり、朝尾直弘「将軍政治の権力構造」(『岩波講座 日本歴史10』)でも、「秀忠による領知朱印状の発給は家光・家綱のように同時いっせいには行われておらず、おおむね東国には上洛以前に、西国には上洛以後に分かれている」(p.6)とある。となると、秀忠期についての記述は不正確ではないのか。


江戸幕府と朝廷

p.167 後水尾天皇擁立

徳川家康は1611(慶長16)年,後水尾天皇を擁立したさい,天皇の譲位・即位まで武家の意志にしたがわせるほどの権力の強さを示した。

p.167 五摂家と武家伝奏

摂家(関白・三公)に朝廷統制の主導権をあたえ,武家伝奏(2)を通じて操作しようとした。
注(2) 武家伝奏には公家から二人選ばれ,幕府から役料をうけた。彼らは朝廷と幕府とをつなぐ窓口になって,京都所司代と連絡をとりながら,朝廷に幕府側の指示をあたえた。

p.167-168 幕府の朝廷統制

幕府は天皇・朝廷がみずから権力をふるったり,他大名に利用されることのないよう,天皇や公家の生活・行動を規制し(3),京都に封じこめる体制をとった。また1620(元和6)年には,秀忠の娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させたのを機に,朝廷に残されていた機能(官位制度・改元・改暦)も,幕府の承諾を求めさせることにして,幕府による全国支配に役立てた。
注(3) 禁裏御料・公家領・門跡領は必要最少限度にとどめられた。天皇の行幸は慶安期を最後に幕末まで原則として認められず,公家の京都から醍醐や吉野の花見などの他行も武家伝奏をとおして届け出なければできなかった。

p.168 後水尾天皇の譲位

1629(寛永6)年,体調をくずしていた後水尾天皇は,紫衣事件をきっかけに,幕府の同意を求めずに突然譲位した。幕府はつぎの天皇が,秀忠の孫である明正天皇となることもあって譲位を追認した。そのさい,幕府は役割をはたさなかった武家伝奏を交代させ,さらに摂家に厳重な朝廷統制を命じた。家康以来おし進めてきた朝廷統制の基本的な枠組がここに確立し,幕末まで持続された。

p.182 綱吉期の朝儀復興

礼儀による秩序維持のうえから,これまでの天皇・朝廷政策を改めて,朝廷儀式のいくつかを復興させたり,禁裏御料もふやした(3)。
注(3) 1687(貞享4)年,220年ぶりに大嘗祭が,1694(元禄7)年, 192年ぶりに加茂葵祭が再興された。これ以後も朝廷儀式は徐々に再興されていった。この時期は,勅使の幕府下向の儀式もより重視され,こういうなかで1701(元禄14)年,江戸城中で赤穂藩主浅野長矩が朝廷関係の儀礼を管掌する旗本の高家吉良義央を傷つけ,翌年浅野家の遺臣たちが吉良を討った赤穂事件がおきた。

p.184 正徳の治

短命と幼児将軍が続くなか,白石は将軍個人の人格よりも,将軍職の地位とその権威をいかに高めるかが,大きな課題の一つであった。将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめたり,閑院宮家を創設したのは,天皇家と結んで将軍の威信を高めようとしたためである。

p.207 尊号一件

朝廷問題が発生した。1789(寛政元)年,朝廷は光格天皇の実父閑院宮典仁親王に,太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めたが,定信はこれを拒否した。武家伝奏らはふたたび尊号宣下を求めたが,定信は,本来幕府の側にたつべき武家伝奏らの公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ。この事件の対処をめぐる将軍家斉との対立もあって,定信は老中在職6年余で退陣に追いこまれた。
[コメント]
 朝幕関係は江戸初期のみならず記述が詳しく追加されている。赤版では禁中並公家諸法度・禁裏御料や紫衣事件について軽く触れられている程度だった(紫衣事件は脚注扱い)ことに比べれば、大きな変化である。
 江戸時代において幕府と朝廷は“持ちつ持たれつ”の関係で全国支配者としての権威をわけあっていたのだが、
(1) 主導権はあくまでも幕府(武家政権)にあり、後陽成天皇の即位(豊臣秀吉)に続いて後水尾天皇の即位も武家政権の権力者の意図に従わざるを得なかった、
(2) それに対する後水尾天皇の抵抗と幕府による抑制という緊張関係のなかに展開したのが、紫衣事件であり、後水尾天皇の突然の譲位(幕府の承認をえていない)であった、
(3)その結果、五摂家・武家伝奏を通じた天皇統制のシステムができあがった、
これらのことが追加記述された。
 綱吉期と正徳期の記述は、文治政治が展開するなかで、幕府の統治者としての権威を高めるためにも、幕府と朝廷の“持ちつ持たれつ”の関係を以前にもまして強めていく必要があったことを示している。
 そして寛政期の尊号一件が追加記述されたことで、天皇の側から“幕府−武家伝奏・五摂家”という天皇統制のシステムに対する異議申し立てが登場したことがわかるようになった。


禁教と寺社

p.168 禁教政策

禁教と寺社 キリスト教の布教がスペイン・ポルトガルの侵略を招くおそれを強く感じ,また信徒が信仰のために団結することのおそれから,1612(慶長17)年,直轄領に禁教令をだし

p.169 禁じられた宗教と許容された宗教

幕府の禁じたキリスト教や日蓮宗不受不施派を信仰させないために,だれもが檀那寺を持つことになったが,仏教以外の宗教がすべて禁圧されたわけではなく,神道・修験道・陰陽道(1)なども仏教に準じて幕府によって容認されていた。
注(1) 人びとは檀那寺の僧侶ではみたされぬ祈祷や占いを,修験者(山伏)や陰陽師に依存した。
[コメント]
 赤版では禁教政策は対外関係のところの項目「禁教と鎖国」で述べられていたが、チェック版では「禁教と寺社」という項目をたて、幕藩体制の仕組みのなかで禁教政策を記述し(島原の乱も同じ箇所で触れられている)、それを寺社に関連付けている。禁教政策を国内的意味から把握することを重視した結果だといえる。また、修験道・陰陽道など、仏教以外の宗教についても新たに記述された。


藩と主従関係

p.166-167 藩のしくみ

大名は,初期には権力の弱さから,領内の有力武士に領地をあたえ,その領民支配を認める地方知行制をとる場合もあったが,しだいに領内一円支配を進めて(2),有力武士も家臣団に編成して城下町に集住させ,家老や奉行などの役職につけて藩政を分担させた。
注(2) 1615(元和元)年の一国一城令は,領内の支城を拠点にして大名と対抗するような有力武士を弱体化させる効果もあった。
[コメント]
 赤版にあった「藩は幕府の政策の範囲内で独自の支配を行うことができた」という記述が消えた。項目「身分秩序」のところで、江戸時代を社会集団にもとづく身分制社会として描いていることと関連があるのかもしれない。同じことが村や町など他の社会集団にもあてはまるのだから。
 また、一国一城令の意義が幕府による大名統制とは別の視角からも記述された。


主従関係の変化

p.181 文治政治への転換

平和が続くなかで重要な政治課題となったのは,戦乱を待望する牢人や,秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。同年7月に兵学者由井正雪の乱(慶安の変)がおこると,幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し,牢人の増加をふせぐいっぽう,江戸に住む牢人とともに「かぶき者」のとりしまりを強化した。
1663(寛文3)年,成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し,あわせて殉死の禁止を命じ,主人の死後は殉死することなく,跡継ぎのあたらしい主人に奉公することを義務づけた(2)。翌年には,すべての大名にいっせいに領知宛行状を発給して,さらに将軍の地位を確立し,また幕領の検地をいっせいに行って,幕府の財政収入の安定もはかった。
注(2) 将軍と大名,大名と家臣の関係において,主人の家は代々主人であり続け,従者は主人の家に奉公する主従の関係を明示した。そして,もはや下剋上はありえなくなった。
[コメント]
 家綱期の記述では、武断政治から文治政治へというシェーマが消滅して文治主義という言葉は綱吉期へと移り、その代わりに主従関係の安定・変質が強調される形になった。とくに殉死を「戦国の遺風」とする記述が消え−殉死が盛行したのは江戸初期になってから−、その禁止を主従関係の変化という視角から記述している。江戸幕府成立過程の詳述、p.166の注(2)での一国一城令の説明とあわせて、江戸幕府のもとで将軍と大名、大名と家臣の主従関係が、徐々に確立されていく過程がえがかれるようになった。
 また、かぶき者がはじめて記述されたが、牢人・かぶき者がなぜ発生したのか、それらへの対策がなぜ必要になったのかについての説明は、ほとんどないに等しい(赤版では「個人の能力や武功で出世する機会は少なくなり、改易で生じた多数の牢人の不満が激化していった」とあった)。かぶき者を記述したいがために無理をしたのではないのか。


文治政治

p.182-183 元禄期の政治

1683(天和3)年に,綱吉の代がわりの武家諸法度がだされ,その第一条は「文武忠孝を励し,礼儀を正すべきこと」に改められた。これは武士にそれまでの「弓馬の道」の武道にかわって,主君に対する忠と父祖に対する孝,それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものであった。
このいわゆる文治主義の考えは儒教に裏づけられたもので,綱吉は林信篤(鳳岡)を大学頭に任じ,湯島聖堂をたてるなどして儒教を重視した。また礼儀による秩序維持のうえから,これまでの天皇・朝廷政策を改めて,朝廷儀式のいくつかを復興させたり,禁裏御料もふやした。
綱吉はまた仏教にも帰依し,1685(貞享2)年から20年あまりにわたり生類憐みの令をだし,犬にかぎらず生類すべての殺生を禁じた。これによって庶民は大いに迷惑したが,その影響で,よその飼犬の殺生も辞さなかった社会に不満をもつ「かぶき者」などの存在を戦国の遺風ともどもたつことになった(1)。
注(1) 1684(貞享元)年,近親者に死者があったときに,喪に服したり忌引きをする日数を定めた服忌令とよばれる法令がだされ,生類憐みの令とともに,殺生や死を忌みきらう風潮をつくりだした。

p.184 正徳の治

短命と幼児将軍が続くなか,白石は将軍個人の人格よりも,将軍職の地位とその権威をいかに高めるかが,大きな課題の一つであった。将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめたり,閑院宮家を創設したのは,天皇家と結んで将軍の威信を高めようとしたためである。また一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度をととのえて,家格や身分の秩序を重視した。
[コメント]
 もっとも特徴的なのは、綱吉期〜正徳期をつらぬく共通性を記述しようとする視角が導入されたことである。赤版では綱吉期の文治主義について好学という面からしか記述されていなかったことに比べて大きな違いであり、そのためチェック版では朝儀の復興に関する記述が追加され、生類憐みの令が服葬令とまとめて評価されるようになった。
 ただ、疑問もある。「よその飼犬の殺生も辞さなかった社会に不満をもつ「かぶき者」」とだけ記述されていると、かぶき者なるものが何者なのか不明だ(家綱期のところでキチンとした脚注が欲しかった)。“よその飼犬の殺生”をやる連中という程度の理解しか引き出せないのではないか。また、「殺生や死を忌みきらう風潮をつくりだした」とあるが、これではそうした風潮が元禄期にはじめて創出されたものであるかのように受け取れる。すでに平安中期以降から形成されていたのではないか。
 なお、武家諸法度の天和令は赤版では脚注扱いだったが、チェック版では本文に組み込まれ、説明がすこし丁寧になった(ただし赤版では「礼義」とあったのが、チェック版では「礼儀」と変更されている)。


村・町と身分秩序

p.169-170 村と百姓

村と百姓 近世の社会を構成した最大の要素は村と百姓であった。村は,百姓の家屋敷から構成される集落を中心に,田畑の耕地や野・山・浜をふくむ広い領域を持つ小社会(共同体)である。そこには,百姓の労働と暮らしをささえる自治的な組織があり,農業生産のうえに成り立つ幕藩体制にとっては,もっとも重要な基盤となった。豊臣政権の兵農分離政策と検地によって,村ははじめて全国規模で直接把握された。そして惣村や郷村が分割されたり,中世末以来急速に進んだ新田開発によって,17世紀末には全国で6万余もの村をかぞえるに至った。
村は農業を主とする農村がほとんどであるが,漁村や山村,在郷町のような小都市などもみられた。また,村高・家数の大小や地域差も大きく,村は一つ一つ個性的であるが,ほぼ共通する特徴を持った。
まず村は,名主(庄屋・肝煎)や組頭・百姓代からなる村役人(村方三役)を中心とする本百姓によって運営され,入会地の共同利用,用水や山野の管理,治安や防災などの仕事が自主的にになわれた。これらの経費は村入用とよばれ,村民が共同で負担しあった。村の運営は村法(村掟)にもとづいて行われ,これにそむくと村八分などの制裁が加えられたりした。幕府や諸藩・旗本は,このような村の自治に依存して,はじめて年貢・諸役の割あてや納入を実現し,村民を掌握することができた(2)。このような仕組みを村請制とよぶ。また村民は数戸ずつ五人組に編成され,年貢納入や犯罪防止に連帯責任をおわされた。
注(2) 一つの村に複数の領主や知行主が同時に存在する場合(相給という)も同様である。

p.170 水呑百姓

田・畑を持たず,地主のもとで小作をいとなんだり,日用(傭)仕事に従事する水呑(無高)

p.170-171 村の階層と信仰

本家と分家のような血縁の序列や,漁村における網元と網子のような経営をめぐる階層区分もあった。村には寺院や神社がつくられ,村の人びとの相互の結びつきや信仰をささえる場となった(1)。
注(1) 村には百姓以外に,僧侶や神職などの宗教者,さらに職人や商人などが若干ふくまれる場合も多い。

p.172 城下町への商人・手工業者の集住

町と町人 近世になると,中世とは比較にならないほど多数の都市がつくられた。その中心は城下町である。城下町へは,それまで在地領主として農村部に居住していた武士が兵農分離政策で移住を強制され,あわせて商人や手工業者(諸職人)も営業の自由や屋敷にかけられる年貢の地子免除の特権を得て定着した。

p.172 武家地・寺社地

城郭と武家地は城下町の面積の大半を占め,政治・軍事の諸施設や家臣団の屋敷がおかれた。また寺社地には数多くの有力寺院や神社があつめられ,宗教統制の中心としての役割をになった。

p.172-173 町人地(町方)

町人地は町方ともよばれ,商人・手工業者が居住し営業を行う場であり,面積は小さいが,全国と領地を結ぶ経済活動の中枢として重要な役割をはたした。町人地には,町という小社会(共同体)が多数存在した。町には村と類似の自治組織があり,商人や手工業者である住民の営業や生産・暮らしをささえた。町内に宅地の町屋敷を持つ家持の住民は町人(1)とよばれる。町は町人の代表である名主(町名主)・町年寄・月行事などを中心に,町法(町掟)にもとづいて運営された(2)。町には田・畑がなく,町人は重い年貢負担をまぬかれたが,上下水道の整備,城郭や堀の清掃,防火など都市機能を維持するため,夫役である町人足役や貨幣で負担させられた。
注(1) 多くの町で,家持の町人は住民の少数を占めるにすぎなかった。また村や百姓との対比で,町人地に居住する人びと全体を町人とよぶことも多い。
注(2) 都市の規模が大きくなり,町が多数になると,広域の自治をになう町役人がおかれた。

p.173 都市の基礎としての町

都市には城下町のほかに,港町・門前町・宿場町・鉱山町などがあるが,どの場合も,都市社会の基礎には町が存在した。

p.173-174 士農工商

天皇家や公家,上層の僧侶・神職らも武士とならぶ支配身分である。被支配身分としては,農業を中心に林業・漁業に従事する百姓,手工業者である諸職人,商業をいとなむ商人を中心とする都市の家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度を士農工商とよんでいる。

p.173 職人

注(4) 大工・大鋸・木挽・鍛冶・桶結などを総称して職人とよぶ。職人は,百姓や町人とは別に,独自の技術労働を役負担として奉仕させられた。これを国役という。

p.174 えた・非人

えた・非人の呼称は中世からみられ、江戸幕府の身分支配のもとで蔑称として全国に広められた。

p.174 身分秩序

これらの諸身分は,武士の主従制,百姓の村,町人の町,職人の仲間など,団体や集団ごとに組織された。そして一人一人の個人は家に所属し,家や集団を通じてそれぞれの身分に位置づけられた。
[コメント]
 身分の把握が大きく転換している。
 まず、赤版では「農民の統制」「都市と町人」という項目立てだったが、チェック版では「村と百姓」「町と町人」という項目立てに変化したことが、最大の特色である。そこには、村や町などという社会集団(小社会・共同体)を身分制社会の基礎として把握しようとする視角が提示されている。したがって、“村”を構成しているものが“百姓”なのであって“百姓=農民(農業民)”ではないこと(村には漁村・山村なども含まれるという但し書きはそれをさらに裏づけしている)が示されているわけで、それは“町人”についても同様である(p.147で「町衆」のルビが「ちょうしゅう」となっていることにもその視角が反映されている−「町組」のルビは「まちぐみ」なのだが−)。そしてそのことを総括しているのが、p.174の「これらの諸身分は,武士の主従制,百姓の村,町人の町,職人の仲間など,団体や集団ごとに組織された」という記述である。
 また、赤版では「士農工商という身分の別をたてた制度を定め、さらにこれら四民の下に「えた」「ひにん」などとよばれる賤民身分をおいた」と、幕府・藩が支配をたすけるために身分を政策的に創設したと解釈できるような記述になっているが、チェック版では身分を幕府・藩が政策的に作り出したものだとは書いていない。その典型が「えた・非人」の呼称についての記述である。
 なお、それ以外は記述が詳しくなったという程度だが、(1)武士の特権について、赤版では「農民や町人の無礼に対して切捨御免の特権も認められた」と記述されていたが、チェック版では「切捨御免」が消えたこと、(2)都市民に対する税として、赤版では運上・冥加、地子が記述されていたが、チェック版ではそれらが消えて、代わりに夫役(町人足役)だけが記述されていること、(3)町の構造が“両側町”であることが図で明示されたこと、(4)職人に関して徒弟の記述が消えたこと、などが注目される。
 また疑問点としては、(1)百姓が負担する「国役」と職人が負担する「国役」とは同じ表記になっているが、これは全く同じものなのか、異なるのならばその相違点は何か、について具体的な説明が欲しかった。そして、(2)「職人の仲間」という表現がなされているが、仲間とは、商人や職人たちが営業上の利益を維持するために結成した自律的集団なのだから、「商人・職人の仲間」という表現が適切だと思うのだが、なぜ商人が除外されたのか。それとも「商人の仲間」というのが不適切だとすれば、商人が属した社会集団とは何だったのか。そのあたりのキチンとした説明が欲しかった。


いわゆる鎖国

p.176 初期外交

幕府の所期の外交は、キリスト教は禁じるが平和貿易は奨励するという方針であった。

p.176 中国との国交回復

注(4) 幕府は中国との正式な国交回復を断念し,公貿易にかわる中国船との私貿易を長崎で行うことにした。

p.177 鎖国の影響

日本は200年余の間、オランダ・中国・朝鮮以外の諸国との交渉を閉ざすことになったため、海外文化は細々としか入らなくなった。幕府が鎖国を断行できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきはなくとも成り立ったためである。
こうして、鎖国によって幕府は貿易を独占することになり、産業や文化にあたえる海外からの影響は制限された
[コメント]
 赤版では「鎖国によって日本人の海外発展の道はとざされ、産業や文化の近代化がおくれることになった」とあって、いわゆる鎖国にはマイナスの評価が下されていたが、チェック版ではその度合が低下している。
 ただ、本当に海外文化は細々としか入らなくなったのだろうか。なにやら固定観念にもとづく記述のように思える。絵画における明清の写生画や蘭画、小説における中国の大衆小説、学問における蘭学、宗教における黄檗宗などを想定した場合、海外文化の影響も無視できないように思う。もしかすると、鎖国以前との対比ではなく開国以後との対比で書かれているのではないか。
 また、「幕府が鎖国を断行できたのは、当時の日本の経済が海外との結びつきはなくとも成り立ったため」なのであれば、“鎖国によって産業にあたえる海外からの影響が制限された”とわざわざ記述する必要があるのだろうか。


江戸時代の朝鮮・琉球・アイヌとの関係

p.178 日朝関係

1609(慶長14)年,己酉約条を結んだ。これは近世の日本と朝鮮との関係の基本となった条約で,釜山に倭館が設置されることや,対馬藩宗氏の朝鮮外交上の特権的な地位(3)が両国によって認められた。
注(3) 宗氏の特権とは対朝鮮貿易を一手に独占することである。その貿易利潤を,宗氏は家臣に分与することで主従関係を結んだ。対馬は耕地にめぐまれなかったので,貿易利潤が一般の知行のかわりになった。

p.178 朝鮮通信使

注(4) 1回の通信使の人数は 300〜 500人で,平均すると 446人になる。初期には,帰国にさいして文禄・慶長の役の残留朝鮮人捕虜の返還も大きな目的となっていた。1回目は1240人,2回目は 321人,3回目は 146人の捕虜が返還された。

p.178 日琉関係

薩摩藩は,琉球の土地にも検地・刀狩を行って兵農分離をおし進め,農村支配を確立したうえ,通商交易権も掌握した。さらに,琉球王国の尚氏を石高8万9000石余の王位につかせ,独立した王国の姿をとらせて中国との朝貢貿易を継続させた。琉球は国王の代がわりごとにその就任を感謝する謝恩使を,また将軍の代がわりごとにそれを奉祝する慶賀使を幕府に派遣した(6)。
注(6) 使節の行列には,異国風の服装・髪型をはじめ,旗・楽器などを用いさせ,あたかも「異民族」としての琉球人が将軍に入貢するかにみえた。

p.179 アイヌとの交渉

蝦夷ヶ島の和人居住地(道南部)に勢力を持っていた蛎崎氏は,近世になると松前氏と改称して,1604(慶長9)年徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され,藩制をしいた。和人居住地以外の広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団との交易対象地域は,商場あるいは場所とよばれ,そこでの交易収入が家臣にあたえられた。アイヌ集団は,1669(寛文9)年シャクシャインを中心に松前藩と対立して戦闘になったが,松前藩は津軽藩の協力を得て鎮圧した。このシャクシャインの戦いを最後に,アイヌは全面的に松前藩に服従させられ,さらに享保〜元文期(1716〜40年)ころまでには,多くの商場が和人商人の請負となった(場所請負制度)。
[コメント]
 朝鮮・琉球・アイヌとの交渉についての記述が詳しくなった。構成についても、朝鮮・琉球については「初期外交」の項目の中で触れられていたのが、「朝鮮と琉球・蝦夷地」という項目のもとにまとめられ、さらに、アイヌとの交渉については赤版では「列強の接近」との関連の中でコラム扱いで触れられていただけだったのが、大きく扱いが増えた(北海道=蝦夷ケ島が和人地と蝦夷地とから構成されていることも指摘されている)。長崎・対馬・鹿児島・松前の四口での管理貿易という、いわゆる鎖国の下での貿易のあり方を意識した記述になった。
 さらに、宗氏や松前氏がそれぞれ朝鮮・アイヌとの交易独占を幕府から認知・保障されることで知行を確保していたこと(それが家臣に分け与えられることで主従関係が成立していたこと)も記述されている。


その他

p.151 鉄砲伝来

1543(天文12)年にポルトガル人をのせた中国船が九州南方の種子島に漂着した。
[コメント]
 赤版では「ポルトガル人の乗った船」だったが、ようやく“中国船”であったことが明記された。

p.151(コラム) 鉄砲の生産

この大量生産を可能にしたのは,当時の製鉄技術や鍛造・鋳造技術の水準の高さであった。さらに鉄砲に必要な火薬製造の技術は,のちに平和な時代になると花火をつくりだした。また博多商人神谷寿貞が,朝鮮から伝えた「灰吹法」という精錬技術が銀の生産を飛躍的に高め,鉱山開発ブームをもたらしたのもこの時代であった。

p.152 南蛮貿易

南蛮貿易は,キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。
[コメント]
 赤版では「ポルトガル船は布教を認めた大名領だけに入港し」とのみ記述されていた。

p.166 老中

はじめ年寄とよばれて幕府の中枢にあった重臣が、老中とよばれ幕政を統轄するようになった。

p.166 大老

最高職の大老は常置ではなく、重要事項のみ合議に加わった。

p.180 寛永文化

連歌からでた俳諧では、京都の松永貞徳の貞門俳諧の人びとが活躍するなど、あらたな民衆文化の基盤をつくった。
[コメント]
 赤版では「みるべきものは少なかった」と書かれていたのに対し、評価が大きく変わった。

p.184 正徳期の日朝関係

朝鮮から日本あての国書に,それまで「日本国大君殿下」としるされていたのを「日本国王」あてに改めさせた。
[コメント]
  赤版では「日本国大君」とだけ記述されていたが、「日本国大君殿下」まで記述されている。


[論述対策]へ戻る/ 山川の変更箇所[原始] [古代] [中世] [近世その1] [近世その2] [近代その1] [近代その2] [現代]