山川の変更箇所[目次]/ [原始] [古代] [中世] [近世その1] [近世その2] [近代その1] [近代その2] [現代]
山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪近世(その2)≫

 都市・農村の構造変化とそれに対する幕府の政策(とりわけ都市政策)に構成上の力点がおかれている。さらに構造変化のなかでの商品生産・賃金労働を“資本主義の胎動”と位置づけ、それを取りこむことで藩権力を強化することに成功した諸藩が雄藩として幕末の政局において大きな役割を演じると描きだし、近代への展望をみようとしている。そうした構成上の変化が大きな変更点といえる。そして、列強の接近のところで“鎖国”という表記が注意深く避けられている点にも注目される。
 なお、記述がより詳しくなっているものの、その代わりに削られた記述もある。享保の改革での大坂堂島の米市場の公認や田沼政治のもとでの俵物の輸出奨励などである。両者ともに、堂島の米市場、俵物の輸出というデータは別の箇所で触れられているものの、幕政との関連づけが消えてしまっている。また、記述が削られたり、または詳しくなったことによって、かえって文意が理解しにくくなった箇所もある。


  1. 農業の発達
  2. 諸産業の発達
  3. 交通の発達
  4. 商業の発達
  5. 通貨制度
  6. 享保の改革
  7. 近世社会の変化
  8. 田沼政治
  9. 寛政の改革
  10. ロシアの接近
  11. イギリスの接近
  12. 化政時代
  13. 天保の大飢饉
  14. 天保の改革
  15. 雄藩のおこり
  16. その他

農業の発達

p.186 農民たちの生活

近世の農業経営は,小規模な家族の労働を基礎に,せまい耕地にこまやかに人力を集約的に投下する方法で行われた(1)。
注(1)農業に牛や馬を大規模に利用することはあまり発達しなかった。

p.186 貨幣経済の浸透

生産の中心である米はもっぱら年貢として領主にとりたてられ,農民たちは自給自足の貧しい暮らしをしいられた。しかし,農業の生産力が急速に高まると,余剰米を商品として都市に売ったり,桑・麻・綿・油菜・楮・野菜・たばこなどを商品作物として生産・販売し,貨幣にかえて利潤を得る機会が増大した。この結果,多くの村々は都市を中心とする商品流通に徐々にまきこまれるようになった。
[コメント]
 農民の小農経営のあり方がはじめて説明され、また、貨幣経済へとまき込まれるさまが丁寧に説明されるようになった。後者については、赤版では「自給自足の農業から、生産物を売るための農業をめざして商品作物が多く栽培されはじめたのも注目すべきことであった。・・・(中略)・・・これらの商品作物の発達は農家の経営上のゆとりをうみだすようになった。」とあったが、その「経営上のゆとり」についての記述がチェック版では消えている。
 ところで、江戸初期の農民は本当に「自給自足」の生活をしていたのか−言い方をかえるならば、自給自足の生活とはどのような生活なのだろうか?−。(以前から疑問に思っているのだが)中世における経済発達の成果がまるっきり村々からシャットアウトされてしまったのだろうか。


諸産業の発達

p.187 漁業

漁業は,網漁を中心とする漁法の改良と,沿岸部の漁場の開発によって重要な産業としての地位を確立した。網漁は中世末以来,摂津・和泉・紀伊などの上方漁民によって全国に広まり,上総九十九里浜の地曳網による鰯漁,肥前五島の鮪漁,松前の鰊漁が有名になった。とくに鰯は,綿作などの商品作物生産にかかせない肥料として干鰯・〆粕に加工され,上方をはじめ各地に出荷された。このほか,瀬戸内海の鯛や土佐の鰹などの釣漁,網や銛を駆使する紀伊・土佐・肥前・長門などの捕鯨,蝦夷地における昆布や俵物の生産などがみられた。とくに,俵物は17世紀末以降,長崎貿易において銅にかわる中国(清)への主要な輸出品となった。

p.187 林業の発達

林業は,都市を中心とする建築資材の大量需要によって急速に発達し,江戸中期には,材木問屋の活躍で蝦夷地にまで産地が広がった。尾張藩や秋田藩などでは,領主が直轄する山林から伐りだされた材木が商品化し,木曽檜や秋田杉として有名になった。また,都市近郊の山野では紙の原料や茶・漆などの特産地が形成され,薪・炭も生産されて重要な燃料として大量に消費された。

p.187-188 鉱山業

17世紀初めに,日本は当時の世界でも有数の金銀産出国になった。17世紀後半になると金銀の産出量は急減し,かわって銅の産出量が増加し,急増する貨幣の需要に応じるとともに,長崎貿易における最大の輸出品となった。鉄は,砂鉄の採集によるたたら精錬が中国・東北地方を中心に行われた。そこでつくられた玉鋼は全国に普及し,多様な農具や工具に加工され,技術の進歩や生産の進展に大きく貢献した。これらの諸産業では,漁村・山村・鉱山町などの村や町が生産の基盤となったが,そこに都市商人の資本や農村・都市からの多数の労働力が投入されることも多かった。

p.188 手工業の多様化

手工業は,まず生産のための道具や仕事場を自分で所有する小規模な独立手工業者である都市の諸職人によってになわれた。しかし,農村でも百姓の零細な農村家内工業として多様な手工業生産がみられるようになった。その代表は麻・木綿・絹などの織物業である。戦国末期に綿作が朝鮮から日本に伝わると,木綿は従来の麻とともに庶民の代表的衣料としてまたたくうちに普及した。これをささえたのは伝統的ないざり機(地機)による農家の女性労働であった。そして河内の木綿,近江の麻,奈良の晒など織物の名産地が各地にうまれた。絹や紬は農村部でも織られたが,金襴・緞子などの高級品は京都の西陣で高度な技術のいる高機で独占的に織られた。しかし,18世紀中ごろには,高級な絹織物も上野の桐生をはじめ,農村部をふくむ各地で生産されるようになった。
和紙は,楮をおもな原料とする流漉の普及で生産地が全国に広がった。情報の伝達や記録の手段として,紙は必需品となり,安価な紙が庶民にまで大量に普及し,さらに学問・文化の発達にも大きく貢献した。紙の生産地の多くでは専売制がしかれ,藩の財政をうるおした。陶磁器は,朝鮮から伝わった登窯や上絵付などの技術の普及によってさかんとなり,肥前有田では佐賀藩の保護のもとで磁器が生産され,長崎貿易の主要な輸出品となった。また,尾張藩の専売制のなかで,尾張の瀬戸や美濃の多治見などでも生産が活発となり,各地で安価な陶磁器が量産された。
[コメント]
 漁業については、データが少し細かくなったという程度だが、17世紀末以降の長崎貿易での中国への主要な輸出品が銅から俵物へと転換したことが追加記述されている。林業については、赤版では、都市での建築資材の需要増大、木曽檜・秋田杉だけしか記述されていなかったが、わずかに記述が詳しくなった。鉱山業については、17世紀後半以降に銅の産出量が増加したこと、そのため長崎貿易での最大の輸出品となったことが明記され(別子銅山が住友家経営であることの記述は消えた)、さらにたたら製鉄・玉鋼が追加記述され、逆に釜石鉄山の採掘についての記述が消えた。手工業については、赤版では特産物を羅列するにすぎなかったが、記述がより具体的になったため(とくに和紙)、文化史など他分野との関連もつけやすくなったと言える。ただし、これらの事項が教科書に掲載されているからという理由だけで入試で出題されるようでは困るが。


交通の発達

p.189 交通網の整備

陸上交通は,豊臣政権による全国統一の過程で整備がはじまり,これをひきついだ江戸幕府によって,江戸を中心に各地の城下町をつなぐ全国的な街道の網の目が完成した。
[コメント]
  赤版では「幕府は早くから全国統治のために陸上交通を整備していた。商品流通の進展とともに、交通・通信制度の整備もさらに進んだ。」と記述されており、陸上交通の整備の要因のひとつとして、商品流通の進展が指摘されていた。ところがチェック版では、少しあとで「交通制度においては,幕府や大名らの御用通行が最優先とされ」と記述されていることと合わせ、政治的な目的に力点をおいた記述になった。

p.189 道中奉行

五街道は,幕府の直轄下におかれ,17世紀半ばから道中奉行によって管理された。
[コメント]
  道中奉行がはじめて記述された。

p.189 宿駅などの交通施設

街道の城下町中心部や小都市には宿駅が数多くおかれ,また一里塚や橋・渡船場・関所などの施設がととのえられた。
[コメント]
  宿駅については、赤版では「2〜3里ごとに宿場(宿駅)をおいて」とあったが、その間隔に関する記述が消えた。
 関所などについては、赤版では「幕府は治安維持のために要所に関所を設けて通行人を監視・取り調べたり、また、河川に橋をかけないところもあったりして、商品輸送などには障害となった。」と記述されていたが、チェック版では注のなかで「関所手形の提示を求めたり,「入鉄砲に出女」をきびしくとりしまった。」と記述されているだけで、関所を設置した目的は明示されていないし、河川に橋をかけないところがあったという記述は消えた。

p.189-190 伝馬役

交通制度においては,幕府や大名らの御用通行が最優先とされ,通行に用いる人馬(人足と馬)は無料あるいは一般の半額程度の賃銭で徴発された。この負担を伝馬役とよび,宿駅の百姓・町人や,近隣の村々の百姓によってになわれた(1)。
注(1)宿駅の伝馬役をおぎない,御用通行の人馬を徴発された村々を助郷とよぶ。
[コメント]
  赤版では「人馬が不足するときは、あらかじめ指定してある助郷とよばれる村々から人馬を徴集した。」とのみ記述されていたが、その負担の呼称として伝馬役が記述されるようになった。

p.190 海上交通

大量の物資を安価に運ぶには,陸路より海や川の水上交通が適していた。海上交通は幕府や藩の年貢米輸送を中心に,大坂と江戸を基点に整備された。
[コメント]
  赤版では「大量の物資を輸送するには、水上輸送が適していた。」と記述したうえで、さまざまな具体例が列挙されていたが、チェック版では“年貢米輸送を中心に”と、海上交通が整備された背景が明記された。


商業の発達

p.191 商業の展開

堺・京都・博多・長崎・敦賀などを根拠地とした近世初期の豪商たちは,朱印船貿易や国内の未整備な交通体系を利用して活躍したが(1),鎖国による海外との交易の制限や,陸上・水上交通の整備による全国市場の形成によって急速におとろえていった。17世紀後半になると,三都や城下町において,各地からの商品の受託や仕入れを独占する問屋商人が商業や流通の中心を占めた。そして多くの業種では,問屋が仲間という同業者の団体をつくり,独自の法(仲間掟)を定めて営業権の独占をはかった。
注(1)これを初期豪商とよぶ。彼らは船や蔵を持ち巨大な富を形成した。京都の角倉了以や茶屋四郎次郎,摂津平野の末吉孫左衛門,堺の今井宗薫らが有名である。

p.191 仲間と幕府の対応

幕府は当初この仲間を公式には認めなかった

p.191 零細な商人

問屋や仲買の仲間に従属し,消費者にさまざまな商品を販売する小売商人の多くは,店舗を持たない零細な商人で,振売・棒手振などとよばれ,都市や都市近郊の民衆にとって,もっとも重要な生業の一つであった。
[コメント]
 初期豪商から新興の問屋商人への転換、零細な小売商人についての記述が追加された。
 仲間については、赤版では「問屋のなかには仲間という同業者の組合をつくって営業の独占をはかろうとする動きもおこってきた。」とだけ書かれていたのが、チェック版では「独自の法(仲間掟)」の存在が記述され、そのことによって仲間が自律的な社会集団のひとつであることをより明確に示している。また、仲間に対する幕府の姿勢については、赤版では「幕府はしばしばこれを禁止した」と記述されていたのが、「公式には認めなかった」(黙認していたということだ)と微妙に評価が変化した。


通貨制度

p.191 金銀貨幣

戦国大名は全国各地で金山・銀山を開発し,軍資金にあてるためにきそって独自の金貨・銀貨を鋳造した。しかし,全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は,家康が関ヶ原の戦いの翌年に開設させた金座・銀座によってはじめて大量につくられた(慶長金銀)。

p.191-192 三貨の鋳造

金座は江戸と京都におかれ,後藤庄三郎のもとで小判・一分金などの計数貨幣が鋳造された。また銀座は,まず伏見・駿府におかれ,のちに京都・江戸に移されて,丁銀や豆板銀などの秤量貨幣を鋳造した。寛永期に江戸と近江坂本につくられた銭座は,のちに全国各地にもうけられ,ぼう大な量の銅銭・鉄銭などが鋳造された。

p.192 統一的な貨幣制度の不在

東日本ではおもに金が取引の中心とされ(金遣い),西日本では銀が中心となり(銀遣い),また三貨のあいだの交換率は相場によってつねに変動するなど,明治に至るまで統一的な貨幣制度はついに成立しなかった。17世紀後半から各藩では,城下町を中心とする藩経済の発達のもとで藩札が領内で流通し,また地域によっては商人の発行する私札が流布することもあり,三貨の不足と藩財政の窮乏をおぎなった。
[コメント]
 赤版では「幕府は貨幣鋳造権をにぎり」と記述されていたのが、チェック版では、幕府が「全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣」を鋳造したとしか記述されておらず、逆に、幕府による貨幣鋳造の独占よりも統一的な貨幣制度が不在であったことが強調されるようになった。
 また、両替商に関する記述が少なくなり、そのため「三貨間の両替や秤量」「公金の出納や,為替・貸付などの業務」と業務内容の説明があるものの、赤版での「金融機関の役割もはたした」や「手形などを用いて商取引きの決済を行う信用制度も両替商の手でととのえられ」といった機能については説明が削られた。


享保の改革

p.200 享保の改革の背景

17世紀に,農業を中心として著しく発展した生産活動は,その後も多分野にわたってひき続き拡大し,三都や城下町の富裕な商人のなかには,窮乏する武士だけでなく大名にも利貸を行い(大名貸),藩の経済的実権をにぎるものもあらわれた。また農村にも貨幣経済が浸透し,商品作物の生産や家内工業が広がって,あらたな富がしだいに蓄積されていった。

p.201 享保期の財政再建策

西日本の幕領でさかんになった綿作などの商品作物の生産による富の形成に目をつけ,畑地からの年貢増収をめざした。また,商人資本の力を借りて新田開発を進め,米の増産を奨励した(1)。これらの施策によって,幕領の石高は1割以上増加し,年貢も増加にむかって,幕府財政はやや立直りを示した。
注(1)幕府は江戸日本橋に新田開発についての高札をたて,有力商人の協力をうながし,また新田検地を進めた。しかし耕地の拡大はそれほど進まなかった。

p.201 享保期の江戸の都市政策

改革の第2の柱は江戸の都市政策で,・・・・江戸に,広小路などの防火施設をもうけ,消火制度を改善して,定火消とは別に,町方独自の町火消を組織させた(2)。・・・・公事方御定書を制定して,法にもとづく合理的な政治を進めた。そして商品経済を統制しようと商人や職人の仲間を公認しはじめ,また続発する金銀貸借についての争い(金公事)を,幕府に訴訟させず当事者間で解決させるために,1719(享保4)年に相対済し令をだした(3)。
注(2)江戸町方の町々を「いろは」47組に編成し,町人による組織的な消防制度をはじめたが,やがて鳶人足による消防組織にかわっていった。
注(3)相対済し令は,これ以前にも17世紀後半以降,数度だされている。1718(享保3)年に江戸町奉行所がうけつけた訴訟は約3万6000件であり,このうち90%以上が金公事であった。
[コメント]
 赤版では「享保の改革」の直前に「社会の動揺」という項目をたて、そこで武士の窮乏や商人の台頭、百姓の階層分化について触れていたが、チェック版では「享保の改革」の項目のなかで簡単に触れるだけにとどめ、百姓の階層分化やそれにともなう村・町の性格の変化については享保の改革のあとで「社会の変容」という項目をたててそこで説明してある(次項を参照)。つまり、チェック版は18世紀後半に幕藩体制の変容の画期をみており、享保の改革はいわばその変容を方向づける位置におかれている(とはいえ、質流禁止令とその撤回については記述がない)。
 享保の改革の目的を赤版は(1)財政の再建、(2)法制の整備とまとめていたが、チェック版では(1)財政の再建、(2)江戸の都市政策とまとめている。もっとも、赤版の“法制の整備”で指摘されていた政策が、チェック版では“江戸の都市政策”のところで説明されており、その限りでは大きな違いがないように見える。しかし、チェック版は江戸という都市の変容とそれに対する幕府の政策をあらゆる箇所でクローズアップさせており、享保の改革でも単なる法制の整備ではなく、江戸という都市の秩序を安定させていくための政策であったことを意識させている。
 さらに大きな変更点としては、堂島米市場の公認という米価政策に関する記述が消えてしまったことがあげられる。赤版では「新田開発などによって米の増産が進んで米価の低落傾向をまねいたので、幕府は大坂堂島の米市場を公認したり、株仲間の結成を認めるなどして、米価の調整を行った。」と記述されていたが、チェック版でそれに関連する記述といえば「商品経済を統制しようと商人や職人の仲間を公認しはじめ」という記述だけである。“堂島の米市場”という用語そのものが、項目「三都の発達」に関連する口絵の見出し(p.193)、項目「社会の変容」のなかで他の専門市場とともに列挙されるだけ(p.202)という扱いで、まるで米価を中心とする物価政策は幕府にとって主要な関心事ではなかったかのような扱いである。
 なお、赤版でも殖産興業政策は記述されていたが、チェック版ではそれにくわえて畑地からの年貢増収策が記述され、また消防制度についての記述が追加された。


近世社会の変化

p.202 享保期以降の村の変化

享保の改革は多くの成果をあげたが,18世紀後半は幕藩体制にとって大きなまがり角となった。年貢の増徴策で小百姓の生活は圧迫され,米価の低迷によって,年貢米で暮らしをたてる武士の窮乏がひどくなった。
村々では,一部の有力な村役人らが,みずからは地主手作を行ういっぽうで,手持ちの資金を困窮した百姓に利貸して,質にとった田畑を村の内外であつめて地主に成長し,その田畑を小作人に貸して小作料をとりたてた。彼らは同時に農村地域における商品作物生産の中心的にない手でもあって成長が著しく,豪農とよばれた。いっぽう,田畑を手放した小百姓は,小作人となるほか,年季奉公や日用稼ぎに従事し,いっそう貨幣経済にまきこまれるようになった。こうして村では,自給自足的な経済のあり方が大きくかわり,村役人をかねる豪農と,小百姓や小作人らとのあいだの対立が深まった。そして村役人の不正を追求し,村の民主的運営を求める小百姓らによる村方騒動が各地で多数おこった。

p.202-203 享保期以降の都市の経済活動の変化

都市の経済活動は,仲間の公認や相対済し令の実施もあって,幕府や諸藩の力では左右できないほど自立的で強固なものへと成長していった。問屋商人の活動範囲は全国におよび,なかでも近江・伊勢・京都の出身で呉服・木綿・畳表などをあつかう一群の商人らは,両替商をかねて,三井家のように三都や各地の城下町などに出店を持ち,大規模に店舗を経営するものもあらわれた。・・・・・
また,問屋・仲買と小売商人との売買の場である卸売市場が各地で発達し,都市と農村を結ぶ経済の心臓部としての役割をはたした。大坂では堂島の米市場,雑喉場の魚市場,天満の青物市場,江戸では日本橋の魚市場,神田の青物市場などがよく知られる。

p.203 享保期以降の町の性格変化

こうしたなかで,村とともに幕藩体制の基礎を構成してきた町はその性格を大きくかえていった。とくに三都や城下町の中心地では,町内の家持町人が減少し,住民の多くは,地借や店借,商家奉公人らによって占められることが多かった。そして町内の裏長屋や場末の地域には,農村部から出稼ぎなどで流入してきた人びとや,小売・職人仕事・日用稼ぎに従事する貧しい民衆が多数居住した。これらの都市民衆は,九尺二間といわれる零細な長屋に住み,わずかな貨幣収入でどうにか暮らしをささえていたので,物価の上昇や飢饉・災害にあうと,たちまち生活を破壊された。
[コメント]
 赤版では項目「享保の改革」の直前で村の構造変化(百姓の階層分化)が触れられる程度だったが、チェック版では、享保改革の結果、促進された社会の変容として、村・町の構造変化や問屋商人の経済活動の自立傾向が記述されるようになった。
 ところが、武士の窮乏についてはほとんど記述がなくなった。チェック版では、本文には「米価の低迷によって,年貢米で暮らしをたてる武士の窮乏がひどくなった」(p.202)としか記述されておらず、史料として武士の生活状態を“旅宿ノ境界”と指摘した『政談』の文章が掲載されているものの本文にはそれに照応するような記述がない。赤版では、本文で借知による俸禄の削減、武士身分の売買などが触れられ、さらにコラム「武士の家計」で武士の生活ぶりが具体的に描かれていたのと、大きな相違である。藩政をにぎる門閥層と下級武士との対立・あつれきのなかでの藩政の動揺という事態が軽視されているわけだ−藩体制の危機はこれまたひとつの社会集団の性格変化でもあると思うのだが−。


田沼政治

p.205 田沼期の貨幣政策

はじめて定量計数銀貨を鋳造させ(1),金を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。
注(1)安永年間(1772〜80年)に大量に鋳造された南鐐弐朱銀がその代表である。

p.205 田沼政治の評価

意次の政策は,商人の力に依拠しながら,幕府財政を思いきって改善しようとするものであった。

p.205 田沼の失脚

天明の飢饉がはじまり,全国で百姓一揆や打ちこわしが頻発するなかで,1784(天明4)年に,若年寄の田沼意知(意次の子)が江戸城内で暗殺されると,意次の勢力は急速におとろえた。
[コメント]
 田沼政治に対する記述・評価はそれほど変化がない(微妙な表現の変化はあるが)。南鐐弐朱銀の鋳造が追加記述されたこと、銅・俵物の輸出奨励とそれによる金銀の輸入促進の記述が消えたことが注目されるくらいだ。 なお、田沼失脚については、赤版では「民衆が天災を意次の悪政によるものとして批判し、各地で百姓一揆や打ちこわしが続発するなかで」と記述されていたが、チェック版では佐野政言による田沼意知暗殺(赤版では注記されていた)を重視する記述となっている。


寛政の改革

p.205 天明の打ちこわし

田沼意次が失脚した翌1787(天明7)年5月,江戸・大坂など全国30余の主要都市で打ちこわしが続いておこった(天明の打ちこわし)。なかでも江戸の打ちこわしは激しいもので,市中の米屋などが多数おそわれ,幕府に強い衝撃をあたえた。こうしたなかで,11代将軍家斉の補佐として老中に就任したのが,白河藩主松平定信である。

p.206 寛政改革の都市政策

寛政の改革のもう一つの柱は都市政策であった。なかでも打ちこわしにみまわれた江戸では,両替商を中心とする豪商が幕府に登用され(1),その力を利用して改革が進められた。
注(1)勘定所御用達とよばれ,10名からなる。

p.207 尊号一件

朝廷問題が発生した。1789(寛政元)年,朝廷は光格天皇の実父閑院宮典仁親王に,太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めたが,定信はこれを拒否した。武家伝奏らはふたたび尊号宣下を求めたが,定信は,本来幕府の側にたつべき武家伝奏らの公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ(1)。この事件の対処をめぐる将軍家斉との対立もあって,定信は老中在職6年余で退陣に追いこまれた。
注(1)この事件を契機にして,幕府と朝廷の協調関係はくずれ,天皇の権威は尊王論の高まりとともに幕末にむかって浮上しはじめる。
[コメント]
 天明の打ちこわしが発生した都市の数が具体的に記述され、さらに江戸での打ちこわしが幕府首脳に与えた強い衝撃が松平定信の寛政改革につながったと読める記述となった。
 具体的な政策については表現が微妙に訂正された程度(出版取締りのなかで弾圧された人物として出版元の蔦屋重三郎が追加記述された)だが、(1)江戸の豪商の利用という政策の位置づけが大きくなったこと、(2)尊号一件をめぐる朝廷との対立、それに関連する松平定信と将軍家斉との対立が記述されるようになったこと、の2点が注目される。(1)に関しては、赤版では、財政難に苦しむ旗本・御家人への救済策の一例として、「物価調査を実施し、物価の引下げを命じ、江戸の豪商の資本を利用して米価や物価の調整をはかった」と記述されていたが、チェック版では江戸の都市政策において主軸をなすものとして記述されている。しかし、豪商の「力を利用して改革が進められた」と書かれているものの、彼らが勘定所御用達とよばれたことが注記されるのみで、七分積金や棄捐令などの諸政策との関連が明記されておらず、このままでは勘定所御用達が寛政の改革で果たした役割が全くわからない。(2)については、すでに指摘したように、江戸時代を通じて朝幕関係に関する記述が大幅に加筆されており、その一端を示すものである。
 なお、寛政の改革期はロシア使節ラックスマンの来航にともなって海防強化に着手された時期でもあるが−幕府のもとでの外交体制を鎖国とみなす鎖国祖法観が形成されはじめる時期でもある−、内政と外交とを統一的に把握しようとする視角はほとんど存在しない。この点は赤版でも共通するのだが、それでも赤版は「定信はまた、いち早く外国の圧力を感じとって国の防備に強い関心をいだき、諸藩に沿岸の警備を命じるいっぽうで、政治を批判する出版物を取り締まった。」と記述されていた。ところがチェック版では、それらの記述はすべて、次節「幕府の衰退」の最初の項目「列強の接近」にまわされてしまった。確かに項目「寛政の改革」の次に項目「列強の接近」がくるのだから、目くじらをたてる必要はないとも言えるが、寛政の改革を全体として見通し、評価するという視角が希薄になってしまったことも事実である。


ロシアの接近

p.208 列強の接近

ロシア船やイギリス船が日本近海にあらわれ,幕府は外交体制の変更をせまられる重要な時期をむかえた。

p.208 ラックスマン来航

1792(寛政4)年,ロシア使節ラクスマンが根室に来航し,漂流民(1)をとどけるとともに通商を求めた。そのさい使節が江戸湾入航を要求したことが刺激になって,幕府は海防の強化を諸藩に命じた(2)。
注(1)伊勢の船頭大黒屋光太夫は嵐で漂流してロシア人に救われ,女帝エカチェリーナ2世に謁見したのち送還された。
注(2)とりわけ蝦夷地の防備と,江戸につながる房総沖・江戸湾の防備は強く意識された。しかし,防備を命じられた大名には重い負担となった。

p.208-209 レザノフ来航

1804(文化元)年にはロシア使節レザノフが,ラクスマンの持ち帰った入港許可証を持って長崎に来航したが,幕府はこの正式使節に冷淡に対応して追いかえした。そののち,ロシア船が樺太や択捉を攻撃したことから,幕府の対外防備は増強され,1807(文化4)年,幕府は松前・蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行の支配のもとにおき,東北諸藩をその警護にあたらせた(1)。
注(1)会津藩の場合は1558名の藩兵を派遣し,蝦夷地の海岸で銃隊訓練をしたり,台場をもうけて大砲の射撃訓練を行ってそなえた。
[コメント]
 “鎖国”という言葉が注意深く避けられていることが、大きな変更点である。
 赤版では、ラックスマン来航・レザノフ来航をまとめて「幕府はともに鎖国の方針をたてにこれを拒絶し、退去させた。」と記述していたのが、チェック版ではラックスマンの通商要求に対する幕府の態度は全く記述されず、レザノフの要求に対しては「幕府はこの正式使節に冷淡に対応して追いかえした。」と記述されていて、“鎖国”という言葉がない。もともと“鎖国”という“4つの口で伝統的な関係をもつ相手だけに交渉相手を限定する”という外交姿勢は18世紀末から段階的に形成されたものであり、ラックスマン来航時にはその外交姿勢を示しつつも、情勢によってはロシア側の要求を受け入れることへの含みが残されていた。そして、新たな通信・通商の関係を結ぶ意思がないことを初めて明確にしたのがレザノフ来航時であった(ただしこのときは通信と通商の区別が明確ではなく、その区別が明確になるのは1844年オランダ国王の開国勧告への対応を決めた際のこと)。そのあたりの事情を意識した記述になったといえる。ただし、第9章「近代国家の成立」の冒頭の項目「開国」では、「ロシア船・イギリス船が鎖国日本の扉をたたくようになった」(p.226)と記述されており、江戸時代における記述との整合性がとれていない(なお、p.226は赤版と全く同じ記述)。
 なお、項目「列強の接近」のなかで“鎖国”という言葉が唯一使われているのは、蛮社の獄に関する「渡辺崋山は『慎機論』を,高野長英は『戊戌夢物語』を書いて幕府の鎖国政策を批判した。」(p.209-210)という記述だけである−この記述は赤版から変更なし−。
 また、赤版では“西蝦夷地の直轄”と記述されていなかったのが、チェック版では「松前・蝦夷地をすべて直轄地にして」と記述されており、松前=和人地も直轄化されたことがわかるようになった(言い方をかえると、今の北海道が和人地と蝦夷地とから構成されていたこと、松前が蝦夷地には含まれていなかったことがわかる記述に変更された)。


イギリスの接近

p.209 フェートン号事件

1808(文化5)年のイギリス軍艦フェートン号の長崎乱入であった。フェートン号は,当時敵国であったオランダ船を求めて長崎にはいり,オランダ商館員をとらえて人質にし,薪水・食糧を強要し,やがて退去した(フェートン号事件)(3)。そこで,幕府は1810(文化7)年,白河・会津両藩に江戸湾の防備を命じた。
注(3)19世紀初め,ナポレオンがオランダを征服すると,イギリスは東洋各地のオランダの拠点をうばおうとしていた。この事件で長崎奉行の松平康英は責任上自刃し,また長崎警固の義務を持つ佐賀藩主も処罰された。

p.209 異国船打払令

外国船員と住民との衝突回避のためにも,1825(文政8)年異国船打払令(無二念打払令)をだし,外国船を撃退することを命じた(4)。
注(4)清・朝鮮・琉球の船はこの対象外で,オランダ船は長崎以外の場所では打払うことにした。
[コメント]
 フェートン号事件の背景について、赤版では(1)17世紀以来のイギリスとオランダの植民地をめぐる抗争、(2)ナポレオンによるオランダ征服、の2点が指摘されていた。(1)が明記されていたために、(2)をきっかけにイギリスが東洋各地のオランダ植民地の征服へとむかったことの動機がわかりやすかったが、チェック版では(1)が記述されていないため、少し唐突な印象をうける。さらに、本文と注記とをあわせて考えれば、「ナポレオンがオランダを征服」していたためイギリスにとってオランダが「当時敵国であった」ということになるが、チェック版では、ナポレオンとイギリスが交戦していたという事実は記述されておらず(赤版にはその記述があったが、チェック版では消えている)、なぜイギリスにとってオランダが「当時敵国であった」のかが分かりにくくなっている。
 なお異国船打払令について、赤版では「清・オランダ以外の外国船をすべて撃退することを命じた」と記述されていたが、チェック版では「清・朝鮮・琉球の船はこの対象外で,オランダ船は長崎以外の場所では打払うことにした」と記述され、内容が変化している。


化政時代

p.210 大御所時代の治世

文化年間までは寛政改革の質素倹約がうけつがれたが,文政年間にはいると,品位の劣る貨幣を大量に流通させたことで幕府財政はうるおい,将軍や大奥の生活は華美になった。

p.210 大御所時代の社会

関東の農村のように,在地の商人や地主が力をつける一方で,土地を失う農民も多く発生して荒廃地域が生じた。江戸をとりまく関東農村では,無宿者や博徒による治安の乱れも生じたため,幕府は1805(文化2)年,関東取締出役(2)をもうけて犯罪者のとりしまりにあたらせた。さらに1827(文政10)年には,幕領・私領・寺社領の領主の違いをこえて,近隣の村々をよせあつめた寄場組合をつくらせ,協同して治安にあたらせたり,風俗のとりしまりや農村の維持などを行わせた。
注(2)関東代官の配下の役人のなかから出役を選びだし,最初は8名で,2人1組となって関八州を巡回し,領主の区別なく犯罪者や博徒の逮捕・とりしまりを行った。
[コメント]
 赤版では、化政時代を「政治は腐敗し、社会には退廃した空気がみなぎった。」と評価していたが、チェック版ではそうした評価が消えた。それは化政文化の特徴づけについても同様で、赤版にあった「退廃と無気力の傾向、愛欲と笑いをもとめる方向」という記述が消えている。
 また、関東取締出役は赤版では注でのみ記述されていたが、本文で説明されるようになった。ただし、「江戸周辺は小さな所領がいりくみ」との赤版での記述は消えた。さらに「在地の商人」という表現が使われ、在郷商人という表記がとられていない。


天保の大飢饉

p.210-211 郡内・加茂一揆

1836(天保7)年の飢饉はとくにきびしく,そのため,もともと米の不足していた甲斐国郡内地方や三河国加茂郡で一揆がおこった。ともに幕領で生じた大規模な一揆であることに,幕府は衝撃をうけた。

p.211(注3) 救い小屋

江戸も米不足で不穏になったが,幕府は救い小屋をもうけて米・銭をほどこし,打ちこわしの発生を未然にふせいだ。
[コメント]
 赤版では「幕領での大一揆」としか記述されていなかったのが、郡内騒動・加茂一揆という具体的な名称が記述され、それが幕府に衝撃を与えたことが追加記述された。また、救い小屋が追加記述された。


天保の改革

p.211 天保の改革

まず江戸城中もふくめ断固たる倹約令をだして

p.211-212 人返しの法

江戸の人別改めを強化し,人返しの法を発して農民の出稼ぎを禁じ,江戸に流入した貧民の帰郷を強制し,天保の大飢饉で荒廃した農村の再建をはかった(1)。
注(1)無宿者や浪人らも江戸を追われ,江戸周辺の農村の治安悪化をひきおこすことになった。

p.211 株仲間解散令の背景・結果

物価騰貴の原因は,十組問屋などの株仲間が上方市場からの商品の流通を独占しているためと判断して,株仲間の解散を命じた。幕府は江戸仲間外の商人や,江戸周辺の農村にいる商人らによる自由な取引で物価引下げを期待したのである。しかし物価騰貴の実際の原因は,生産地から上方市場への商品の流通量が減少して生じたもので(2),株仲間の解散はかえって江戸への商品輸送量をとぼしくすることになり,逆効果となった。また物価騰貴は,江戸の庶民のほか旗本や御家人の生活も圧迫したので,幕府は札差などに低利の貸出しを命じた。
注(2)生産地から上方市場に商品がとどく前に,下関や瀬戸内海の他の場所で商品が売買されてしまうことがあった。商品流通の基本ルートがこわされ,機能しなくなりはじめていた。

p.211-213 三方領知替えと上知令

幕府は,相模の海岸防備をになわせていた川越藩の財政を援助する目的から,川越・庄内・長岡3藩の封地をたがいに入れかえることを命じたが(5),領民の反対もあって撤回された。幕府が転封を決定しながら,その命令が徹底できなかったことは空前の出来事であり,これは幕府に対する藩権力の自立を示す結果となった。そこで水野忠邦は,幕府権力を強化する意味からも,1843(天保14)年に上知令をだし,江戸・大坂周辺のあわせて約50万石の地を直轄地にして,財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした。
[コメント]
 倹約令・人返しの法については記述が少し詳しくなり、さらに棄捐令が消えて変わって「札差などに低利の貸出しを命じた」ことが記述された。
 記述が大きく変わったのは、株仲間解散令の原因・結果についての記述である。赤版では物価騰貴の原因が説明されておらず、自由競争の保証による物価引き下げという幕府の意図とともに「これは商品の流通を幕府が掌握しようとする政策でもあった。」との記述があるだけだったが、江戸での物価騰貴が構造的なものであり、かつての株仲間主導の商品流通の基本ルートが機能しなくなっていたことが原因であることが明示された。
 また、三方領知替えの失敗が追加記述され、上知令の失敗とあわせて、幕府権力の衰退と幕府に対する藩権力の自立がより強調されるようになった。


雄藩のおこり

p.213 天保期の幕藩体制のゆきづまり

農業生産を前提に,年貢をとりたてて成り立つ幕藩体制の構造は,天保期ころにゆきづまりを示しだした。
北関東の常陸・下野両国の人口は,1721(享保6)年にくらべ,1846(弘化3)年には約30%の減少となった(1)。人口減少は,日光山領の農村でみられたように農民が農地を放棄し,田畑を荒廃させることにつながった。
いっぽう19世紀にはいると,商品生産地域では問屋制家内工業がいっそう発達し,一部の地主や問屋商人は家内工場をもうけて,農業からはなれた奉公人(賃労働者)をあつめ,分業と協業による手工業的生産を行うようになった。これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい,大坂周辺や尾張の綿織物業,桐生・足利など北関東の絹織物業などで,天保期ころから行われはじめた。
注(1)とくに天保の飢饉後は一時激しくおちこんだ。その逆に西南地方の周防・薩摩は約60%も人口が増加している。

p.214 諸藩の対応策

このような社会・経済構造の変化は,幕藩領主にとっては体制の危機となるため,その対応策をとった。二宮金次郎の報徳仕法のように,荒廃田を回復させて,農村を復興させる封建制再建の方法である。しかし,すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われており,この方法では資本主義の胎動はとめられなかった。これに対し,あたらしい経済活動を積極的にとりこむ方法が,藩営専売制や藩営工場の設立であった。
諸藩においても有能な人材を登用し,財政の再建をはかり,藩権力の強化をめざす藩政改革が行われた。

p.214 薩摩藩の藩政改革

注(1)幕府は長崎を窓口にして清国との俵物貿易を独占して行っていた。これに対し薩摩藩は,松前から俵物を積みだして長崎にむかう途中の船から俵物を買上げ,これを琉球を通して清国に売る密貿易を行って利益をあげることがあった。そこにも幕府の支配体制のゆるみがみいだされる。
[コメント]
 藩政改革の背景について、赤版では「諸藩では、これまでに財政難を打開する方策をいろいろ実施してきたが、専売制反対の百姓一揆など、領民の抵抗がしだいに強まってきた。また藩政を支配してきた門閥層に対する下級武士の批判が高まり、藩政は動揺していた。」と説明されていたのだが、この指摘が消えた。それに対してチェック版では、天保期における社会・経済構造の変化を農村の荒廃と資本主義の胎動(商品生産と賃金労働の出現)としてとらえ、そのうち後者を積極的に取りこむなかで雄藩が台頭してきたという図式を描き出している。赤版では「雄藩のおこり」とは別の項目として「近代工業の芽ばえ」がたてられていたのが、チェック版ではこの両者が統一的に把握されたのだ。
 つまり、“資本主義の胎動”を取りこむことによって藩権力の強化に成功した諸藩が雄藩として幕末の政局に強い発言力をもつようになり、さらにその施策が明治維新後の富国強兵策へとつながるものと展望されているのだろう。しかし、門閥層に対する下級武士の批判が高まるなかでの藩政の動揺を無視してしまえば、藩政中枢への中・下級武士の登用の背景がみえにくくなる。また、“資本主義の胎動”を取りこむ方法の一つとして藩営専売制が指摘されているが、それだと村田清風のもとでの長州藩の藩政改革で紙・蝋の専売制が緩和されたことが理解できなくなるのではなかろうか。
 なお、薩摩藩の改革については、琉球を介した密貿易の内容とその意義が追加記述され、長州藩の改革については、赤版では「専売制廃止などを要求する大一揆を機に」と藩政改革のきっかけとなった大一揆が記述されていたが、チェック版では消えた。


その他

p.193 江戸

江戸には,幕府の諸施設や全国の大名の屋敷(藩邸)をはじめ,旗本・御家人の屋敷が集中し,・・(中略)・・町人地には,武家の生活をささえるために,あらゆる種類の商人・手工業者や日用(傭)らがあつまり,江戸は日本最大の消費都市となった。

p.193 大坂

幕府はここに大坂城代や大坂町奉行をおいて,大坂や西日本の支配の要とした。

p.193-194 京都

将軍家をふくめ,武士や宗教者,一部の御用職人らの権威をささえるために重要な役割をはたした。また,京都には呉服屋をはじめとして大商人の本拠地が多く存在し,・・・・・
幕府は重職である京都所司代をおき,朝廷・公家・寺社との関係の保持や畿内と周辺諸国の統轄にあたらせた。

p.204 百姓一揆の行動・結果

一揆に参加した百姓らは,年貢の増徴や新税の停止,専売制の撤廃などを要求し,藩の政策に協力している商人や村役人の家を打ちこわすなど実力行動もとった。
幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが,多くは武力で鎮圧し,一揆の指者を厳罰に処した。

p.195 井原西鶴

やがて浮世草子とよばれる小説に転じ,職業作家としての道をあゆんだ。

p.222 尊王論と幕府

復古主義の立場から尊王論をとなえた国学者も,将軍は天皇の委任によって政権をあずかっているとのとらえ方で(2),幕府政治の否定をめざすものではなかった。
注(2)実際に将軍が天皇から政務の委任をうけたのは,尊王攘夷論のたかまるなか,1863(文久3)年に14代将軍家茂が上洛して,政務委任をうけてからである。
[コメント]
  本文の記述は赤版から変化はないが、注記が追加された。

p.224 御蔭参り

1830(天保元)年の御蔭参りの参加人員が赤版では「400万人」とあるが、チェック版では「約500万人に達したといわれる」とある。

p.224 興行

●●興行●●
庶民の娯楽の代表は歌舞伎と相撲であった。歌舞伎はそれまでの人形浄瑠璃の人気にかわり,18世紀後半から江戸を中心に隆盛をほこり,寛政期には中村・市村・森田の江戸三座が栄えた。さらに文政期の『東海道四谷怪談』の鶴屋南北らの狂言作者と,7代目市川団十郎や尾上・沢村・中村らの役者が,歌舞伎の人気を高めた。幕末には狂言作者の河竹黙阿弥が活躍し,盗賊を主人公にした白浪物などは評判をよんだ。
相撲は近世前半には大名や旗本など武家だけが楽しむ娯楽であったが,庶民が相撲を求める欲求は強くなり,幕府は1744(延享元)年四季勧進相撲を公認した。これはおもに夏に京都,秋に大坂,冬・春には江戸で晴天10日間の大相撲を開催し,全国の力士があつまって合同の興行が行われた。とくに谷風・小野川の両横綱や雷電などの強豪力士のそろった天明・寛政期は人気を博し,最初の全盛期となった。1791(寛政3)年には,初の将軍上覧相撲が江戸城吹上庭で挙行され,その後も行われた将軍上覧が相撲に格式と権威をあたえ,相撲は娯楽の花形となった。

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