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山川出版社『詳説日本史』(チェック版:日B519)
       −旧課程の赤版(日史039)との内容比較−≪近代(その2)≫

 昭和戦前期の構成が年代順を意識した構成に変更になったため、赤版よりは理解しやすくなったと思う。
 データが詳しくなったが、追加された記述として特徴的なものは、“軍部 vs それ以外の政治勢力”という図式をクローズアップさせる記述(第一次護憲運動・日独防共協定・南進論の高まり)、大正デモクラシーの規定が一般的なものに変更になったこと、田中義一内閣の対英米協調姿勢がはじめて明記されたことなどである。


  1. 第一次護憲運動
  2. 大戦景気
  3. 民本主義
  4. 三・一独立運動
  5. コミンテルン日本支部
  6. 大正デモクラシー
  7. 憲政の常道
  8. 政党内閣期の内政・外交
  9. 田中義一内閣の外交政策
  10. 昭和恐慌と農山漁村経済更生運動
  11. 1930年代前半の外交・内政
  12. 満州事変
  13. 政党内閣の崩壊
  14. 日独防共協定
  15. 南進論の高まり
  16. 日米交渉と松岡外相
  17. ABCD包囲陣と軍部の危機感
  18. 大東亜共栄圏の実態
  19. 敗戦
  20. その他

第一次護憲運動

p.294 美濃部達吉の憲法論

政党に基礎をおく内閣と軍部が対立するなかで,憲法学者美濃部達吉が政党内閣を支持する憲法論を公刊し(2),世論は立憲政治の大切さに目覚め,陸軍の横暴にいきどおった。明治天皇が死去して大正天皇が即位し,国民があたらしい政治を期待したことも,国民の政治への関心を高めた。
注(2)『憲法講話』(1912年)のなかで,美濃部は天皇機関説とともに政党内閣論をとなえた。

p.294 上原陸相の単独辞職

1912(大正元)年末2師団の増設が閣議で認められなかったことに抗議して,上原勇作陸相が単独で辞表を天皇に提出したため,政党に支持された西園寺内閣は総辞職に追いこまれた。

p.294 桂首相への非難

西園寺のあとをうけて,内大臣と侍従長とを兼任していた桂太郎が,第3次桂内閣を組織すると,宮中と政治の境界をみだすものという非難の声があがり,
[コメント]
 新たに追加記述されたのは、第一次護憲運動頃に美濃部達吉の憲法論が大きな影響を持ちはじめていたこと、上原陸相が単独で辞表を天皇に提出した理由、西園寺内閣が政党に支持されていたこと、桂の首相就任が宮中・府中の別を乱すものであったこと、の4点。そのことによって、“政党に基礎をおいた内閣(ひいては議会に基礎をおいた政治運営) vs 軍部(あるいは政治における権力基盤として天皇を利用する勢力)”という図式をクローズアップさせている。


大戦景気

p.297-298 輸出拡大の原因

戦争によって,ヨーロッパ列強が後退したアジア市場には綿織物などの,また戦争景気のアメリカ市場には生糸などの輸出が激増し,貿易は大はばな輸出超過となった。
[コメント]
 「戦争景気のアメリカ市場」への輸出拡大が追加記述された。

p.298 重化学工業の比重

その結果,重化学工業は工業生産額のうち30%の比重を占めるようになった。
[コメント]
 全く新しい記述。


民本主義

p.299(注1) 民本主義

民本主義はデモクラシーの訳語であるが,主権 在民を意味する民主主義とは一線を画して主権在君を認めたものであった。しかし他方で,吉野は普通選挙制にもとづく政党内閣が下層階級の経済的不平等を是正すべきであると論じており,この面ではきわめて進歩的であった。
[コメント]
 赤版では「民本主義はデモクラシーの訳語であるが、主権在民を主張する民主主義とは一線を画するもので、主権在君の明治憲法を前提として、世論を尊重してなるべく多数の人民を政治に参加させることを主張するものであった。」と記述されていた。それに対してチェック版では、民本主義の現状容認的な側面と革新的な側面とを区別だてして評価しようとしている。


三・一独立運動

p.301 三・一独立運動と植民地統治の変更

日本支配下の朝鮮でも民族自決の国際世論にはげまされて,独立を求める運動が学生や各種の宗教団体をふくめてもりあがり,1919年3月1日のソウルのパゴダ公園での独立宣言の朗読集会を機に,全国各地で独立運動が展開された(三・一運動,万歳事件)。日本の現地支配者は憲兵・警察・軍隊を動員してこれらの独立運動を弾圧したが,朝鮮総督資格者を現役軍人から文官にまで拡大し(3),憲兵警察を廃止するなどの部分的な譲歩もなされた。
注(3)これにより総督の軍隊指揮権はなくなった。ただし,陸海軍人出身者以外の総督が任命されたことはなかった。
[コメント]
 三・一独立運動については、赤版では「京城・平壌などで朝鮮独立宣言が発表され」と記述される程度だったが、少し詳しくなった。そして、三・一独立運動に対する日本の対応(弾圧と文化政治への転換)が新たに記述された。
 また中国の五・四運動も、赤版では注記されるだけだったが、チェック版では本文で記述されるようになった。


コミンテルン日本支部

p.305 無政府主義と共産主義

労働運動の高まりのなかで大杉栄らの無政府主義と共産主義とは対立していたが,社会運動全体における共産主義の影響が増大し,1922(大正11)年7月には,堺利彦・山川均らによって日本共産党がコミンテルンの支部として非合法のうちに結成された。
[コメント]
 記述はほとんど変更ないのだが、同時代性を意識した構成に変更された。赤版では政党内閣期のところの項目「社会主義運動の高揚と挫折」で扱われていたのが、チェック版では1920年代前半の項目「社会運動の勃興と普選運動」で扱われるようになった(なお、赤版では日本共産党の結成がp.312で記述されておりながら、p.306での治安維持法制定の背景の説明のなかで「日本共産党の再建の動きなどがあった」と書かれているという、構成上のミスがあったが、それが解消された)。ただし、チェック版では日本共産党がいったん解散したこと(1926年に再建)が記述されていないため、治安警察法制定の背景の説明のなかの「日本共産党の再建の動き」が何のことやらわからなくなってしまっている。


大正デモクラシー

p.306(注1) 大正デモクラシー

第一次護憲運動から男子普通選挙制の成立までを「大正デモクラシー」とよぶことが多いが,普選をとおして労働組合法や小作法を成立させる運動が続いた政党内閣時代も「大正デモクラシー」にふくめる場合もある。さらに,日露戦争の講和に反対した民衆運動をこれにふくめる学説もある。このように「大正デモクラシー」という言葉は時代の雰囲気をあらわすもので,学問的に定義しきれないものである。
[コメント]
 赤版では「この政党内閣時代を「大正デモクラシー」期とよぶことがある。また、第一次護憲運動以来、普通選挙制成立までをさす場合もある。」と、極めて特異な説明がなされていたが、チェック版では一般的な説明に変更された。


憲政の常道

p.306 護憲三派内閣

加藤内閣は,協調外交を基本とし,1925(大正14)年にいわゆる普通選挙法を成立させた。
[コメント]
 「協調外交を基本とし」という記述が新たに追加された。執筆者はおそらく単に並列しただけなのだろうが、読み方によっては、“協調外交を基本としたこと”と“普通選挙法の成立”とが因果関係をもっているようにも取れる。

p.306-307 二大政党時代

1927(昭和2)年に若槻内閣が台湾銀行救済問題で退陣すると,政友会総裁の田中義一が後継内閣を組織し,野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結成した。これ以後1932(昭和7)年に犬養内閣がたおれるまで,政友会と民政党の総裁が交互に内閣を担当する二大政党時代が続いた(憲政の常道)(1)。
注(1)おむね,政友会内閣は内政では保守的,外交では中国に対して強硬策をとり,財政では積極財政をとった。民政党内閣は内政では自由主義的で,中国に対しては不干渉主義,財政では緊縮財政であった。
[コメント]
 第二次護憲運動によって実現した政党内閣の慣行が“憲政の常道”と称されていることが明記された。また、政友会内閣・民政党内閣のそれぞれの特色についての記述も新しく追加された。


政党内閣期の内政・外交

p.307-313

[コメント]
 記述で変更になった点はそれほど多くないが(次で触れる)、構成が大きく変更になっている。赤版では分野ごとに記述されていて、「戦後恐慌から金融恐慌へ」→「金解禁と世界恐慌」(浜口内閣の経済政策を説明)→「協調外交の挫折」(田中内閣の強硬外交と浜口内閣での統帥権干犯問題を説明)→「社会主義運動の高揚と挫折」(日本共産党の結成・再建と無産政党の結成、田中内閣による共産党への弾圧を説明)という構成がとられていた。
 それに対してチェック版では年代順に記述する構成に変更になっている。つまり、「戦後恐慌から金融恐慌へ」→「不況下の社会運動と積極外交への転換」(無産政党の結成、田中内閣による共産党への弾圧、中国への強硬外交を説明)→「金解禁と世界恐慌」(浜口内閣の経済政策と農山漁村経済更生運動を説明)→「協調外交の挫折」(統帥権干犯問題を説明)という構成がとられ、読みやすくなった。


田中義一内閣の外交政策

p.310 英米協調と中国への強硬外交

幣原外交を批判してきた立憲政友会も1927(昭和2)年に政権につくと,欧米諸国との協調は維持し,同年ジュネーヴで開かれた日・英・米の3国が補助艦の制限のための海軍軍縮会議(ジュネーヴ会議)に参加したが,交渉はまとまらなかった。翌1928(昭和3)年にはパリで不戦条約にも調印した(1)。しかし,中国政策では全国統一をめざして北上する国民革命軍(北伐軍)から親日的な満州軍閥の張作霖をまもろうとして,日本人居留民の保護をかねて,1927〜28(昭和2〜3)年に3次にわたる山東出兵を行い,強硬外交に転じた。
注(1)この条約は,国際紛争解決の手段としての戦争を行わないことを,「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」宣言したもので,翌年の批准にさいして,日本政府はこの部分は天皇主権の憲法を持つ日本には適用されないものと了解すると宣言した。
[コメント]
 チェック版でようやく田中内閣の対欧米諸国の外交政策が説明されるようになった。ちなみに、赤版では田中内閣のもとでのも英米協調が維持されたことは全く記述されておらず、不戦条約についても全く記述されていなかった−ジュネーブ会議は注記されていた−。


昭和恐慌と農山漁村経済更生運動

p.312 農山漁村経済更生運動

こうしたなかで農村救済請願運動が高まると,政府は1932(昭和7)年度から公共土木事業を行って農民に現金収入の途をあたえた。しかし,軍事費の膨張にともなってこの事業は縮小され,産業組合を中心に農民を結束させて「自力更生」をはからせる農山漁村経済更生運動が中心になっていった。
[コメント]
 ピックアップした文章だけではわかりにくいが、この農山漁村経済更生運動の記述は、構成上、浜口内閣の説明のなかに組み込まれている(この直前が井上財政と昭和恐慌の説明で、この後にロンドン海軍軍縮条約の説明が続く)。ところが、文中にでてくる「政府」とは犬養毅内閣であり、農山漁村経済更生運動をすすめていったのは斎藤実内閣である。赤版にあったコラム「恐慌下の農村」をカットしたために起こったミスだと思うが、この文章だと公共土木事業を行ったり、農山漁村経済更生運動を推進したりした政府が浜口内閣だと誤解する可能性がある(年代に注意すれば間違うことはないのだが)。


1930年代前半の外交・内政

p.316-323

[コメント]
 記述で変更になった点もあるが(あとで触れる)、それ以上に構成が大きく変更になっている。
 赤版では、「満州事変と国際連盟脱退」(第二次若槻内閣〜斎藤内閣による連盟脱退までを外交中心に説明)→「政党内閣の崩壊」(三月事件から岡田内閣期の陸軍パンフレットまでを内政中心に説明)→「重化学工業の発達」(高橋財政と1930年代半ばにかけての経済を説明)→「転向の時代」(1932-33年の転向から国体明徴声明までの内政を説明)→「二・二六事件と三国防共協定」(二・二六事件と広田内閣、三国防共協定の締結を説明したあと、宇垣流産内閣から近衛内閣成立への経過を説明)となっていたが、チェック版ではできる限り年代順になるように配慮されている。
 構成は「満州事変」(満州国建国とリットン調査団の派遣までを説明)→「政党内閣の崩壊と国際連盟脱退」(三月事件から五・一五事件に至る内政を説明したあと、日満議定書・連盟脱退を説明し、さらにワシントン・ロンドン両軍縮条約の失効を説明)→「重化学工業の発達」→「転向の時代」(1932-33年の転向を中心に説明)→「二・二六事件」(岡田内閣から近衛内閣の成立までを説明)→「三国防共協定」(イタリア・ドイツの情勢と防共協定の調印までを説明)と変更されている。


満州事変

p.316 第二次若槻内閣の外交政策

1928年末,中国では不平等条約撤廃・権益回収を要求する民族運動が高まり,国民政府は公式に満州における日本の権益回収の意向を表明するに至った(1)。1931(昭和6)年4月に成立した第2次若槻内閣の外交交渉では満蒙問題の解決は進まず,陸軍とりわけ関東軍は危機感を深め,武力によって満州を日本の勢力下におこうと計画した。

p.317(注2) 満州国の建国

関東軍には満豪の日本領土化の意図もあったが,軍部の慎重論もあり,中国本土と切りはなし,独立国とする計画を進めた。政府はこれを九カ国条約に違反するとして反対していた。
[コメント]
 中国の国権回復運動のなかで“第二次若槻内閣の外交交渉では解決が進まなかったこと”が明記され、さらに満州占領から満州国建国へいたる関東軍の計画が説明された。また、犬養内閣が満州国承認に反対した理由も明記された。


政党内閣の崩壊

p.318 斎藤内閣の成立

この一連の直接行動は支配層をおびやかし,五・一五事件のあと,元老西園寺公望は穏健派の斎藤実海軍大将を首相として推薦し(1),
注(1)成立した斎藤内閣は非政党員の有力官僚を入閣させたが,立憲政友会・立憲民政党の有力者も閣僚とした。しかし,以後しだいに議員・党員の入閣数は減少していった。
[コメント]
 「この一連の直接行動」の直前には、赤版では「これらの青年将校および右翼は、日本のゆきづまりが、元老・重臣・財閥・政党などの支配層の無能と腐敗にあるとして、これらをたおして軍中心の強力な内閣をつくり、内外政策の大転換をはかろうとしたのである。」という説明があったが、チェック版ではカットされた。
 また、赤版は「政党の総裁ではない穏健派の斎藤実海軍大将が「挙国一致」内閣を組織した。」とあったが、チェック版では“挙国一致内閣”との評価が消えた。


日独防共協定

p.323 防共協定調印の主導勢力

軍部の主導で,1936(昭和11)年,広田内閣が防共を旗印として日独防共協定を結び,
[コメント]
 「軍部の主導で」が追加記述され、日独防共協定の調印が軍部主導であったことを明記した。


南進論の高まり

p.328 南進論の高まりと反対派

陸軍を中心に,対米英戦を覚悟してもドイツと結んで南方に進出しようという空気が急速に高まった。こうした動きに対して議会内や政界上層部に反対の空気があったが,それをかえるだけの力はなかった(1)。
注(1)1940(昭和15)年2月の議会で斎藤隆夫は,軍部に対する激しい批判演説を行い,軍の圧力のもとで議員を除名された。政界上層部の「親英米派」とよばれた人びともさまざまな攻撃をうけた。
[コメント]
 「こうした動きに対して議会内や政界上層部に反対の空気があったが,それをかえるだけの力はなかった。」との文章と注(1)とが追加され、“陸軍=戦争推進勢力 vs 議会内や政界上層部の親英米派”という図式をクローズアップしている。なお、「政界上層部」とはどのような人々をさすのか、具体的な人名をあげるなどの補足説明が欲しかった。


日米交渉と松岡外相

p.329 日米交渉

日独伊三国同盟を締結し,この年4月に日ソ中立条約を結び,こうした力を背景にアメリカを屈服させようとしていた松岡洋右外相は,必ずしもこの日米交渉に積極的ではなかったが,近衛と軍部はこれを推進した。
[コメント]
 赤版では「日独伊三国軍事同盟を締結した。松岡洋右外相はさらに翌1941(昭和16)年4月、日ソ中立条約をむすび、こうした力を背景に、悪化しつつあったアメリカとの関係を調整しようとしたが、逆に三国同盟が日米の対立を深刻にさせるもとになった。」と記述されていた。


ABCD包囲陣と軍部の危機感

p.329 ABCD包囲陣に対する軍部の主張

アメリカは日本に経済制裁を加えることで対外進出を抑止しようとした。それに対し軍部は危機感をつのらせ,「ABCD包囲陣」による圧迫をはねかえすには戦争にうったえる以外に道はないと主張した。
[コメント]
 赤版は「アメリカは日本に経済制裁を加えることで、その対外進出を抑止しようとした。しかし、それはかえって軍部に危機感をつのらせ、戦争にうったえる以外には、いわゆるABCD包囲陣による圧迫をはねかえせないという主張を強力なものとした。」と記述され、“アメリカの経済制裁がかえって軍部を戦争へと追い込んだ”という印象を与えていた。しかしチェック版では「それに対し軍部は・・・・・主張した。」と記述され、微妙に評価が変化している。


大東亜共栄圏の実態

p.331 占領地域の独立と大東亜会議

東条内閣は,東南アジア地域の欧米植民地を独立させ,1943(昭和18)年にはその政府の代表者を東京にあつめて大東亜会議をひらき,アジアの欧米植民地からの脱却をうたった。

p.332 占領地域の抵抗

軍事占領の当面の目的が資源獲得にあり,そのため現地の歴史や文化を無視した軍政当局が,日本語の教育や神社参拝の強要,強制労働,集会の禁止などの施策をとり,またシンガポールその他の地域で残虐行為も行われたことから,住民の反感を招き,日本軍は各地でしだいに住民の抵抗運動になやまされるようになった(1)。
注(1)日本の敗戦後,これらの運動は旧植民地支配者の軍と戦い,自力で独立をかちとり,結局,アジアにおける欧米の植民地は一掃された。
[コメント]
 大東亜会議の開催について、赤版では「東南アジア地域の一部の人々から協力をえ」とあったのが、チェック版では「東南アジア地域の欧米植民地を独立させ」と変更されたが、これだとマライやオランダ領東インド(ジャワ・スマトラ・ボルネオなど)、フランス領インドシナなども独立させたかのような誤解を与えてしまう。また、大東亜会議の内容(アジアの欧米植民地からの脱却をうたったこと)、日本の支配に対する反抗の具体例が追加記述され、さらにアジア太平洋戦争中に日本が軍事占領した地域が日本の敗戦後に“自力で”独立を勝ち取ったことが記述された。


敗戦

P.333 

敗戦 アメリカ軍は1944(昭和19)年10月フィリピンに上陸,翌1945(昭和20)年2月硫黄島,4月沖縄本島に上陸した。
[コメント]
 「アメリカ軍は・・・」以下の記述は赤版と全く変更がないのだが、「敗戦」との表記で新たな項目がたてられた。


その他

p.304 平塚らいてうの表記

平塚らいてう(明)
[コメント]
  赤版では「平塚明子(雷鳥)」。

p.315 大正〜昭和初期の音楽

音楽では唱歌とともに童謡がさかんに歌われるようになり,山田耕筰らが作曲や演奏に活躍した。

p.319 高橋財政

赤字国債の発行による軍事費を中心とする財政膨張
[コメント]
  軍事費を中心とする財政膨張が「赤字国債の発行」によってまかなわれていたことが新しく記述された。

p.320 「右翼」か国家社会主義か

残った人びとは合同して社会大衆党を結成したが,その党もしだいに国家社会主義化していく傾向を示した。
[コメント]
  赤版では「「右翼」化していく」とされていたが、チェック版では「国家社会主義化していく」に変更された。なお、国家社会主義については、赤版同様、日本国家社会党の綱領が注記されることで内容の説明にあてられており、また「右翼・革新」という表現も残存している(「反既成政党・現状打破・革新を主張する勢力」p.320)。

p.322 広田内閣の「国策の基準」

広田内閣は「国策の基準」を決定した。これは,大陸と南方とを日本中心にブロック化することを国策とし,外交刷新・国内改革を行っていくというものであった。これにしたがって対外的には日独防共協定を結び,華北分離策などを進め,大規模な軍備拡張計画が推進されていった。
[コメント]
  広田内閣が日独防共協定を結んだこと(赤版では締結した内閣を明記していなかった)、華北分離工作を拡大したことが新たに記述された。

p.322 宇垣流産内閣

陸軍の穏健派宇垣一成
[コメント]
  「陸軍の穏健派」という説明が追加記述された。

p.322 林内閣の軍財抱合

林銑十郎内閣が成立し,軍部と財界との調整をはかったが(軍財抱合),
[コメント]
  赤版では林内閣の政策は全く説明されていなかったが、チェック版では“軍財抱合”が新たに説明された。

p.324 「盧溝橋」の表記

盧溝橋事件
[コメント]
  赤版では「蘆溝橋事件」との旧表記が用いられていたが、「盧溝橋事件」に変更された。

p.324 日中戦争

この「事変」は,はじめ「北支事変」ついで「支那事変」と名称をかえたが,相互に宣戦布告をしなかったものの,実際には全面的戦争に発展していった。
[コメント]
  「相互に宣戦布告をしなかったものの」という記述が追加された。

p.327 ドイツのズデーテン併合

ナチス=ドイツが積極的にヴェルサイユ体制の打破にのりだし,1938年オーストリアを併合し,さらにチェコスロヴァキアにも併合の手をのばした。
[コメント]
  赤版では、この記述のあとに「イギリスは、この問題の処理を英・独・仏・伊の4附綜脳によるミュンヘン会談で解決しようとしたが、結果はイギリス・フランスの対独屈服に終わり、チェコスロバキアの一部はドイツに割譲された。」と記述されていたが、カットされた。

p.329 皇民化政策

また朝鮮・台湾でも,日本語教育の徹底,姓名を日本風に改める創氏改名の強制などの「皇民化」政策が推進された。

p.330(注2) 真珠湾攻撃

アメリカに対する交渉打切り通告がおくれたため,日本は「だまし撃ち」の汚名をきることになった。またアメリカ人は「リメンバー・パール・ハーバー」と対日憤激を高めることになった。

p.332(注2) 植民地での徴兵・従軍慰安婦の徴集

朝鮮では1943(昭和18)年,台湾では1945(昭和20)年に徴兵制がしかれた。また女性の場合,戦地の軍の慰安施設で働かされたものもあった。

p.333 戦争末期の国民生活

兵器生産は1944(昭和19)年まで増加したものの,一般の工業生産は縮小していった。衣料では総合切符制がしかれたが,切符があっても物がない状況となり,成人1日2.3合( 330g)の米穀配給も,いもなどの代用品の割合がふえていった(1)。
注(1)開戦1年後の世帯調査では,購入回数のうち闇価格によるものが穀類では3分の1以上を,生魚介・乾物・蔬菜類では半分近くを占めていた。また,国民1人当りのエネルギー摂取量は1942(昭和17)年に 2000kcalを割り,1945(昭和20)年には1793kcalまで低下した。

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