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山川『詳説日本史』の新課程(2012年検定済み)の見本版の内容チェック

原始・古代


  1. 01 奈良県纏向遺跡の追記
  2. 02 埴輪
  3. 03 新しいセクション《古墳の終末》
  4. 04 有力王族の皇子宮と中央有力豪族の邸宅における職掌の分散
  5. 05 新しいセクション《地方官衙と「辺境」》
  6. 06 長岡京・平安京遷都と奈良の大寺院の関係
  7. 07 摂関政治のもとでの政治の運営
  8. 08 平安中期の国際関係
  9. 09 埋納経筒
  10. 10 平安中期における国司制度の変化
  11. 11 荘園

01 ようやく奈良県纏向遺跡が追記され(p.22),「邪馬台国との関連で注目されている」と書かれ,邪馬台国近畿説が有力であることをうかがわせる記述となっている。
02 埴輪について,「弥生時代後期に吉備地方(岡山県・広島県東部)で有力な首長墓に供えられた特殊壺を載せる特殊器台に起源をもつ」との説明が追記された(p.24)。
ヤマト政権を「大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた」(p.23)と説明しているものの,ヤマト政権の形成に吉備地方が関与していたことをうかがわせる記述となっている。
03 《古墳の終末》というセクションが新しく設けられ,6世紀末以降の終末期古墳の説明が追加された(p.31-32)。
「倭国も大王を中心とする中央集権的な国家形成をめざすようになり,古い首長連合体制やその象徴である前方後円墳の造営と決別したものであろう」と書かれ,推古朝の国内政策(p.34-35)と関連づけられている。さらに,7世紀中頃以降には大王の墓が八角墳となったことを追記し,「一般の豪族層を超越した存在であることを墳墓のうえでも示そうとしたしたものであろう」と指摘し,「統一国家から律令国家への動き」に関連づけてある。
04 ヤマト政権の政治組織を説明するなかで,「奈良盆地南部には,大王の住む大王宮を中心に有力王族の皇子宮やヤマト政権を構成する中央有力豪族の邸宅が集中し,それぞれに中央の中小豪族,地方豪族や伴などが奉仕していた」と追記された(p.33)。
この直前に,伴造が「伴やそれを支える部と呼ばれる集団を率いて」「職掌を分担」していることが書かれていることを念頭に置けば,ここの「中央の中小豪族,地方豪族」とは伴造を指すものと判断してよく,この結果,大王ら王族のミヤと中央有力豪族のヤケのもとに伴造とその率いる伴が分散的に奉仕し,職掌を果たしている様子が描かれることになった。それならば,「中央の政治は臣姓・連姓の豪族から大臣・大連が任じられてその中枢を担い」とのみ記述するのではなく,大王を中心として王族や中央の有力豪族をまとめる政治組織のあり様についても説明してほしかった。
なお,先の記述が追加されたことで,6世紀末以降についての「有力な王族や中央豪族は大王宮とは別にそれぞれ邸宅をかまえていたが,大王宮が集中し,その近辺に王権の諸施設が整えられると,飛鳥の地はしだいに都としての姿を示すようになり」(p.36)という記述が,推古朝の「氏族単位の王権組織を再編成しようと」(p.35)する諸政策に密接に関連づいてきたと言える。
05 《地方官衙と「辺境」》というセクションが新しく設けられ(p.47),駅家や国府,郡家の説明,蝦夷や隼人,南西諸島の島々との関係が独立した。そのなかで,郡家や木簡の説明が発掘成果に即して詳しく説明されている。
とともに,「種子島・屋久島も行政区画化されるなど南西諸島の島々も政府に赤木などの産物を貢進する関係に入った」(p.49)との記述が追加された点が注目される。特に種子島・屋久島の行政区画化。最近では,10世紀末には大宰府によって奄美地域に「貴駕島」(貴賀島)とよばれる行政機関が設置され,南九州以南から喜界島までの範囲が「キガイガシマ」などと呼ばれていたとされ(たとえば上里隆史『海の王国・琉球』洋泉社歴史新書),この知識を介せば,p.71の「11世紀に成立した『新猿楽記』という書物には,「商人の主領」として描かれた人物が,東は「俘囚の地(奥州)」から西は「貴賀の島(九州の南)」にわたって活動し,唐物や日本のたくさんの品々をとり扱ったとしるされている」との記述(現行版ではコラム<広がる国際関係>のなかにある),p.75に新しく追記された,螺鈿の「材料の貝には奄美大島や喜界島などの南島でとれる夜光貝や芋貝が用いられた」への繋がりを意識することができる。
06 長岡京・平安京遷都と奈良の大寺院の関係について,「長岡京・平安京に移転することを認めず」と桓武天皇の施策として説明されていたのが,「長岡京・平安京への遷都では南都奈良の大寺院が新京に移転することはなく」と,事実を説明するだけの記述に修正された(p.65)。
つまり,奈良の大寺院が新京に移転しなかったのは,桓武天皇が移転を認めなかったからではない,というのか。この点について事情をご教示いただけないでしょうか?>どなたか
07 摂関政治のもとでの政治の運営について。
現行版の「しだいに先例や儀式を重んじる形式的なものとなり」との記述がカットされ,脚注にあった記述が本文に移る形で置き換えられた。その記述は次の通り。
「おもな政務は太政官で公卿によって審議され,多くの場合は天皇(もしくは摂政)の決裁を経て太政官符・宣旨などの文書で政策が命令・伝達された。外交や財政に関わる重要な問題については,内裏の近衛の陣でおこなわれる陣定という会議で,公卿各自の意見が求められ,天皇の決裁の参考にされた。」(p.70)
最後の「天皇の決裁の参考にされた」のみが新しく追記された部分なのだが,p.69の脚注で「関白とは,天皇と太政官とのあいだの文書などのやりとりすべてに「関り白す」(関与する)という意味で,これが地位の呼び名になった。」との説明が追加されたこととあわせ,天皇が政治運営の中枢に位置する形が摂関政治のもとでも継続していること,それが必ずしも形式的なものではないことが表現されることになった。明記されていないとはいえ,受領功過定を通じて受領の勤務を審査し,それによって受領を統制しながら財源を確保していた当時の朝廷のあり様が示唆されたと言える。
なお,「先例や儀式を重んじる」との記述がカットされた関係から,年中行事の整備は国風文化の項へ移った(p.78)。
08 《国際関係の変化》にさまざまな記述が新たに追加され(p.71),その代わりに現行版にあるコラム「広がる国際関係」がカットされた。
追加されたのは,まず
「8世紀末に新羅からの使節の来日はなくなるが,9世紀前半には新羅の商人が貿易のために来航するようになった。やがて9世紀の後半には,唐の商人が頻繁に来航するようになり,朝廷では彼らとの貿易の仕組みを整えて,書籍や陶磁器などの工芸品の輸入につとめた。」
との記述です。そして,この記述が894年の遣唐使派遣を停止すべきとの菅原道真の建議の背景として配置されている。
第二に,五代十国の諸王朝について
「このうちの江南の杭州に都をおいた呉越国からは日本に商人が来航して,江南の文化を伝えた。」
との説明が追加された。村上天皇の953年に呉越に渡った天台僧日延のもたらした浄土教関係の仏典が,日本における浄土教の発展に大きな役割を果したこと(たとえば榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』講談社メチエ選書)などを念頭においた記述なのだろう。ただ具体的な内容が書かれておらず,どこにも関連づけられておらず,単に歴史用語が増えただけになってしまっている。呉越や宋との交流が国風文化に影響を与えている点を,具体的な形で表現してほしかったところです。
第三に,宋と正式な国交を開かなかった理由として,「東アジアの動乱や中国中心の外交関係(朝貢関係)を避けるために」との記述が追加された。
第四に,宋の成立とともに始まった日宋貿易について(「日宋貿易」との用語はないが),「九州の博多に頻繁に来航した宋の商人を通じて,書籍や陶磁器などの工芸品,薬品などが輸入され,かわりに金や水銀・真珠,硫黄などが輸出された。」との説明が追加された。
09 国風文化について(p.74-76)。
経塚の説明と写真(「藤原道長埋納経筒」)が追加された。
「法華経などの経典を書写し,これを容器(経筒)におさめて地中に埋める経塚も,各地に営まれた。」
(脚注)「藤原道長が1007(寛弘4)年に法華経を金銅製の経筒におさめて埋納した金峰山経塚が有名である。」
このことにより,平安中期の貴族社会に広まっていた仏教が浄土教だけではないことが,よりはっきりと意識できるようになった,と言えます。
次に,螺鈿が脚注から本文へと移り,「片輪車螺鈿蒔絵手箱」の図版が追加され,螺鈿の脚注に「材料の貝には奄美大島や喜界島などの南島でとれる夜光貝や芋貝が用いられた」との記述が追加された。
10 平安中期における国司制度の変化について(p.78)。
まず,「受領」が登場する経緯が具体的に記述されるようになった。
「9世紀末から10世紀前半にかけて国司の交替制度を整備し,任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)に,大きな権限と責任とを負わせるようにした。この地位は,新たに任じられたものが,交替の際に一国の財産などを前任者から引き継ぐことから,やがて受領と呼ばれるようになった。」
ただ「大きな権限と責任」がどのような内容をもつものなのかは明記されていない。この文章の前に「租や調・庸を取り立てて,諸国や国家の財政を維持することはできなくなっていた。」と書かれているので,それとの関係のなかで類推は可能だが(次に紹介する,あとの記述からも類推は可能),具体的に説明してほしかった。
次に,受領の職務内容・中央政府との関係についての記述が変更になっている。現行版では,「国司に一定額の税の納入を請け負わせ,そのかわりに一国内の統治をゆだねるように方針を転換した。」「任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)は,政府に対する徴税請負人の性格を強めて受領とよばれるようになり」と書かれていたが,これらの記述が全てカットされた。その代わり,「受領は,郡司に加えてみずからが率いていった郎等たちを強力に指揮しながら徴税を実現し,みずからの収入を確保するととも国家の財政を支えた。」と説明されている。「徴税請負人」という(微妙な)テクニカル・タームが消えたことで端的な説明がしにくくなったかもしれないが,受領が中央への税物の納入と国内での徴税の責任を負ったこと,中央への納入と国内でどのように徴税するかが別ものであったことが修正されたわけではない。とはいえ,その点は本文だけからは読み取りにくい。最初に引用した「大きな権限と責任」のところで具体的に説明しておいてほしかった。
11 荘園について(p.80-81)。
山川出版社のサイトに以前掲載してあった「日本史B詳説日本史 改訂の要点」では,記述を追加したり見直したものの一つに「荘園」が挙げられていたので,史料「鹿子木の事」が削除されることも含めて期待していたのだが,完全な肩透かしに終わっている。
まず,史料「鹿子木の事」は掲載されたままである。ただし,「この文書を伝えた東寺は,第一条に記されているように開発領主の権利を継承していると主張している。そのためこの文書では,開発領主→荘官側の権利を実態より大きく記している可能性が大きい。」との補注が追記された。おそらく執筆のなかでの攻防の跡なのだろう。今後を期待したい!
第二に,開発領主についての説明のなかから「みずからの開発地に対する支配権を強めていった。彼らの多くは在庁官人となって国衙の行政に進出したが,」との記述がカットされた。前半部分は,史料「鹿子木の事」に加えられた補注と関係があるものと想像される。
第三に,「不輸・不入の権の拡大によって,荘園における土地や人民の私的支配が強まり,寄進地系荘園の拡大はこの傾向をいっそう強めた。」との記述がカットされた。荘園のもつ(半ば)公的な性格に注目したものなのだろうか。やや意図をはかりかねます。
第四に,不輸・不入の権が拡大した結果について,「その結果,11世紀後半になると,受領から中央に送られる税収が減少し,律令制で定められた封戸などの収入が不安定になった皇室や摂関家・大寺社は,積極的に寄進を受け,さらに荘園の拡大をはかるようになった。」との記述が追加された。
この記述は,p.89の知行国制に関する記述(「これは貴族の俸禄支給が有名無実化したため,その経済的収益を確保する目的で生み出された。」)と両立することを明確に意識しているのだろうか。荘園制の確立と知行国制の形成が(ほぼ)同時代であることを念頭におけば,「受領から中央に送られる税収が減少し,律令制で定められた封戸などの」「貴族の俸禄支給」が不安定,あるいは有名無実化したために,天皇家・摂関家などによる荘園の集積と,知行国制の形成とが進むことを,もっと明確に関連づけて説明すべきではなかったか。
ところで,「受領から中央に送られる税収が減少し」たことの理由を不輸・不入の権の拡大に求めるのは難しいのでは?この時期以降の荘園が完全な不輸の権を持つわけではないことはよく知られていることだし,不入の権が一般化するのは12世紀半ばではなかったのか(実際,p.89には現行版通り,鳥羽上皇の時代についての説明として「不輸・不入の権をもつ荘園が一般化し」と書かれている)。こうした説明をするより,藤原道長の頃から院政期にかけて大規模造営が広がるなか,受領が任国で徴収した財はそちらへの奉仕に優先的にふり向けられたことを説明してほしかった,と思う。
なお,「11世紀後半になると」と表現するのであれば,院政期できちんと説明するのが筋ではないだろうか。史料「鹿子木の事」にしても,高方が藤原実政に寄進したとされるのは1086年,実政の末流願西が高陽院内親王に寄進したとされるのが1139年である(掲載されている史料の脚注には年次は明記されていない)。荘園の絵図として掲載されている「紀伊国カセダ荘の図」にしても,立荘が12世紀末と明記されている。ならば,摂関政治期ではなく,セクション《荘園の発達》を全て院政期に配置するのが妥当なのではないか。同時代性を全く意識しない構成が残されていて,それでよいのだろうか。
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