山川2003の変更箇所[目次] [原始・古代] [中世] [近世] [近現代]
山川『詳説日本史』の新課程(2012年検定済み)の見本版の内容チェック

中世


  1. 01 平忠盛と殿上人
  2. 02 鎌倉幕府の西国御家人
  3. 03 源実朝暗殺事件
  4. 04 連署・評定衆が設置されたタイミング
  5. 05 北条時頼の治世
  6. 06 鎌倉時代に新しいセクション《琉球とアイヌの動き》
  7. 07 神人・供御人
  8. 08 有徳人
  9. 09 室町時代の構成の変更
  10. 10 代官請など荘園年貢の請負契約
  11. 11 明の外交政策
  12. 12 蠣崎氏と武田信広の関係
  13. 13 土一揆の配置と内容説明の修正
  14. 14 山城の国一揆や加賀の一向一揆
  15. 15 室町時代の商品流通の広まり
  16. 16 戦国大名
  17. 17 戦国時代の町

01 平忠盛について,「殿上人となって貴族の仲間入りをし」との記述が追加されたp.90。
もともと「源平両氏は地方武士団を広く組織した武家(軍事貴族)を形成」p.84(現行版と同じ)と説明されていたのに,忠盛がそれ以前,「貴族」ではなかったかのような記述となっている。
「貴族」が古代とは異なった概念で用いられている,と言える。五位以上の位階をもつもの=貴族は,昇殿制が整って以降,昇殿を許されたもの(堂上)と許されないもの(地下)に分かれるが,ここでは前者のみを「貴族」と呼んでいる。突然に概念を変更すると,読み手に混乱を与えてしまう。
なお,「殿上人」との用語はここが初出である。平安中期で記述せずに,平忠盛の説明で初出させたのはなぜか。もっと全体的な構成を考えて用語を使ってほしい。
02 西国御家人の説明(脚注)が次のようになった。
「御家人の中でも西国御家人の多くは地頭に任じられることなく,守護を通じて御家人として登録され,京都大番役をつとめ,幕府の保護を受けた。」p.99
このうち,「京都大番役をつとめ」が新しく追加された箇所である。治承・寿永の乱が終わって以降,御家人制が京都大番役という国家的軍務を担う存在として整えられていったとの学説を意識した記述なのだろうか。
03 源実朝暗殺事件が「上皇との連携をはかっていた将軍実朝が(中略)暗殺される事件」と書かれたp.101。
このうち,「上皇との連携をはかっていた」が新しく追加されたことにより,続く「これをきっかけに,朝幕関係が不安定になり」との説明にうまくつながるようになった。
04 連署・評定衆が設置されたタイミングが,「政子の死後」と明記されたp.102。
実質的に将軍を代行して政務を決裁していた北条政子の死去にともない,執権・連署・評定衆の合議にもとづいて執権が政務を決裁する体制へと移行したことを暗示する記述となった。
05 北条時頼の治世についてp.103-104。
第一に,執権就任直後の動きについての説明が修正されたが,修正後の文章に問題がある。
「時頼は1247(宝治元)年に、三浦泰村一族を滅ぼして(宝治合戦)、北条氏の地位を不動のものとすると、朝廷には政治の刷新と制度の改革を求めた。これを受けて後嵯峨上皇の院政下に評定衆がおかれ」p.103と書かれているが、院に評定衆が置かれたのは前年。藤原頼経の京都送還をカットしたうえで、「不動のものとすると」と契機を意味する接続表現に修正されたため、誤りの文章になってしまった、と言える。それとも、後嵯峨上皇の院政下に評定衆が設置された年代が実は1246年ではなく1247年だと判明したのだろうか?
第二に,宗尊親王を将軍に迎えた記述のあとに,「さらに大陸の文化を積極的に受け入れ,禅宗の本格的寺院である建長寺を造営し,鎌倉を武家の都として整えていった。」と追記された。
泰時のところでは,「京都の文化を積極的に取り入れる」との説明が追加されたことに対応したものと思うが,「鎌倉を武家の都として整えていった」というのなら,まずは泰時が鎌倉番役を整えたことを明記すべきだと思う。
06 蒙古襲来と得宗専制政治のあとに,セクション《琉球とアイヌの動き》が新しく追加され,琉球のグスク時代とアイヌ文化の始まりが説明されたp.109-110。
そのなかで「アイヌの人びとのうちサハリンに住んでいた人びとは,モンゴルと交戦しており,モンゴルの影響は広く日本列島におよんでいった。」と書かれ,蒙古襲来が文永・弘安の役にとどまらないことが示された。
07 神人・供御人が脚注から本文に移ったp.111。
まだ「座の構成員のうち,大寺社に属したものは神人,天皇家に属したものは供御人と呼ばれた。」と書かれているにすぎないが,執筆をめぐる攻防の跡だろうか。
08 鎌倉文化の最後に「京都・鎌倉をはじめとして,備後の尾道など各地の港や宿といった町の遺跡」について説明した後(「備後の尾道」以外は現行版通り),「こうした町には,有徳人と呼ばれる富裕な人びとが成長していた。」と追記されたp.119。
経済の最後に書くべき内容ではないか?
09 室町時代の構成が変更となっているp.127-138。
《室町幕府》→《東アジアとの交易》→《琉球と蝦夷ヶ島》と続き,「2.幕府の衰退と庶民の台頭」と節を改めたあと,《惣村の形成》→《幕府の動揺と土一揆》(足利義教期)→《応仁の乱と国一揆》→《農業の発達》→《商工業の発達》という構成に修正された。
そのため,戦乱などの政治過程と土一揆との同時代性で把握しやすくなった。
10 荘園年貢の請負契約について。
「鎌倉時代後期以降の荘園や公領では,代官を任命し,毎年一定の年貢の納入を請け負わせる方式(代官請)が一般化した。地頭請や守護請もその一つであるが,代官にはこの他,禅僧や商人,金融業者が任命されることもあった。」との説明が追記されたp.123。
五山禅僧や土倉らの活動の広まりが新しく書き加えられた。
11 明の外交政策について。
「明は,倭寇対策として国王以外には貿易を認めない方針(海禁政策)をとったため,明との貿易には,明の皇帝から「国王」の称号を得ることが不可欠であった。」との脚注が追加されたp.128。
「国王以外には貿易を認めない」形式が明記されたのはよいが,その方針を「海禁政策」と規定してよいのか。「海禁」とは「下海通番之禁」の略で,中国人の海外渡航と貿易を禁止した政策を「海禁政策」と称するのが一般的ではないのか。
12 蠣崎氏と武田信広の関係について。
「蠣崎氏の祖武田信広」と書かれているp.131。武田信広は蠣崎氏の客将で、のちに蠣崎氏を継いだ、のではないのか!?
13 土一揆の配置が変更され,説明もやや修正されたp.133。
現行版では惣村の説明とセットだったのが分離され,6代足利義教の治世の説明のあとに配置され,説明も「惣村の結合をもとにした農民勢力が,一部の都市民や困窮した武士とともに,徳政を求めて蜂起したもの」と修正された。
現行版と比べると「惣村の結合をもとにした」との部分は残ったものの,新しく「一部の都市民や困窮した武士とともに」との説明が追加された。
土一揆を村ぐるみの農民闘争とする考え方が修正されつつある状況を反映したものと言えるが,「一部の都市民や困窮した武士」がなぜ土一揆に参加したのか,武士のなかに「困窮」したものがいたのはなぜか,などが不明なままである。少なくとも飢饉に触れてあればよかったのではないかと思う。
14 山城の国一揆や加賀の一向一揆を,現行版は「国人一揆」として説明しているが,「国一揆」と修正されたうえで,次のような注記がつきp.135,現行版の記述がきれいさっぱり否定された。
「国一揆は,武士だけでなく,地域住民も広く組織に組み込んでいた点で,国人一揆と区別される。山城の国一揆のほか,伊賀惣国一揆や近江の甲賀郡中惣などが知られており,ときには住民の要求を受けて,独自の徳政令(在地徳政令)を発布することもあった。」

15 室町時代の商品流通の広まり。
背景が「年貢の銭納の普及と農村加工業の発達により」と説明され,新しく「年貢の銭納の普及」が追記されたp.136。
定期市の開催頻度が増していった背景についても,「特産品の売却や,年貢の銭納に必要な貨幣獲得のため」との理由説明に変更され,そのうえで脚注に,「荘官や農民たちは,これらの市で農産物を売却して,貨幣を入手した。これにより,それまで年貢として領主におさめられていた農産物の多くが商人の手に渡り,商品として流通するようになった。」と追記された。
このあたり2010年度東京大学第2問のままです。
16 戦国大名についての説明p.149-150。
《戦国大名》《戦国大名の分国支配》という2つのセクションに分けられ,戦国大名による貫高制の整備と寄親寄子制の採用とが《戦国大名の分国支配》ではなくセクション《戦国大名》のなかで説明される,という構成は現行版と同じ。修正されていないということは,貫高制の整備と寄親寄子制の採用は,戦国大名の分国支配のための施策ではない,ということなのか!?
ところで,セクション《戦国大名》のなかで,家臣に組み入れていった「国人や地侍らの収入額を,銭に換算した貫高という基準で統一的に把握し,その地位・収入を保障するかわりに,彼らに貫高にみあった一定の軍役を負担させた。これを貫高制といい,これによって戦国大名の軍事制度の基礎が確立した。」と現行版通りに説明したうえで,セクション《戦国大名の分国支配》のなかで検地を説明した箇所の脚注として新しく次のような記述が追加されている。
「検地によって把握された年貢量は銭に換算され,貫高制の基礎となった。貫高は,農民が領主におさめる年貢額の基準になったほか,大名が家臣に軍役を課したり,村に夫役などを負担させたりする際の基準にもなった。」
指出と検地とを分けて表現しようと試みながら,「指出検地」という一般化した用語に邪魔されて,うまく表現し切れていない箇所なのかもしれない。
17 戦国時代の町の説明。
「惣村と町をあわせて村町共同体,またそれらを基礎とする支配の仕組みを村町制と呼ぶこともある。」と追記されたp.152。
同じ山川出版社の『新日本史』は,室町時代のところで「村・町の結合」と,惣村と町とをまとめて説明しているのに対し,
『詳説日本史』は両者の共通性が意識しにくい。それは現行版でも変わらないが,少しは改善されたと言える。
とはいえ,こうした町の説明は,室町文化(とくに「庶民文芸の流行」よりも前に配置されてあるほうが,社会と文化との関連がより理解しやすいと思うのだが。
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