山川2003の変更箇所[目次] [原始・古代] [中世] [近世] [近現代]
山川『詳説日本史』の新課程(2012年検定済み・2013年度高1生から使用)の見本版の内容チェック

近世


  1. 01 織田信長
  2. 02 「惣無事令」が本文から消えた
  3. 03 1592年の人掃令(身分法令)
  4. 04 関ケ原の戦い後における徳川家康の政策
  5. 05 江戸時代初めの構成の変更
  6. 06 セクション《朝廷と寺社》の分割
  7. 07 朝廷統制と公家の家業
  8. 08 新しく独立したセクション《禁教と寺社》の問題点
  9. 09 鎖国制
  10. 10 長崎貿易
  11. 11 「士農工商」
  12. 12 身分的周縁への注目
  13. 13 かわた(長吏)
  14. 14 徳川家綱期の国際関係
  15. 15 徳川綱吉期の政治の概括
  16. 16 元禄・正徳期の金銀改鋳についての問題点
  17. 17 交通手段についての説明
  18. 18 元禄文化の傾向
  19. 19 元禄期の文学
  20. 20 松尾芭蕉を支えた各地の村々の人々への注目
  21. 21 廻遊式庭園
  22. 22 徳川吉宗の幕政運営
  23. 23 相対済し令の記述箇所の問題点
  24. 24 日光社参
  25. 25 享保期~天保期の朝幕関係
  26. 26 「宝暦・天明期の文化」の独立
  27. 27 寛政改革での棄捐令の目的
  28. 28 《列強の接近》から《鎖国の動揺》への変更
  29. 29 化政文化

01 織田信長について。
「家臣団の城下町への集住を徹底させるなどして,機動的で強大な軍事力をつくり上げ」と書かれる一方,「経済面では,戦国大名がおこなっていた指出検地や関所の撤廃を征服地に広く実施した」などと説明されているp.159-160。
後者は,現行版では「関所の撤廃など新しい支配体制をつくることをめざしていた」とあったのに対し,信長の政策が戦国大名と同様であったことが明記された。
02 「惣無事令」が本文から消えた。
「全国の戦国大名に停戦を命じ,その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制した」との文章の脚注に「この政策を惣無事令と呼ぶこともある。」とのみ説明されるにとどまっているp.161。昨今の研究状況を反映した修正である。
03 1592年の人掃令(身分法令)について。
現行版では「翌年には関白豊臣秀次が朝鮮出兵の人員確保のために前年の人掃令を徹底し」と書かれているのに対し,「翌年には関白豊臣秀次が朝鮮出兵の人員確保のために前年の人掃令を再令し」と修正されたp.164。
04 関ケ原の戦い後について。
征夷大将軍の宣下と国絵図・郷帳の作成命令のあいだに,「家康は国内統治者として佐渡をはじめ全国の主要な鉱山を直轄にし,アンナン(ベトナム)・ルソン・カンボジアに修好を求める外交文書を国の代表者として送った。」の文章が追加されたp.170。
外交政策も豊臣政権を相対化しながら独自の政治権力を打ちたてるための政策であったことが示された。
ただ,「佐渡をはじめ全国の主要な鉱山を直轄に」することは「国内統治者」であることを示す行為なのだろうか?
05 江戸時代初めの構成が大きく変更となっている。
端的には,第6章に「4.幕藩社会の構造」という節が新しく設けられ,そこに身分秩序と村・町,諸産業の説明がまとめられた点がもっとも大きな変更である。
ところが,諸産業の説明が第7章(幕藩体制の展開)「2.経済の発展」にも残っている。記述をどのような基準で区分したのだろうか。時期による違いを意識しながら第6章と第7章で記述を分けているものもあれば,必ずしもそういう区分がなされていないケースもある。後者のケースで残念なのが貨幣・金融である(全て第7章に残った)。第7章《貨幣と金融》で説明されている内容は,基本的に金貨・銀貨・銭貨の鋳造と両替商についてであり,そのなかで「こうして17世紀中頃までに,金・銀・銭の三貨は全国にいきわたり」p.209と書いてあるのだから,
第6章のほうに配置すべきではなかったのか?そうすれば,貨幣の話を全くしていないにも関わらず,元禄時代・正徳政治で貨幣改鋳策を説明するという不具合も防ぐことができたのに,残念だ。

以下,第6章と第7章とでの諸産業の記述を比較検討しておく。
<農業について>
第6章《農業》
小経営という特徴を述べたうえで,17世紀初めから幕藩領主によって治水・灌漑工事が行われ,新田開発が進められたことを述べ,そして多様な農具が存在したこと,肥料の基本が刈敷と厩肥であったことを指摘し,米や雑穀だけでなく,さまざまな商品作物が生産されていたこと,共同労働(結)が行われていたことが説明されている。(小経営と共同労働(結)とは一緒に説明するという構成のほうがよかったのではないか)
第7章《農業生産の進展》
「17世紀後半以降の1世紀のあいだに,小規模な経営を基礎とする農業や手工業を中心に,その生産力は著しく発展し」p.202と書かれているように,17世紀後半以降に焦点を合わせてある。
農具の改良,金肥の普及,農書の普及を説明したあとに,石高が大幅に増加し,田畑の面積が激増したこと,その結果,幕藩領主の年貢収入も増加したことが説明されている。
この後には,幕藩領主の奨励や都市の発達にともなう消費需要の多様化を背景として,商品生産的農業が各地で活発となったことを指摘したうえで(「幕府や大名は,年貢米を都市で販売し貨幣収入を得ることにつとめ,また商品作物生産を奨励して税収入の増大をはかった。17世紀末に全国市場が確立し,三都や城下町などの都市が発達すると,都市の住民を中心に武士以外でも消費需要が多様化し,これに応じて商品生産が各地で活発化した」p.203),一般の百姓たちも含め,多様な作物を「商品作物として生産し,貨幣を得る機会が増大した」p.203-204ことが説明されている。

記述のすみ分けが意識されていることがわかる。
しかし,農具や肥料の記述はすみ分けられているものの,耕地面積の拡大は全く同じ事実を説明しているし(「全国の耕地は2倍近くに拡大し」p.191,「江戸時代初めの164万町歩から,18世紀初めには297万町歩へと激増」p.203,と表現が変わっているだけ),商品作物の生産についてもほぼ同じである。もちろん,第6章では商品作物的農業の担い手は説明されておらず,第7章では「一般の百姓たちも」と明記されているので,担い手の変化を説明していると判断することも可能である。
なお,第6章では17世紀初め以降の記述として,
「作物は,多くを年貢にあてる米がもっとも主要なものであったが,小麦や粟・稗・蕎麦など自給用の雑穀,麻・木綿などの衣料の原料,近くの城下町向けの野菜・果物,江戸・上方など遠隔地に向けた蜜柑・茶などの商品作物,養蚕のための桑など,地域の条件にもとづいて多様に生産された。」p.192
と,商品生産的農業の展開が説明されているが,同時代性を意識するならば,p.189で説明されている田畑勝手作の禁との関係を説明しておくべきではないか。

<林業あるいは山について>
第6章《林業・漁業》
「村や城下町の多くが山と深い関わりをもった。」p.192と指摘したうえで,第一に「建築や土木工事に不可欠な材木を豊富にもたらした」こと,第二に「山の一部は,村の共有地,あるいはいくつかの村々が共同で利用する入会地とされ」,肥料や牛馬の餌,百姓の衣食住をささえる草木,燃料エネルギー源である薪・炭などの供給源であったことが説明された。
第7章《諸産業の発達》
17世紀末以降,材木を扱う有力商人が多く生まれたことが指摘されるとともに,炭,木製の器や日用品の生産が広まったことが指摘されている。

第6章では,木曽ヒノキや秋田スギなど,藩が直轄する山林から伐り出され商品化された材木が紹介される一方,第7章では,山林の伐採を請け負い,江戸や京都で販売して巨利をあげる有力商人が多く生まれることが指摘されており,時期による違いを意識した記述となっている。ただ用語を中心に授業をするというスタイルを想定すると,第7章の林業は説明しづらい。

<漁業について>
第6章《林業・漁業》
網漁を中心とする漁法の改良と沿岸部の漁場の開発について説明されるとともに,鮮魚や塩・日干しによって保存措置が講じられた商品として流通したこと,網元などによって漁場が占有されたことなどが説明されている。
第7章《諸産業の発達》
以前から記述は変わっていないが,網漁だけが第6章へ移った。ただ「漁法の改良と,沿岸部の漁場の開発が進んだ。」p.205との記述はp.193に全く同じ記述が載っており,時期による違いが分からない記述となっている。

<手工業について>
第6章《手工業・鉱山業》
職人が「生産のための道具や仕事場を自分で所有し,弟子を抱える,小規模ではあるが独立した手工業者」p.193であることを説明したうえで,「近世の手工業は,農業と同じように,細やかな労働を集中して,多様に分化した道具を駆使する高度な技術をともなって発達した」と,農業との共通点が説明されている。 そのうえで,
「近世の初めに職人とされたのは,幕府や大名に把握され(中略)大工・木挽や鉄砲鍛冶などに限られていた」とされる。そして「職人は町や村に住んで,幕府や大名に無償で技術労働を奉仕し(国役と呼ぶ),百姓や町人の役負担を免除された」と説明されている。こうした役を担う人々が職人ということになる。

こうした記述に続いて,次のような説明がなされている。
「17世紀の中頃になると,民間のさまざまな需要に応じて,多様な手工業生産が都市を中心に急速に発達した。これらの生産に従事する職人たちは,業種ごとに仲間や組合をつくり,都市部では17世紀末頃までに借家人などとして定着した。一方,村々にも大工などの職人がいた。」
ここに記された職人も,前に書かれた職人と同じなのか。「村々にも大工などの職人がいた」と書かれる職人は国役を負担する存在としての職人と判断してよいのだろうが,17世紀中頃以降に急速に成長した職人たちも同じなのだろうか。文脈としては同じと判断しておけばよいと言える。
続いて,
「その他,零細な家内手工業が早くからみられた。その代表は麻・木綿などの製糸や織物・紙漉き・酒造などである。(中略)こうした村々の手工業は,百姓が農業の合間におこなう仕事(農間渡世)として把握された。」p.193-194と説明されている。
このなかの「麻・木綿などの製糸や織物」との表現は問題である。繭から生糸を作るのが製糸ではないのか!近代の製糸業との整合性を考えても,ここでの「製糸」との用法は不適切である。正規版では修正されていることを期待したい。

第7章《諸産業の発達》
織物,陶磁器,醸造(酒と醤油)が取り上げられている。
織物は現行版と全く同じで,陶磁器は一部,データの追加があるが(「秀吉による朝鮮侵略の中で,朝鮮からつれてこられた陶工とともに伝わった技術の普及」,「城下町の近郊では,安価な素焼が大量に生産された」p.205),ほぼ同じ。それに対して醸造は,酒については伏見・灘の銘酒が生まれたのが「江戸時代中期以降」であることが追記され,さらに醤油についての記述が全く新しく追加された(「西日本で早くからつくられた醤油は,その後,関東の野田や銚子をはじめ全国で大量に生産され始めて著名となり,鰹節などとともに日本の食文化形成に大きな役割を果たした」p.205-206)。
というように,手工業は時期による違いではなく,第6章で,職人という身分のあり方と村々での農間渡世としての手工業を説明し,第7章では,織物・陶磁器・醸造について具体的な産地・製品を紹介する,というすみ分けをはかっている。

<鉱山業について>
最初に
「中世の終わりから近世の初めに,海外から新しい精錬や排水の技術が伝えられ,また製鉄技術が刷新された。そして各地では基礎って金銀銅の鉱山の開発がめざされ,鉱山町が各地で生まれた。なかでも銀は,世界でも有数の産出量に達し,東アジアの主要な貿易品となった。」p.194
との記述が新しく配置されたうえで,現行版では第7章の《諸産業の発達》にある「17世紀後半になると金銀の産出量は急減し,かわって銅の産出量が増加した。(中略)鉄は,砂鉄の採集によるたたら精錬が(後略)」p.194との記述が続き,続いて《農業生産の進展》の冒頭にあった「鉱山で使われた鉄製のたがね・のみ・槌などの道具や,掘削・測量・排水などの技術は,治水や溜池・用水路の開削技術に転用された。その結果,河川敷や海岸部の大規模な耕地化が可能となり,農業・手工業生産の発展に大きく貢献した」p.194-195との記述が移ってきた。
そして,第7章では鉱山業に関する記述がすべて消えた。

<商業について>
第6章《商業》
「商人は本来,自分の資金で仕入れた商品を,みずから買い手に売る小経営をいう。」p.195から始まる。百姓や職人と同じく小経営であることに注目する点は,「幕藩社会の構造」というタイトルにふさわしい。
この記述のあとには,「近世の初期に平和が実現し,交通や流通が安全におこなわれるようになると,まず豊富な資金や船・馬などの商品の輸送手段,蔵などの貯蔵施設を所有する豪商が活躍した。」との説明が続き,現行版の通り,堺・京都・博多・長崎・敦賀などの豪商が海外貿易や地域間での価格差を利用した商取引で巨利を得いていたようすが説明される。
そして現行版の通り,「鎖国により海外との交易が制限され,一方で国内において陸上・水上交通が整備されていくと,これらの豪商は急速に衰えた。」と書かれたあと,17世紀後半には問屋や仲買が成長し,彼らが仲間・組合とよばれる同業者団体を組織していくことが,現行版よりもやや詳しめに説明されている。
第7章《商業の展開》
江戸の十組問屋,大坂の二十四組問屋のような,「多様な職種からなる問屋仲間の連合組織がつくられた」p.211ことを説明したあとに,第8章のセクション《社会の変容》から移ってきた,近江・伊勢・京都出身の大商人たちが三都や各地の城下町などに出店をもつようになること,都市の問屋が村々の家内工業を問屋制家内工業へと組織する動きをみせることの説明が配置され,続いて,「18世紀前半になると(中略)商人や職人の経済活動が幕府や諸藩の力では左右できないほど,自立的で強固なものへと成長した」との記述を配置したうえで(現行版と比べ,先の記述との順序が逆転),三都や城下町に卸売市場が発達したこと(現行版の通り)が説明されている。
時期の違いを意識した記述のすみ分けのようにみえるが,農業のように17世紀前半と17世紀後半以降とで分けているわけではない。
また,第6章《商業》で商人が本来,小経営であったことが指摘されているが,それなら,第7章で大商人たちが三都や各地の城下町などに出店をもつようになることを説明する際にでも,多くの奉公人をかかえた大店の説明があってもよかったのではないか。第8章《社会の変容》で「商家奉公人」が触れられていること(現行版と同じ)とのつながりも見えてくると思うのに,残念だ。


06 《朝廷と寺社》というセクションが分割され,《天皇と朝廷》《禁教と寺社》というセクションが新しく設けられたp.174-175。
07 朝廷統制について。
「公家衆法度」が追記され,脚注に「公家衆法度では,公家の務め(義務)として,家業(家職)と宮中を昼夜警衛する禁裏小番とを命じた。白川・吉田家などは神祇道,土御門家は陰陽道,飛鳥井家は蹴鞠を家業とした。」が追加されたp.175。
なお,江戸時代の天皇として,霊元天皇p.200,桃園天皇p.175,後桃園天皇p.224が追記された。
08 新しく独立したセクション《禁教と寺社》では,まずキリスト教禁制策を説明し,島原の乱,寺請制度の導入を説明したうえで,寺社への統制策を説明する,という構成がとられたp.175。
江戸幕府の禁教政策と寺社政策とがより関連づけられたと評価できるが,一方で,徳川家康・秀忠期の外交よりも前に島原の乱が説明されてしまう,という新たな問題が生じてしまった。
09 鎖国制について。
「日本は200年余りの間,オランダ商館・中国の民間商船や朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった。」と記述されp.179,オランダ・中国とは国家としての交渉がなかったこと,アイヌとの交渉があったことを目配りした記述となった。
「こうして幕府は四つの窓口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して異国・異民族との交流をもった。明清交替を契機に,東アジアにおいては,伝統的な中国を中心とした冊封体制と日本を中心にした四つの窓口を通した外交秩序とが共存する状態となった。」との記述が追加されp.183,対外交渉が四つの窓口を通して管理・統制されていたことが明確にまとめられた。
ただ,当時の東アジアにはもう一つ,朝鮮が独自に設定した外交秩序も存在していたのではないか。朝鮮の独自性にも目配りがほしかった。
(「歴史へのアプローチ」の一つの項目として朝鮮通信使が取り上げられているがゆえに余計にそう思う)。
10 長崎貿易について。
「1660年代にヨーロッパで金の価値が上昇すると,銀にかわって小判が輸出されるようになった。」との記述が追加されたp.180。
11 「以上のような社会の秩序を「士農工商」と呼ぶこともある。」と書かれp.186,士農工商という用語がカッコ付きとなった(鎖国ですらカッコ付きではないのだが)。
12 身分的周縁への注目
修験者や陰陽師といった宗教者,儒者・医者などの知識人,人形遣い・役者・講釈師などの芸能者,日用と呼ばれる肉体労働者などの,小さな身分集団が「周縁部分」の存在として説明されているp.186。
「修験道は,天台系(本山派)は聖護院門跡が,真言系(当山派)は醍醐寺三宝院門跡が本山として末端の修験者を支配した。また陰陽道は,公家土御門家が全国の陰陽師を配下においた。」p.177
「近世の村や都市社会の周縁部分には,一般の僧侶や神職をはじめ修験者・陰陽師などの宗教者,儒者・医者などの知識人,人形遣い・役者・講釈師などの芸能者,日用と呼ばれる肉体労働者など,小さな身分集団が多様に存在した。」p.186
「三都など一部の城下町には,公認の遊廓が設けられた。」p.189
13 かわた(長吏)について。
「かわたは城下町のすぐ近くに集められ(かわた町村),百姓とは別の村や集落をつくり」p.186と新しく説明されているが,かわたの全てが「城下町のすぎ近くに集められ」たかのような記述になっているが,このように断定的に説明して妥当なのか?
14 徳川家綱期の「平和」の様子が追記されたp.198。
「1662(寛文2)年,清が明を完全に滅亡させて,半世紀近い動乱の続いた中国において,新しい秩序が生まれた。その結果,東アジア全体に平和が訪れ,日本国内でも島原の乱(1637~38年)を最後に戦乱は終止した。」
「1662年,台湾を拠点にして清に抗した鄭成功(国姓爺)が死去し,明の亡命政権桂王も滅亡したことで,清朝は安定した王朝となった。」(脚注)
ただ,1680年代になって中国商船の日本への渡航が盛んになることについても,ここで目配りがあってもよかったのではないかと思う。
15 徳川綱吉期の政治をまとめて,「武力にかわって重視されたのが,身分格式であり,儀礼の知識であり,役人としての事務能力であった。」と記述されたp.200。
16 元禄・正徳期の金銀貨幣の改鋳についての説明があいかわらず「小判」だけになっているp.201-202。なぜ小判以外の金貨,銀貨も改鋳されたことを無視し続けるのだろうか?
17 陸上交通での駕籠や牛馬,大八車,そして「馬や牛を用いて商品を長距離運送する中馬」(中部日本に発達),大きな河川や湖沼での「高瀬舟などの中型船や小舟を用いた舟運」など,交通手段についての説明が詳しくなったp.207-208。
18 元禄文化の傾向について
現行版では「人間とその社会を現実主義や実証主義でとらえる傾向が強いこと」とのみ説明されているが,現実主義,実証主義という特徴づけが消え,別の3つの特徴が説明されている。
「一つには,鎖国状態が確立したことで外国の影響が少なくなり,日本独自の文化が成熟したことである。二つには,平和と安定の中で,儒学のみならず天文学など科学的な分野も含めて学問が重視されたことである。三つには,文学・美術工芸・演劇などで,広範な層に受容された背景に,紙の生産や出版・印刷の技術,流通の発達があったことである。」p.212
1つめでは,鎖国制のもつ閉鎖的な側面が強調されることになった。ただ,文化への影響の制限を言うのなら,「鎖国状態」という表現で説明するのではなく,禁書令(1630)がとりあげられるべきではないか。
3つめは,この書き方であれば,文化の背景であって特色ではない。(口承ではなく)出版を中心とする文化が活発となった,などと表現するほうがよいのではないかと思う。
19 元禄期の文学について,冒頭で「朝幕協調の影響から,諸大名が和歌の指導を公家から受けたように,和歌は武士にもさかんになった。元禄期のその他の文学は上方の町人文芸が中心で,井原西鶴・松尾芭蕉・近松門左衛門がその代表であった。」p.212と説明された。
当時,諸大名が公家から和歌の指導を受けていたことが記されたのだが,公家が京都から自由に出ることは認められていなかったはずで,諸大名たちはどのような形で公家から指導を受けたのだろうか(歌学方に登用された北村季吟は京都の人だが公家ではないし...)。少しくらい注記が欲しい。
それはともかく,元禄期の文学を西鶴・芭蕉・近松だけに象徴させず,和歌もさかんであったことを指摘し,庶民的な文芸以外にも目配りした記述になっている。
なお,現行版でも同じ記述なのだが,この説明だと松尾芭蕉も「上方の町人文芸」の代表となる。伊賀出身で,京都で北村季吟の門下にいたとはいえ,主な活動場所は江戸ではないのか。いつも疑問に思っていることなのだが,芭蕉を「上方の町人文芸」の代表者と表現するのは適当なのだろうか。
20 松尾芭蕉について,「地方の農村部にも,芭蕉一行を待ち受け,支えた人びとが存在した。」が追記されたp.213。
これは元禄文化のまとめのところで「前代までの公家・僧侶・武士や特権的な町人など富裕層のみならず,一般の町人や地方の商人,また有力百姓に至るまで多彩な文化の担い手が生まれた。」p.212と書かれ,担い手のなかに「地方の商人,また有力百姓に至るまで」が明記されたこととも関連する。中世後期において連歌が寄合・つどいの文芸であったのと同様,俳諧も寄合・つどいの文芸であったことを示唆するものと言える(元禄文化ではどこにも書かれていないが)。
21 廻遊式庭園が初めて記述された。
「将軍が大名屋敷を訪れる御成の回数が増え、大名側も屋敷に趣向をこらした廻遊式庭園を設けた」p.217と,廻遊式庭園を室町文化では説明していないのに初出させてある。「御成」もだが。
22 徳川吉宗の幕政運営について。
現行版では「側用人による側近政治をやめて,譜代大名を重視し」と書かれているのに対し,「側用人による側近政治をやめ,新設の御用取次を介して将軍の意志を幕政に反映させた。」p.218と記述が変更された。
「譜代大名を重視」という視点がカットされたのだが,側用人と御用取次とで何が異なるのかが明記されていないため,享保期の幕政運営における新しさが何なのかが分かりにくい。
23 相対済し令の記述箇所について。
現行版と同じく,享保「改革の中心はまず財政の再建にあった。1719(享保4)年,(中略)相対済し令を出した」p.218-219と書かれているのだが,この相対済し令はなぜ財政再建策の一つとして説明されているのだろうか?
訴訟事務の軽減から勘定所の制度改革(公事方と勝手方の分離)につなげようというのならともかく,そんな説明もない。財政再建策の冒頭に書く以上,相対済し令が幕府財政の再建にどのように役立ったのか,きちんと説明すべきだろう。書かないのなら(あるいは関連がないのなら),別の場所に配置すべきだ。
24 日光社参が初めて記述された。
「こうして財政再建の見通しを立てた吉宗は,1728(享保13)年4月に65年ぶりの日光社参(軍役)を命じ,東照権現(家康)の御定めの通りを主張して強い将軍像を誇示した。」p.219-220。
そして天保改革の説明でも,
「1843(天保14)年には,将軍家慶が67年ぶりに日光社参を実行して幕府権力の起死回生をはかろうとしたが,大出費による財政悪化と,夫役に動員された農民たちの不満をもたらすだけの結果となった。」p.240と記述された。
このように享保,天保期と日光社参を記述し,その行為が将軍(あるいは幕府権力)の強さを示すものだと説明するのであれば,幕藩体制の形成過程(徳川家光期あたり)のなかで,日光東照宮(あるいは徳川家康の神格化)のもつ意味をきちんと説明しておいてほしかった。
もしかすると,「歴史へのアプローチ 朝鮮通信使」のなかで将軍・諸大名や勅使,海外からの使節による日光社参が説明されておりp.197,その考察を経ることで日光東照宮の意義は本文に書かずとも了解される,という編集方針なのだろうか。
25 享保期~天保期の朝幕関係について。
セクション《享保の改革》のなかに「朝廷との協調関係も維持して徳川将軍家の安定をはかった。」との記述が追加されp.220(具体的な内容は何も書かれていないが),《田沼時代》では,「この時期朝廷では,復古派の公家たちと竹内式部が,摂家によって処分される宝暦事件(1758年)がおこった。また,後桃園天皇の急死(1779年)後,閑院宮家から迎えられた光格天皇が即位した。」との記述が追加されたp.224。
宝暦事件で竹内式部は京都所司代に処分されたはずなので,ここの説明は不適切だと思うし,宝暦事件がどのような性格をもつのかが説明されていない点が不十分だとは思うが,18世紀後半が朝幕関係に変化のきざしが明らかになった時期であることを意識するうえで,この追記は意義がある。宝暦事件は,竹内式部に影響をうけた公家が桃園天皇に対して日本書紀神代巻を進講したのに対し,天皇と一般公家との一体化を警戒した摂家により,その公家たちが処分され,摂家の訴えにより京都所司代が竹内式部を処分した事件で,天皇と公家が一体となって幕府と対峙する尊号事件(一件),条約勅許問題につながっていく。
そして天保期のセクション《雄藩のおこり》が《朝廷と雄藩の浮上》へと変更になり,朝廷についての説明が次のように追加された。
「「内憂外患」の言葉に象徴される国内外の危機的状況に対し,幕府権力が弱体化して威信を発揮できなくなると,これにとってかわる上位の権威としての天皇・朝廷が求められ始め,国の形の中に位置づける発想がとられるようになった(注)。朝廷の側からも,光格天皇のような朝廷復古を求める考えが強く打ち出された。公家たちも財政に苦しむ中で,各種の免許状を発行して収入を得ようと活動し,社会にもまた朝廷の権威を求める動きが広がった。
(注) 水戸の会沢安(正志斎)は1825(文政8)年に『新論』を著し,天皇を頂点に位置づける国体論を提示した。」p.241-242 このように「国体論」が後期水戸学に由来することが明示された。
26 「2.宝暦・天明期の文化」が新しく設けられた。
《洋学の始まり》《国学の発達と尊王論》《生活から生まれた思想》《儒学教育と学校》《文芸と芸能》《絵画》から構成されている。基本的には,現行版の化政文化のなかから18世紀後半に関連する事項が移された。
元禄文化や化政文化と異なり,文化全体の傾向をまとめて説明する部分が独立して設けられていないが,それぞれのセクションから傾向の説明を抜き出すと,とりあえず次のような傾向の文化として捉えられていると判断できるだろう。
「18世紀になると,学問・思想の分野では,幕藩体制の動揺という現実を直視してこれを批判し,古い体制から脱しようとする動きがいくつも生まれた。」p.224-225,「これらの学問・思想における新たな動きに対して,幕府は儒学による武士の教育を強く奨励した。」p.228,「江戸時代中期の文学は,身近な政治や社会のできごとを題材とし始め,出版物や貸本屋の普及もあって,広く民衆のもととなった。」p.229
なお,「現実を直視してこれを批判し,古い体制から脱しようとする」学問・思想の最初のものとして,洋学(蘭学)が配置されているのだが,実際の洋学(蘭学)の説明は,セクション冒頭のまとめと矛盾している。それとも,西洋の学術・知識を吸収・研究しようとすることが「古い体制から脱しようとする」動きなのだろうか(現実の直視・批判はともかく)。
さらに,《儒学教育と学校》のなかで「寛政の改革で幕府は朱子学を正学とし,林家の家塾を幕府直営の昌平坂学問所とし,人材を整えて,幕府による支配の正統性を支える学問として,朱子学を重んじた。」p.228と書かれた。18世紀後半の文化をまとめて「宝暦・天明期の文化」に移したために生じたことだと思うが,寛政改革を説明する前にこれが説明されるのには違和感をもつ(文学のところで洒落本や黄表紙が寛政改革で取締の対象となったことが説明されたのも同様)。それならば,寛政改革を「宝暦・天明期の文化」の前に配置するほうがよかったのではないか。
27 寛政改革での棄捐令の目的について,現行版では「困窮する旗本・御家人を救済するため」と書かれているのに対し,「改革政治を進める幕府役人や幕領代官などを担う旗本・御家人たちの生活安定のために」と修正され,
脚注で「旗本たちの以後の生活資金のために,貸金会所を設けて低利貸付をおこなった。」と追記されたp.233。そして,寛政異学の禁に関連して「学術試験をおこなって人材登用につなげた」p.233との記述が追加され,旗本・御家人の官僚化を促すという政策基調をもつことが示唆された。
なお,ここの「貸金会所」は猿屋町会所を指すと判断してよいと思うが,猿屋町会所は札差を対象とする資金貸付機関である。「札差に貸金を放棄させた」との文章に対する脚注なので間違ってはいないものの,「旗本たちの以後の生活資金のために(中略)低利貸付をおこなった」と続くため,まるで旗本・御家人を対象として資金を貸し付けたかのような誤解を与えかねない記述となっている。
28 列強の接近について。
これまでのセクション《列強の接近》のタイトルが《鎖国の動揺》に変更されたp.234。そのうえでアイヌに関するいくつか記述が追加された。
ラクスマン来航の前に,「1789(寛政元)年,国後島のアイヌによる蜂起がおこり,松前藩に鎮圧されたが,幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。このようにロシアに警戒心を抱いていたところに」p.235との記述が追加された。続いて,ラクスマン来航後の対応について,近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探査させた背景として,「この頃,ロシア人は択捉島に上陸して現地のアイヌと交易をおこなっていた。」ことを追記したうえで,近藤らの探査については「「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせた。その外側に異国ロシアとの境界線を引く発想であった。」との説明を追加し,さらに「こうして1800(寛政12)年には幕府は八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させたうえ,1802(享和2)年には,東蝦夷地を直轄地とし,居住のアイヌを和人とした。」と追記したうえで,脚注に「和人同様の風俗を強制し,首長を名主に任命する,同化政策を進めた。」p.235と新しく説明を加えてある。
(ちなみに,東蝦夷地の直轄が1799年から1802年に変更されているp.235。1799年は仮直轄なので修正されたのだろう。)
このあたり,単にロシアとの関係だけでなく,それにともなってアイヌとの関係の変化が生じていることを意識した記述になっている。鎖国制のもとで「オランダ商館・中国の民間商船や朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった」とのp.179の記述と対照させれば,国家領域が変化していることも意識できる。
とはいえ,異国船打払令の説明のなかで,「従来の四つの窓口で結ばれた対外秩序の外側に,新たにロシア・イギリスのような武力をともなう列強を外敵として想定した。」p.236のように,四つの窓口で結ばれた対外秩序が変化していないかのような記述になっている。残念だ。
なお,四つの窓口で結ばれた対外秩序に関連して,1811年の朝鮮通信使の易地聘礼が追記された。
29 化政文化について。宝暦・天明期の文化が独立したためもあって,次のような記述が追加された。
「宝暦・天明期に多様に発展し始めた文化は,寛政の改革によりいったん停滞するが,19世紀に入ると息を吹き返した。11代将軍家斉による半世紀におよぶ長い治世のもと,文化・文政期を中心に,天保の改革の頃までの時期に栄えた文化を化政文化と呼ぶ。」p.243そして,現行版では「江戸の繁栄を背景に」と書かれているのに対し,「江戸をはじめとする三都の繁栄を背景として」との記述に変更されたp.243。
次に,地域に注目した記述が増えた点が注目される。
平田派国学の地域への浸透の動きはすでに記述されていたが,それに加え,《学問・思想の動き》に次のような記述が追加された。「また,この時期以降,全国各地の豪農・豪商の中から多くの知識人・文化人が輩出した。彼らは,自分の家や地域の歴史を実証的に研究し,また漢詩・和歌・俳諧などのサークルをつくって都市の文化人と交流したり,平田派国学の門人となって活動するなど,近世後期の文化活動において重要な役割を果たした。そのうち,下総佐原の商人で天文方に学んだ伊能忠敬は(後略)」p.244
さらに《民衆文化の成熟》(現行版の《生活と信仰》がタイトル変更となった)のなかにも次の記述が追加された。「これら(補注:歌舞伎)は,錦絵や出版物,また三都の役者による地方興行などによって,全国各地に伝えられた。こうした中で,村々の若者が中心となって,歌舞伎をまねた村芝居(地芝居)が各地で取り組まれ,祭礼とともに村人の大切な娯楽の場となった。そして,歌舞伎の衣服・化粧・小道具・言葉遣いなどは,芝居を通じて民衆文化に大きな影響を与えた。」p.247
山川2013見本版の変更箇所[目次] [原始・古代] [中世] [近世] [近現代]