山川2003の変更箇所[目次] [原始・古代] [中世] [近世] [近現代]
山川『詳説日本史』の新課程(2012年検定済み)の見本版の内容チェック

近現代


  1. 01 江戸幕末期の構成の変更
  2. 02 松方財政後の自由民権運動についてのセクション・タイトルの変更
  3. 03 社会民主党・日本社会党や大逆事件の説明箇所の変更
  4. 04 明治後期の経済
  5. 05 大正政変前後の政治
  6. 06 第二次大隈内閣のもとでの総選挙
  7. 07 第一次世界大戦と総力戦
  8. 08 第一次世界大戦をめぐる日本の外交政策
  9. 09 第一次世界大戦後の植民地政策の変更
  10. 10 パリ講和会議
  11. 11 1920年代の陸軍軍縮
  12. 12 第二次護憲運動
  13. 13 憲政の常道期の憲政会内閣と政友会内閣
  14. 14 市民生活の変容と大衆文化
  15. 15 在華紡
  16. 16 沖縄の「平和の礎」が消えた
  17. 17 高度経済成長の記述・統計の増加
  18. 18 中流意識の背景
  19. 19 オリンピック東京大会・日本万国博覧会の記述での問題点
  20. 20 列島改造政策
  21. 21 1970年代後半~1980年代にかけての円相場の動向

01 江戸幕末期は,内容はほとんど変更ないが,構成が変更されているp.252-260。
授業構成には大きな影響はないものの,将軍継嗣問題から安政の大獄・桜田門外の変にいたるの政局が《公武合体と尊攘運動》というタイトルのもとに説明される構成となった点には違和感をもつ。
なお,《倒幕運動の展開》というセクションが立てられ、そのなかで薩長連合の盟約で薩摩藩が反幕府の態度を固めたと書かれているが、「倒幕」という表現はない。「倒幕」との表現は長州藩の藩論でのみ使われている。そして、次のセクション《幕府の滅亡》で1867年に「ついに武力倒幕を決意した」と書かれている。なぜ1867年になってからなのかとの説明が不足しているものの、丁寧に経緯を説明している(やはり四侯会議とその失敗は必要だろう)。
新しく設けられたセクション《幕末の科学技術と文化》では,ペリー来航前後からの欧米技術の導入について具体例の記述が増えた。その中で,ペリー来航前後は「西洋では産業革命前の段階の軍事技術の導入」p.259であったが,開国後,「産業革命後の機械製造技術が伝えられた」p.260と表現されている。まるで開国と産業革命後の技術の導入との間に因果関係があるとも読めるような構成となっている。
02 松方財政後の自由民権運動についてのセクションのタイトルが変更となった。
現行版では《民権運動の激化》なのが《民権運動の再編》となったp.280。三大事件建白運動や大同団結運動までを含んだセクションであったため,内容に即したタイトルとなったと言える。
新しく図版として高橋由一「山形市街図」が掲載されp.281,そこには「山形県令となった三島通庸は,県庁・学校・警察署など洋風建築の官庁街をつくって開化を形で示した。」と説明されている。福島県令三島通庸による土木工事の強行に対する農民の抵抗(福島事件)を,開化への反発として印象づけようとしているように思える。
なお,「激化事件」との表現は,p.281の脚注のなかに限られ,本文では福島事件などの諸事件は「騒擾」p.280と表現され,地図p.281では「自由党の暴発事件」と表記されている(「これらすべての事件を自由党員が指導したわけではなかった」と書いていながら,さまざまな騒擾を地図のなかに示した地図のタイトルを「自由党の暴発事件」と表記し続けるのは不適切ではないか)。
03 《桂園時代》のなかに,社会民主党や日本社会党の結成,議会政策派と直接行動派の対立,大逆事件についての脚注(内容説明と政府による特高設置)が説明されたp.298-299。現行版では《社会運動の発生》で説明されている記述が移された。
04 明治後期の経済について。
産業革命についての説明内容はほぼ変更されていないが,現行版では《紡績・鉄道・鉱山》《重工業の形成》というセクション構成だったのが,《紡績・製糸・鉄道》《重工業の形成》に変更となり,現行版ではセクション《紡績・鉄道・鉱山》のなかにあった鉱山業に関する説明がセクション《重工業の形成》に移った。鉱山業は重工業ではないと思うのだが...
なお,器械製糸の生産量が座繰製糸を上回ったのは現行版では「1894(明治27)年」と書かれていたのが「日清戦争後には」と変更された。
セクション《農業と農民》では,図版「田植えの風景」が掲載されp.305,「1970年代に機械化が進むまで,田植えは伝統的な共同作業によってなされてきた。」との説明が追加された。江戸時代の結を説明する際に参照しやすくなりました。そして,日露戦争後の「農業生産の停滞や農村の困窮」に対する対応として地方改良運動が推進されたことが追記された。「政府はこれに対応すべく地方改良運動を進め,協同事業に成功した村を模範村として,その事例を全国に紹介した。」p.306 地方改良運動は,現行版でも《桂園時代》で説明されているが,なぜ推進されたのか,背景を理解しにくい構成となっていたのが(新課程見本版見本版でも《桂園時代》のところでは背景は不明なまま),ここで記述されたことで背景の一端を理解することが可能となった。
現行版では,「5.近代産業の発展」の最後に《生活様式の近代化》が配置されていたが,「6.近代文化の発達」の最後に移った。そして,「1900年前後からは,大都市の大手呉服店がアメリカのデパートメントストアにならって,ショーウィンドウや陳列台を用いて従来より幅広い顧客を対象とするデパート型の小売を開始した。」p.317との記述が追加された。
05 大正政変前後の政治について大幅な加筆・修正がなされた。
⑴第2次西園寺内閣が組閣した当時の財政状況について,「与党の政友会は積極的な財政政策を,商工業者は減税を,海軍は建艦計画の実現を,陸軍は師団増設をそれぞれ求めたため,内閣は困難な立場に立たされた。」p.318との説明が追記され,陸軍二個師団増設問題が単純に陸軍と第2次西園寺内閣(あるいは政党)との対立問題ではないことが示された(このことは,次の⑴や⑵で指摘する事柄につながる)。
そのうえで,「中国でおこった辛亥革命と清朝滅亡という事態に対し,第2次西園寺内閣が明確な態度をとらず,また海軍拡張を優先使用とした内閣の姿勢を不満とする山県と陸軍は,2個師団増設を内閣に強くせまった。西園寺首相が,これを財政上困難だとして拒絶すると」と,具体的な事情についてのより詳しい説明が追加されることにより,それでもやはり,陸軍の要求が西園寺内閣を窮地に追い込んだことを示している。

⑵桂太郎による新党結成について,現行版では「桂は新政党をみずから組織してこれに対抗しようとした」と書かれているのに対し,新しく「桂は非政友会系の新党組織をはかり,従来の元老政治からの脱却を掲げて内閣を維持しようとした」p.319との説明に書き換えられた。
桂新党の結成が単なる護憲運動に対する対抗(対応)措置ではなく,桂太郎による(藩閥主導型の国家運営とは異なる)新たな政治路線の模索でもあったことが示唆されることになった。

⑶大正政変前後を契機として政治構造が転換し始めたことが説明された。
「大正政変頃の日本を取り巻く国際環境は,この時期,大きく変化していた。1910年の韓国併合,1911年の関税自主権の回復などからわかるように,明治以来の諸懸案が解決をみたといえる。これにともない,国家を主導していた藩閥というまとまりも,政党・官僚・軍へと多元化し,解体していった。」p.319-320
このように藩閥主導型の国家運営が後退し,藩閥から政党,官僚,軍が自立するという新しい政治状況が顕在化してきたことが明示された。
なお,藩閥というまとまりが解体していった背景を「明治以来の諸懸案が解決をみた」ことに求めているが,では,「明治以来の諸懸案」があったから藩閥というまとまりが存在し,維持されていたというのか? それよりも,帝国大学出身の学士官僚が台頭したことなどに注目してもよいのではないか。

⑷大正天皇の即位にともなって桂太郎が内大臣兼侍従長に就任していたことが明記された。「元老の山県有朋は,大正天皇の内大臣兼侍従長に,長州閥の一因で陸軍の長老であった桂太郎を選んだ。」p.318

⑸二個師団増設についての陸軍の意図を,現行版では「中国の辛亥革命に刺激された陸軍は,抗日運動対策もかねて朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を...」と本文で説明していたが,脚注で「陸軍が2個師団増設を強く要求したのは,1910(明治43)年に併合した韓国に常設師団をおくとともに,辛亥革命勃発直後に清からの独立を宣言した外蒙古とロシアとの関係緊密化を警戒し,南満州と近接する内蒙古の諸権益を確保する必要があったためである。」p.318と説明された。そして,朝鮮における「抗日運動対策」という意図はカットされた。

⑹第2次西園寺内閣の総辞職の事情のなかから,軍部大臣現役武官制の記述がカットされた。
現行版では,「2個師団増設が閣議で認められなかったことに抗議して,上原勇作陸相が単独で辞表を大正天皇に提出し,陸軍が軍部大臣現役武官制をたてにその後任を推薦しなかったため,西園寺内閣は総辞職に追い込まれた」と記述されているのに対し,「西園寺首相が,これを財政上困難だとして拒絶すると,上原勇作陸相は単独で辞表を天皇に提出し,1912(大正元)年末,内閣も総辞職した。」と書き改められた。
このように,陸軍が後任を推薦しなかったためではなく,内閣が自主的に総辞職したかのように読める記述に修正された。
そのため,大正政変後に成立した山本内閣のもとで軍部大臣現役武官制が改正されたことの意味が分かりにくくなってしまった。現役武官制の改正には,「現役の大・中将しか軍部大臣になれなかった規定を改めたのは,内閣に対する軍の影響力行使を制限しようとしたからである。」p.319と新しく注記されたものの,現役の大・中将しかなれない規定を利用した陸軍の影響力行使が具体的に説明されなくなったため,注記が意味不明となってしまっている。


06 第二次大隈内閣について「1914(大正4)年の総選挙では、青年層を巻き込み、大衆的な選挙戦術をとった与党が立憲政友会に圧勝」と書かれたp.319。大浦内相による選挙干渉を書かず、キレイごとだけで済ませたとも読める。
07 第一次世界大戦の説明に「総力戦」という表現が追記され,その注記が新しく書き加えられたp.320。
「戦争目的に向かって,国家の有する軍事的・政治的・経済的・人的諸能力を最大限に組織し動員する戦争の形態。一方,国家は,国民の協力を鼓舞する政治・経済体制の民主的改変をせまられることもあった。」
08 第一次世界大戦をめぐる日本の外交政策について。
⑴参戦決定が「加藤高明外相の主導により」行われたことが追記されたp.320。明示されているわけではないが,この記述と,後で説明される元老山県の加藤外交への批判とにより,「従来の元老政治からの脱却」p.319が進む状況が示唆されているとも言える。

⑵二十一カ条の要求についての脚注が追加された。「二十一カ条の各要求は,外務省や陸海軍において中国問題を扱っていた部署の意見の集大成といえるものだった。日本は中国に要求を飲ませるため海軍に艦隊を出動させる一方,陸軍に満州駐屯兵の交代を利用した圧力をかけさせたうえで最後通牒を発した。」p.321
そのうえで,「加藤による外交には内外からの批判があり,大隈を首相に選んだ元老の山県も,野党政友会の総裁原敬に対して「訳のわからぬ無用の箇条まで羅列して請求したるは大失策」と述べて批判していた。」と新しく追記された。
加藤外交が元老山県からも批判されたことが明記されたのだが,先の脚注をあわせて考えれば,加藤外交への批判は「外務省や陸海軍において中国問題を扱っていた部署」への批判であることが記されていると判断でき,元老山県が外務省・陸海軍(の中国関係の部署)とは疎遠になってしまっていたこと,言い換えれば,官僚や軍が元老山県(=藩閥)から自立しつつあること(そして政党との結びつきを強めていること)を示唆している,とも言える。もちろん「中国問題を扱っている部署」でしかなく,欧米関係を扱っている部署との関係は取り上げられていないのだから,必ずしもそのように断定できるわけではないが。
続いて,「大隈内閣の外交の背景には,国家の膨張を「開国進取」の現われととらえる大隈の発想があったが,内閣としては北京政府の袁世凱をおさえ,しだいに南方の革命勢力への支持を鮮明にしていった。」p.321と追記された。
「が,」という逆接の接続表現が用いられていることを念頭におけば,二十一カ条の要求の背景にあった大隈の発想(国家の膨張=「開国進取」の現われ)と,(帝政計画を進める)袁世凱を抑える・南方勢力を支持するという内閣の姿勢(転換)は対立する,と表現されているわけで,では,内閣は反袁勢力を支持するなかで国家の膨張(=「開国進取」)の姿勢を後退させたというのか? それとも,初めは袁世凱に圧力をかけて権益拡大を図ろうとしたものの,後に袁世凱を抑える・南方勢力を支持するという姿勢に転換した,という事態だけを表現したいのか?
もし後者だとすれば,「が,」という逆接の接続表現を用いるべきではないし,また,二十一カ条の要求の背景に<国家の膨張=「開国進取」の現われ>という大隈の発想があったことを明示したことの意味がわかりにくい。

⑶欧米諸国との関係調整について。まず,現行版では「大戦中の中国権益の拡大に対する列強の反感を緩和することにつとめ」と書かれているのに対し,「大戦後に向けた講和会議対策」と修正された。
次に,現行版で「イギリスとのあいだに覚書を交換してドイツ権益の継承を確認させた。」と書かれている部分がより具体的に説明された。「大戦後に向けた講和会議対策も進められた。1916(大正5)年,第2次大隈内閣では,第4次日露協約を締結し,極東における両国の特殊権益を相互に再確認した。続く寺内内閣では,イギリスが日本軍艦の地中海派遣を求めたのをきっかけに,戦後の講和会議で山東省と赤道以北の南洋諸島のドイツ権益を求める日本の要求を,英・仏など列強が支持する,との密約が交わされた。」p.321-322

⑷政治過程における寺内・原内閣についての記述のなかにも,外交に関する説明が追加されている。
まず寺内内閣について。まず「「挙国一致」を掲げて内閣を組織した。」p.324と説明され,さらに,「内閣は,立憲政友会の原敬と立憲国民党の犬養毅ら,政党の代表を取り込み,これに閣僚を加え,外交政策の統一をはかるためとして,臨時外交調査委員会を設置した。」p.324との説明が追加された。
原内閣については,「原は臨時外交調査委員会を舞台に,国際協調を軸とした対外政策を主導し,日本の満州権益開発方針についても,アメリカ・イギリス・フランスとのあいだに妥協点を見出した。」p.325との説明が追加された。
このような説明が追加されることにより,寺内・原内閣の連続性(形式的な)が示され,大隈内閣の加藤外交の異質さがクローズアップされる結果となっている。


09 五・四運動や三・一独立運動をうけての植民地政策の変更について。
「朝鮮総督と台湾総督について文官の総督就任を認める官制改正をおこない」p.327との説明のうち,「台湾総督」が新しく追加された。そして注記として,「朝鮮総督には海軍軍人斎藤実が,台湾総督には文官の田健治郎が任命された。」が追記された。
10 パリ講和会議について。
「戦勝国としてのぞんだ講和会議でありながら,山東還付問題で中国やアメリカから批判されたことに,講和会議に参加した外交官や新聞各紙記者らは衝撃を受けた。このような時代の風潮の中で,北一輝は『日本改造法案大綱』を書き,大川周明らは猶存社を結成した。」p.327が追記された。
第一次世界大戦中の中国やアメリカの反発についてほとんど記述がないため(「内外からの批判」p.321と書かれているものの脚注で「中国国民はこれに強く反発し」としか書かれていない),「衝撃」を素直に受け取れそうな印象を与えているが,大戦中からの反発・批判を念頭におけば,ここの記述は恣意的に思えてしまう。
11 1920年代の陸軍軍縮について。
「陸軍でも,加藤友三郎内閣に続き,加藤高明内閣で軍縮がなされるとともに,軍装備の近代化がはかられた。」p.329との記述はあるものの,現行版にあった山梨軍縮,宇垣軍縮についての具体的な説明がカットされた。
12 第二次護憲運動をめぐって。
清浦奎吾の首相就任について,「松方正義と西園寺公望の二人の元老は,政党と距離をおく人物を選ぶため,枢密院議長であった清浦奎吾を首相に推した。」p.332との記述が追加されたが,なぜ「政党と距離をおく人物」が選ばれたのかを説明していないため,松方・西園寺の二人の元老が政党内閣に対して批判的であったような印象をもたせている。それゆえ,第二次護憲運動と1924年総選挙の結果,元老が加藤高明を首相に選んだ理由がわかりにくくなった(選挙結果を重く受け止めた結果,という印象をもたせている)。
なお,「加藤は,明治憲法下において選挙結果によって首相になった唯一の例となった。」が追加されたp.332。
1946年総選挙で自由党が衆議院第1党となったことに基づいて吉田茂が首相に就任したことは,「選挙結果によって首相になった」事例には含まれないのだろうか。自由党総裁鳩山一郎が公職追放をうけ,その譲りを受ける形で吉田が首相に就任したのだから違う,と言えばそうなのだが。
13 憲政の常道のところで今までは憲政会内閣=緊縮政策・対中不干渉主義、政友会内閣=積極政策・対中積極方針というパターン化された特徴が書かれていたが、それがカットされている。必ずしも実態に即した特徴づけではなかったことを考えると,いいことだと思う。
14 「3.市民文化」というタイトルが「3.市民生活の変容と大衆文化」に変更となり,さらに内容がずいぶんと詳しくなったp.333-335。
冒頭のセクション《都市化の進展と市民生活》で,第一次世界大戦後における都市とそこでの生活が説明され,次のセクション《大衆文化の誕生》のなかでマスメディアのもとでの大衆文化が具体的に説明されている。現行版のセクション《都市化と国民生活の変化》は,そのほとんどが《大衆文化の誕生》のなかに移された。
《都市の進展と市民生活》では最初に,サラリーマンや職業婦人が増えたことが書かれている。サラリーマンについては現行版で「事務系統の職場で働く給与生活者(サラリーマン)も大量に出現した」と書かれていたのが,「東京や大阪などの大都市では,会社員・銀行員・公務員などの俸給生活者(サラリーマン)が大量に現われた(新中間層)。」p.333と改められている。
続いて「都市の景観や市民生活も大きく変貌し,洋風化・近代化が進んだ。」と話が移り,まず景観,建築についての説明が加筆されている。「都心では丸の内ビルディング(丸ビル)など鉄筋コンクリート造のオフィスビルが出現し,都心部から郊外にのびる鉄道沿線には新中間層向けの文化住宅が建てられた。また,関東大震災の翌年の1924(大正13)年に設立された同潤会は,東京・横浜に木造住宅のほか4~5階建てのアパートを建設した。」p.333-334 次に電灯,水道・ガスの普及について述べたあと,「都市内では市電やバス,円タクなどの交通機関が発達し,東京と大阪では地下鉄も開業した。服装では洋服を着る男性が増え,銀座や心斎橋などの盛り場では,断髪にスカート,山高帽にステッキといったいでたちのモガ(モダンガール)やモボ(モダンボーイ)が闊歩するようになり」p.334と続く。
そして小林一三を例にあげながら私鉄によるターミナルデパート,娯楽施設の経営についての説明が続く。「さまざまな商品を陳列して販売する百貨店が発達した。日本の百貨店は,三越などの呉服店に起源をもつものが主流であったが,私鉄の経営するターミナルデパートが現われ,生鮮食料品など日用品の販売に重点をおいた。代表的なのは,小林一三が1907(明治40)年に設立した箕面有馬電気軌道(1918年に阪神急行電気鉄道と改称)で,乗客の増加をはかるため沿線で住宅地開発を進めるとともに,遊園地や温泉,宝塚少女歌劇団などの娯楽施設を経営し,ターミナルの梅田ではデパートを開業した。」p.334-335
最後に,二重構造を持ちながらの「大衆消費社会」的状況であったことが指摘されている。「大企業と中小企業,都市と農村とのあいだの格差が問題となり,二重構造と呼ばれた。個人消費支出が増加し,「大衆消費社会」的状況が現われたが,一般農家や中小企業の労働者の生活水準は低く,大企業で働く労働者とのあいだの格差が拡大した。」p.335 ここで指摘しておきたいのは,1920年代の経済状態についての「慢性的不況の状態を続けていた」p.340という表現との関連である。もちろん,慢性的不況のもとで個人消費支出が増加するという矛盾するかのような表現を用いることで1920年代の時代状況を表象することを問題としたいわけではない。意識してこのような表現を用いているのだろうか,と尋ねてみたいところだ。
大衆文化の一例として,「一般投資家向けの経済誌『週刊ダイヤモンド』なども刊行された。」p.335との記述が追加された。
ラジオについての脚注に,「満州事変が始まると,出征兵士の安否を気づかう人びとがラジオ放送の定時ニュースに耳を傾けるようになり」p.336が追加された。
学問についての説明に,「『東洋経済新報』などで急進的自由主義が主張される一方,マルクス主義が知識人に大きな影響を与えた。なかでも,1917(大正6)年に出版された河上肇の『貧乏物語』は広範な読者を獲得した。」p.336との記述が追加され,急進的自由主義の脚注として,「『東洋経済新報』の記者であった石橋湛山は,朝鮮や「満州」など植民地の放棄と平和的な経済発展を主張し,「小日本主義」と呼ばれた。」が追加された。なお,『貧乏物語』執筆のころの河上肇はまだマルクス主義の影響下にはない。
マルクス主義の影響下で昭和初期,「明治維新以来の日本の近代社会の性格をどのように把握するかをめぐって論争が展開された」p.336ことが新しく説明され,「この論争は日本資本主義論争と呼ばれ,その後の日本の社会科学の方法に大きな影響をおよぼした。雑誌『労働』に論文を執筆した櫛田民蔵・猪俣津南雄ら労農派と,野呂栄太郎が編集した『日本資本主義発達史講座』に論文を執筆した羽仁五郎・服部之総・山田盛太郎らの講座派とのあいだでおこなわれた」との注記が新しく追加された。なお,野呂栄太郎・羽仁五郎・山田盛太郎らによって『日本資本主義発達史講座』が編集・出版されたことは現行版でも書かれている。
「和辻哲郎は仏教美術や日本思想史を研究し,『古寺巡礼』『風土』などを著した。」p.336-337が追記された。
理化学研究所についての説明が詳しくなった。まず1917年設立であることが記されp.337,そのうえで脚注のなかで「欧米に対抗し得る物理学や化学の研究をおこなうことを目的に,財界からの寄付金,国庫補助,皇室下賜金によって設立され,のちに理研コンツェルンに成長した。」との説明が追加された。
建築についてのデータが追加された。「1914(大正3)年に開業した東京駅が辰野金吾の代表的な作品となった。」p.338
なお,脚注から本文に移った記述が非常に多い。
15 在華紡について。
大戦景気のなかで「中国で工場経営(在華紡)をおこなう紡績業も急拡大した」p.323と新しく書かれたのに,p.340では今まで通り「巨大紡績会社は,大戦ののち中国に紡績工場をつぎつぎに建設した(在華紡)」と書かれ,矛盾した記述になっている。
16 沖縄戦のコラムについて。
現行版にあった「沖縄県は1995年,沖縄戦で亡くなった全戦没者(アメリカ側も含む)の名を刻印した「平和の礎」を建設した。」との記述が消え,敵味方をこえた全戦没者の追悼という行為についての記述がカットされた。
17 高度経済成長の記述がこれでもか!という程に詳しくなっている(詳細は省く)。
そして朝鮮特需の概要(統計表が3つ)、主要経済指標が戦前水準をこえた年度、食糧自給率の推移、エネルギー需給の推移、輸送機関別国内旅客輸送分担率の推移、と統計(グラフ)が増えた。一方、公害問題や人権問題といった「ひずみ」についての記述は,ほぼ変更なし。
18 中流意識に関する説明で、「マス=メディアと公教育機関による大量の情報伝達は、日本人の考え方や知識を平均化・画一化する機能をも果たし」の部分が、「マス=メディアによって大量の情報が伝達されると、日本人の生活様式はしだいに画一化され」に変更p.399。
19 「オリンピック東京大会、(中略)日本万国博覧会が開催されたが、これらは経済・文化での日本の発展を世界に示す、壮大な国家的イベントであった」p.400。「…が、」という、前置き・補足的説明に用いる曖昧な接続表現は教科書で使って欲しくない。
20 列島改造政策について。
現行版「太平洋ベルト地帯に集中した産業を全国の地方都市に分散させて、それらを新幹線と高速道路で結ぶという」との説明が、「工業の地方分散、新幹線と高速道路による高速交通ネットワークの整備など」と事項の羅列に変更されたp.404。
1960年代のところでは新産業都市建設促進法に加え、全国総合開発計画を追記しつつ、地域間格差の是正という意図が実現せず太平洋ベルト地帯への工業の集中が以後も進行したことを指摘しているのに、新課程見本版の事項羅列では、今よりもそれらとのつながりを読み取りにくくなった。
21 1970年代後半以降に経済大国化するなかで「円高基調が定着」と書き、1980年代初めのアメリカのドル高政策を触れないまま、1985年のプラザ合意で「ドル高の是正」と書かれた。円高基調のなかでドル高を是正する,という意味不明な文脈になってしまっている。
山川2013見本版の変更箇所[目次] [原始・古代] [中世] [近世] [近現代]