目次

4 江戸幕府の滅亡 −1865〜1869年−


政治史 八月十八日の政変により幕府と朝廷との和解は実現したが,朝廷のもとで雄藩が国政運営を協議するという新しい政治のあり方は失敗におわった。これ以降の政治史の一つの軸は,朝廷での主導権を握った幕府と雄藩連合による新しい政府をつくろうとする薩摩藩などとの主導権争いだ。もう一つの軸が,民衆のなかの世直し(社会変革)を求める動きだ。

1 幕末期の社会

 江戸時代においては人びとは宗旨人別帳に登録されるのが原則だが,江戸後期にもなると百姓の階層分化が激しく,人別帳からはずれる無宿が多くなり,都市に流入する貧民が増加した。ちょっとした物価の上昇で生活をおびやかされ,打ちこわしに参加する人びとが増えたのだ。そうした社会秩序の動揺を反映して,伊勢神宮(三重県)への突発的な集団参詣である御蔭参りが流行したり,金光教・天理教・黒住教など世直し的な思想をもつ新興宗教が普及した。生活不安からの解放をもとめる衝動・世直しへの期待が宗教という回路をとって表面化していたのだ

2 長州藩をめぐる動き

 長州藩では,1865年1月高杉晋作らが奇兵隊など諸隊を率いて反乱し,反幕府派が再び藩政の主導権を握った。そして,身分を問わない志願兵により洋式軍隊を整備し,幕府に対抗できる態勢を整えていった。
 これに対して幕府は,第2次長州征討の実施を決定し,同年9月朝廷から勅許を得る。ところが,薩摩藩がこの計画に反対し,1866年1月土佐の中岡慎太郎・坂本竜馬の仲介で長州藩とのあいだに薩長盟約を結んだ。長州藩へ軍事援助をおこなって長州征討を失敗に追い込み,幕府の権威をさらに低下させることによって,国政での主導権を得ようとねらったのだ。


外交史 幕府と長州藩が戦闘をまじえるという状況をむかえ,イギリスなど欧米諸国はどういう態度をとったか?

3 条約勅許

 イギリス・アメリカ・オランダ・フランスの四国は,1865年兵庫沖に軍艦をならべ,条約勅許を要求した。長州征討が内戦のきっかけとなって安定した貿易が阻害されることを危惧し,攘夷を封じしようとしたのだ。その結果,同年朝廷はついに条約勅許に決した。しかし,兵庫開港を延期することが条件となっていたため,欧米諸国は譲歩とひきかえに関税率の引き下げを幕府に要求し,1866年改税約書が調印された。

改税約書
関税率:従価税約20%→従量税5%
結果…欧米からの輸入が増大→輸入超過へ転換


政治史 欧米諸国の軍事的圧力を背景とした条約勅許は,幕府の権威をいっそう低下させた。幕府にとっては第2次長州征討に勝利することが,自らの政治的権威を回復するためには不可欠。ところが....

4 第2次長州征討

 1866年6月幕府・長州間で戦闘が始まったが,幕府軍は長州藩兵に各地で敗北した。さらに,幕府や諸大名が軍用米の徴集をおこなったために米価が騰貴し,各地で世直しを掲げた百姓一揆(世直し一揆)が発生,大坂・江戸では打ちこわしが頻発していた。窮地に陥った幕府は,将軍家茂が大坂城で死去したことを理由に,同年8月戦闘を停止した。
 15代将軍となった徳川慶喜は,フランス公使ロッシュの支援をうけ,西洋軍制と近代的官僚制の採用により幕府強化をめざした。それに対して大久保利通・西郷隆盛(薩摩)らは,長州藩や公家岩倉具視らとの提携を強化して武力倒幕の意志をかためたが,イギリス公使パークスは徳川家と有力大名による新政府への平和的な移行を期待していた。

5 新政府の構成をめぐる主導権争い

 1867年8月東海地方で始まったええじゃないかの乱舞は,10月には京都・大坂へ波及した。世直しへの期待する民衆の熱狂的な騒動だ(御蔭参りの変型)。世直し一揆・打ちこわしの頻発とともに,支配層の危機感をつのらせた。
 事態の平和的な収拾を望んだのが後藤象二郎(土佐)・前土佐藩主山内豊信だった。彼らは坂本竜馬の「船中八策」をもとに,将軍が天皇に政務を返上し,天皇のもとで徳川家と雄藩により新たな政府をつくる,という国家構想(公議政体論)を掲げ,将軍慶喜に政務の返上を建白した。これをうけて将軍慶喜は,1867年10月14日大政奉還をおこなった。倒幕勢力の機先を制し,徳川家の主導権を確保しようとしたのだ。
 ところが同日,薩摩・長州両藩は討幕の密勅をえていた。両藩は兵を京都へと進め,武力を背景として朝廷での主導権を奪い取ろうと準備を整えていく。そして,12月9日土佐・越前・尾張各藩の協力をえて王政復古の大号令を発し,新政府の樹立を強行した。

王政復古の大号令
摂政・関白・幕府などを廃絶
総裁・議定・参与の三職を仮に設置

 このクーデターで成立したのは,公議政体論にもとづく諸藩代表者会議であり,大政奉還により徳川慶喜や土佐藩がめざしたものと形式においては違いがない。新政府に徳川家を含むかどうかの違いでしかなかった。
 大久保・岩倉ら武力倒幕派は,12月9日夜の小御所会議で山内豊信らの反対をおしきって,慶喜に対して内大臣の辞職とほとんどの領地の放棄(辞官納地)を要請することを決定した。旧幕府支持派を挑発して戦闘へともちこみ,それによって徳川家を政権から排除するとともに,新政府内部での主導権を確保しようとしたのだ。
 1868年1月旧幕府軍や会津・桑名藩などの藩兵が京都に攻めのぼり,薩摩・長州両藩兵と衝突した(鳥羽・伏見の戦)。薩長新政府と旧幕府支持派との内戦(戊辰戦争)の始まりだ。


政治史 武力倒幕派は戊辰戦争という内戦を遂行するなかで,新政府の主導権を握り,諸大名の新政府への統合をすすめていく。

6 戊辰戦争と明治新政府の組織

 鳥羽・伏見の戦での薩長軍の圧勝により,西国の諸大名は新政府支持を明確にし,三井組・小野組らの豪商が軍資金の調達に応じるなど,新政府に有利な条件が整っていった。さらに新政府軍には,豪農や無宿・博徒たちにより編成された民兵(草莽隊)が多数参加し,なかでも相楽総三ら赤報隊は東山道の先鋒をつとめ,岩倉・西郷らの許可のもとで旧幕府領の百姓たちに年貢半減を布告してまわった。世直しへの期待を吸収することによって,新政府は戦局を有利にしていったのだ。そして,江戸城の総攻撃については,イギリスが反対の態度を示したために中止せざるをえなかったが(江戸城の無血開城),1868年4月には江戸を占領した。
 こうしたなかで新政府は,3月14日五箇条の誓文を公布した。

五箇条の誓文
(1)形式 天皇が諸大名らを率いて神々に誓う
(2)内容 公議世論の尊重・開国和親

 由利公正(越前)・福岡孝弟(土佐)が起草した段階では諸藩代表者会議の盟約という形式がとられていたのが,木戸孝允(長州)の修正によって,明治天皇(睦仁)が諸大名らを率いて神々に誓うという形式に変更された。つまり,諸藩代表者会議を否定して天皇が政府を主導するという形式が強調されたのだ。これは,公議政体論が後退し,大久保・木戸・岩倉ら武力倒幕派が新政府の主導権を握ったことを示したものだ。また,万国公法−−西欧流儀の国際関係−−を遵守することを掲げ,攘夷の放棄を宣言することで,欧米諸国からの支持を得ようとした。
 さらに3月15日五榜の掲示を出して民衆政策の基本方針を示した。

五榜の掲示
○恒久的なもの
 (1)五倫の道徳 (2)徒党・強訴の禁止 (3)キリスト教の禁制
○一時的なもの
 (4)外国人殺害の禁止 (5)本国脱走の禁止−草莽たちの取締り−

 これは江戸幕府の民衆政策を継承したものだ。新政府は,年貢半減を布告してまわった相楽総三ら赤報隊を偽官軍として処刑していたように,民衆の世直しへの期待を自らの権力確立に利用しても,必ずしもその期待にこたえることはなかったのだ。
 こうした理念を提示した新政府は,1868年閏4月政体書を制定し,政府組織づくりに乗り出す。

政体書
(1)太政官に権力を集中
 →アメリカにならって三権分立・官吏公選制
(2)地方は府県藩の三治制

 さらに新政府は,上野彰義隊の抵抗を鎮圧して関東を制圧し,奥羽越列藩同盟を結成して抵抗した東北諸藩をやぶり,箱館を拠点として蝦夷島政府を樹立した旧幕臣の榎本武揚らを,1869年5月五稜郭の戦で降伏させた。こうして約1年半ばにおよぶ内戦が終結した。

7 版籍奉還

 内戦を遂行するなか,新政府は1868年9月に元号を明治と改めたうえで天皇1代に元号1つという一世一元の制を定め,翌年には政府の所在地を東京(江戸を改称)に移した。しかし,新政府が幕府などから接収した領地以外は,それまで通り諸大名が支配を続けており,新政府の意向が全国すみずみまで行き渡るわけではなかった。そこで新政府は,1869年諸大名に版籍奉還をおこなわせた。中央集権化の第一歩だ。

版籍奉還
(1)諸大名が土地・人民の支配権を天皇へ献上
(2)木戸孝允(長州)・大久保利通(薩摩)が推進
 →薩長土肥の4藩主が最初に行う
(3)大名(藩主)を知藩事に任命→旧来の領地の統治をまかせた


文化史 戊辰戦争の結果,新政府の全国支配が確立したが,だからといって新政府の支配者としての正統性が保証されたわけではない。

8 神道の国教化

 王政復古の大号令で「神武創業の始」にもどることを宣言した新政府は,翌1868年祭政一致の制度を復活させるために神祇官を再興し,神道を国の唯一の公認宗教として人びとに強制する神道国教化政策を推進した。天皇の神格化を進め,人びとに天皇とその祖先神天照大神への信仰を強制することによって,天皇のもとでの新政府の支配の正統性を確保しようとしたのだ。そのため,1868年神仏分離令を出して神仏習合(神仏混淆)をやめさせ,神道を宗教として仏教から独立させようとした。この政策は,旧物否定の風潮とあいまって,各地で寺院・仏像を破壊する廃仏毀釈運動をひきおこし,寺請制度のもとで保護をうけて民衆支配の末端を担っていた仏教に打撃を与えた。


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