廃藩置県

【史料解説】  1871年7月廃藩置県を断行した際の明治天皇の詔書。藩の存在が万国対峙のために障害となっているとの理由で,藩を廃止することを宣言している。公議世論よりも万国対峙を重視している点に注意。
 版籍奉還によって,政府と諸藩とが協同しながら全国の統治をおこなう体制が整えられたものの,江戸時代同様,半独立国としての藩政の伝統が残っていた。そのため,政府と諸藩はしばしば対立し,諸藩の合意を確保するために設けられていた集議院は政府により閉鎖されてしまう。さらに,軍隊編制をめぐる対立も激しく,テロや反乱が相次ぐ。徴兵制度の導入をめざした大村益次郎(長州藩出身)が1869年9月襲撃をうけ,さらに同年11月奇兵隊など長州藩の諸隊による反乱(脱隊騒動)が発生,71年1月には参議広沢真臣(長州藩出身)が暗殺された。また,欧化政策を推進するにあたっての財源不足は,政府直轄地である府・県への徴税強化となり,世直しへの期待を裏切られたことから新政反対の農民一揆が続発していた。
 こうした事態のなかで大久保利通・木戸孝允らは,薩長土3藩の協力を軸として中央政府の強化を追求,まず薩摩・土佐でそれぞれ藩政にあたっていた西郷隆盛・板垣退助を上京させ,1871年2月薩長土3藩の藩兵によって御親兵を構成。4月には鎮台を設置,最も反政府活動のおそれのある東北・九州に兵力を配置した。こうした軍事力を背景に,薩長両藩実力者のあいだで極秘裏に計画が進められ,7月14日在京の知藩事を東京城に召集,廃藩置県のクーデターを敢行した。


地租改正条例

【史料解説】  1872年田畑永代売買の禁令を解除し,所有者と地価を記した地券を交付して土地私有権を確立したうえで,1873年に公布されたのが地租改正条例。地価の3%という税率は,旧来の租税収入総額とほぼ同額の収入を前提として計算されたもので,農民の負担は軽減されなかった。
 改正事業は,1875年に地租改正事務局が設けられて以降,急ピッチで進み,80年までに山林原野を残して完了した。その際,政府が地価を一方的に決定し押しつけるという高圧的な姿勢をとったため,76年各地で地租改正反対一揆が激化。そこで政府は,翌77年1月地租を地価の3%から2.5%に減額して収拾をはかった。


徴兵告諭

【史料解説】  廃藩置県により全国の軍事(徴兵)権を集中させた政府は,士族(武士)だけで構成される軍隊にかえて,四民平等の軍隊を創出することをめざし,1872年11月徴兵告諭を発した。当初は外国との戦争や外国への出兵は問題とされておらず,国内の反乱鎮圧を目的とするものだった。
 国民皆兵とはいえ,兵役免除の制度が設けられ,一家の主人やその後継ぎ,官庁勤務者や官公立学校の生徒,徴兵在役中の者の兄弟,代人料270円を納めたものなど,広く免除者が設定されており,養子縁組などで徴兵を忌避するものが多かった。また,主要な働き手を奪われることになる民衆の反発が強く,各地で徴兵令反対一揆=血税騒動がおこった。


学事奨励ニ関スル被仰出書

【史料解説】  1872年8月に出された太政官布告で,学制の趣旨を説明したもの。学制とともに全国各府県に頒布された。「邑ニ不学ノ戸ナク,家ニ不学ノ人ナカラシメン」と国民皆学の理念を掲げ,社会と個人の幸福との調和をめざす功利主義の立場から個人の立身出世・実学が重視された。同時に発布された学制では,フランスの学区制にならって全国を8大学区にわけ,さらに中学区・小学区に区分し,各学区にそれぞれ大学校・中学校・小学校を1校ずつ設置するものとされていた。まず小学校の設立に力が注がれ,寺子屋などをもとに,実施後数年の間に全国に小学校が開設された。とはいえ,学校の設置・維持費用については市町村にゆだねられたため,養蚕・製糸業のさかんな地域などでは洋風の小学校が設立されていったものの,当時の民衆にとっては大きな負担であり,学制反対を掲げた農民一揆が頻発した。


樺太・千島交換条約

【史料解説】  1875年日露間で懸案だった領土問題を解決するため,樺太・千島交換条約が調印された(日本全権榎本武揚)。日露和親条約では,千島列島については択捉島と得撫島との間に国境を設けたものの,樺太については帰属未解決のまま国境を定めず日露両国民が雑居する地域としていたため,紛争が絶えなかった。日本国内では,開拓使長官黒田清隆を中心に,樺太を放棄して北海道の開拓に専念すべしとする意見が強く,イギリス公使パークスもそれを支持していた。その結果,日本は樺太を放棄するかわりに得撫島〜占守島を獲得し,千島列島全てを領有することとなった。


日朝修好条規

【史料解説】  新政府と朝鮮との国交交渉は難航していたが,朝鮮で攘夷派の大院君が失脚したことを利用し,1875年軍艦を出動させて朝鮮側を挑発して江華島事件をひきおこし,翌年黒田清隆を全権・井上馨を副全権として軍艦6隻を朝鮮に派遣,軍事力を圧力として交渉を進めて日朝修好条規を締結させた。第一款で朝鮮が自主独立の国であり,すでに清と対等な国交を結んでいる日本と「平等の権」をもっていることを規定し,清・朝鮮間の宗属関係を否定することをねらった。第四・五款で開港地が規定されたが,釜山以外の2港については明記されず,のちの交渉で元山・仁川と決まった。また,第十款では日本の領事裁判権が承認され,日本は自国が欧米からおしつけられたのと同一の不平等な規定を朝鮮に強要した。


天津条約

【史料解説】  天津条約は,甲申政変により悪化した日清間の関係を改善し,軍事衝突を回避するために,1885年日本全権伊藤博文と清全権李鴻章との間で締結された。清としても,いまだ清仏戦争が終結していない段階で,朝鮮において日本と衝突を招くことを回避しておきたかったのだ。条約では,両国軍が朝鮮から撤退することを規定するとともに,今後出兵する際には事前に文書で通告しあうことを約した。これにより,朝鮮への出兵に関して日清両国は対等な権利をもつこととなったが,実際には清の朝鮮に対する支配力が強まった。なお,この出兵条項は,1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が発生した際,日本が朝鮮へ出兵する根拠となった。


脱亜論

【史料解説】  甲申政変で日本公使館・駐留日本軍が支援した金玉均らのクーデターが失敗におわったことをうけ,金玉均らに積極的な支援をおこなっていた福沢諭吉は,1885年自らの主宰する新聞『時事新報』に「脱亜論」を発表した。そこには,日本こそが清や朝鮮を覚醒させ文明国へと導くのだとの使命観がうかがえるとともに,道義ではなく力こそが国際政治の基本だ(ポワー・ポリティックス)との認識が示されている。文明開化を基準として侵略を正当化する論理だ。こののち福沢は,日清戦争を文明と野蛮の戦いとして正当化した。


民撰議院設立建白書

【史料解説】  これは,明治6年の政変で参議を辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らが,1874年太政官左院へ提出した民撰議院設立建白書。前参議4名以外に,由利公正・岡本健三郎・古沢滋・小室信夫が署名。
 この建白は,五箇条の誓文で掲げられた公議世論の尊重の理念と,西欧の天賦人権論・議会政治の知識とが結びついたところに生まれたもの。納税者が参政権をもつとの論理が援用されているが,彼らの発想では,参政権は士族・豪農商に限られていた。


漸次立憲政体樹立の詔

【史料解説】  大久保利通・木戸孝允・板垣退助らによる大阪会議の結果,1875年4月に出された漸次立憲政体樹立の詔。
 征韓論争のあと,民撰議院設立建白書の提出・佐賀の乱・台湾出兵があり,すでに西郷隆盛・板垣退助らが政府を去り,さらに台湾出兵を機に木戸孝允も参議を辞職しており,大久保利通を中心とする政府は厳しい政治情勢におかれていた。そこで大久保は,木戸を参議に復帰させることで政府を強化し,板垣の参議復帰によって土佐派の政府攻撃を軟化させることをねらった。この詔書により左院・右院が廃止され,かわって元老院・大審院の設置,地方官会議の召集が実現した。しかし,まもなく木戸・板垣は再び参議を辞し,大久保専制に戻ってしまう。


国会開設の勅諭

【史料解説】  1881年10月明治14年の政変に際し,開拓使官有物の払下げ中止・参議大隈重信の罷免の決定とともに出された国会開設の勅諭。
民間では国会期成同盟による国会開設請願運動が全国的に高まって各地で私擬憲法が作成され,政府内部でも,参議大隈重信がイギリス流の議院内閣制と1883年の国会開設を主張し,岩倉具視や伊藤博文らと対立していた。そこで岩倉・伊藤らは政府内部の意志を統一し,立憲体制の整備における主導権を確保するため,明治23(1890)年の国会開設を約束するとともに,「其(注:国会のこと)組織権限ニ至テハ,朕親ラ衷ヲ裁シ」と,欽定憲法の方針を掲げた。


保安条例

【史料解説】  井上馨外相の条約改正交渉に対して三大事件建白運動が高まった際,第1次伊藤博文内閣が1886年に発令した保安条例。中江兆民・尾崎行雄ら民権派570名を皇居外3里の地へ追放させたもので,内乱や治安妨害のおそれがあると判断しただけで追放処分できるとしている。この時の内務大臣(内相)は山県有朋,警視総監は三島通庸であることにも注意。


東洋大日本国国憲按

【史料解説】  植木枝盛が起草した「東洋大日本国国憲按」。民間で作成された私擬憲法のうち,最も急進的な内容をもつ憲法草案。抵抗権と革命権を規定している点が特徴。政府に対して武器をもって抵抗したり(抵抗権),政府を滅ぼして新政府を樹立する(革命権)ことを,憲法で人民の権利として認めている。とはいえ,天皇(皇帝と表記)の存在を否定するものではなかった。


大日本帝国憲法

【史料解説】  1889年2月11日に明治天皇により発布された大日本帝国憲法。
 まず第1条で「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定し,天皇が統治権をもち,その統治権は祖先神天照大神から受け継がれてきたものだと宣言,天皇のもつ統治権の由来・源泉を絶対的なものとして確保した。しかし,第4条で「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と規定し,天皇が統治権を行使する際には憲法の規定に従うべきことと定め,天皇が無制限に権限をふるえたわけではなかった(ここを根拠に,ドイツの憲法学者イェリネックの国家法人説が導入され,天皇機関説が登場する)。天皇が最終的な裁定を下し,統治をおこなう際に,それをサポートしたのが,≪立法≫帝国議会(立法の協賛),≪行政≫内閣(国務を輔弼)・枢密院(諮詢に応じて重要国務の審議),≪司法≫裁判所(天皇の名において裁判)。天皇のもとで立法・行政・司法の三権が分立し,これらの国家機関の動向は天皇によって統一されることになっていたのだ。
 第8条から第14条は天皇大権を規定。第8条は議会閉会の場合に法律と同じ効力をもつ緊急勅令を発令することができる権限,第11条は陸海軍の統帥権,第12条は陸海軍の編制権,第13条は宣戦の布告(戦争を始めること)・講和の締結・条約の締結,第14条は通常の行政・司法権を停止して軍の管轄下におく戒厳令を布告する権限。これらは,第11条の統帥権を除いて,内閣の輔弼によって行使され,第11条は軍令機関(軍の作戦・計画の遂行を担当)である陸軍参謀本部・海軍軍令部が補佐した−統帥権の独立−。
 なお,憲法には規定されていないが,つねに天皇の近くにいて天皇の政務・軍務を支える集団が存在した。元老・内大臣・侍従長・侍従武官長・宮内大臣などだ。元老は,天皇にとっては国家運営をおこなう上での最高顧問で,後継首相の選出など,重要な決定に際しては常にその意見が求められた。内大臣は天皇の相談相手で,政務に関する補佐をおもな仕事とし,昭和期にって元老が西園寺公望ひとりになると,後継首相の選出に大きな役割を果たすようになる。侍従長は天皇に仕える侍従をまとめ,政治的な問題を含めて天皇の日常的な活動全般を補佐し,侍従武官長は天皇の軍事問題に対する質問に対応し,大元帥たる天皇の軍事顧問としての役割を果たした。宮内大臣は皇室財産の管理と皇族・華族の監督を主な仕事とし,天皇の国務・統帥には直接タッチしなかった。
 第28・29条に信教の自由,言論・集会・結社の自由が規定され,基本的人権が認められているが,制限付きでしかない点に注意。


教育に関する勅語(教育勅語)

【史料解説】  1890年に発布された教育勅語。井上毅と元田永孚が起草。儒教道徳を強調し,忠君愛国を臣民の天皇への奉仕として説いた。この勅語には国務大臣の副署がないため,天皇の意志だけから発せられたかのような印象をあたえ,大きな規範力をもつこととなった。
 教育勅語は,天皇・皇后の肖像写真(「御真影」と呼ばれた)とともに全国の学校に頒布され,三大節(新年・天長節・紀元節)の儀式には,「御真影」への最敬礼とあわせて,学校長による教育勅語の奉読が義務づけられた。漢文調で書かれているため小学校児童にとっては理解できるものではなかったが(そのために修身という教科が設けられた),学校長がうやうやしく奉読する教育勅語を,頭をたれて拝聴するという身体的な訓練を通して,天皇への崇敬の念が幼少の時期から植えつけられることとなった。


明治民法

【史料解説】  フランス人法律顧問ボアソナードが起草した民法が1890年に公布されると(1893年施行予定),東京帝大教授穂積八束の論文「民法出デヽ忠孝亡ブ」に代表される国家主義的な法学者がその施行に反対した。穂積らは,法が国家を拘束する法治主義を否定して祖先崇拝を基礎とする“家”制度を国家の基礎として位置づけ,ボアソナード起草の民法がそうした「伝統的な」家族道徳を破壊するものだと批判したのだ。それに対して,東京帝大教授梅謙次郎らは民法実施を主張したが,結局,政府は施行を延期し,1898年明治民法を改めて公布した。明治民法では,家では戸主,夫婦では夫,家族のなかでは父と長男が重んじられた。たとえば,第83条では,妻が不倫をすればそれだけで離婚訴訟に持ち込めるが,夫の場合は不倫したという事実だけではだめで,刑に処せられなければ離婚訴訟に持ち込めないとなっている。