黒田清隆首相の超然主義演説

【史料解説】  憲法発布の翌日に黒田清隆首相が地方官を鹿鳴館に集めておこなった,いわゆる超然主義演説の一節。政党の存在を認めつつも,政党の動向に左右されることなく政策の立案・実行にあたることを表明している。
 憲法では天皇が国家元首として統治権をもち,天皇を輔弼する内閣は天皇に対して責任を負うとだけ規定されていて,議会への責任は明記されていないため,このような超然主義を表明することが可能だった。


自由党を祭る文

【史料解説】  1900年9月伊藤博文が立憲政友会を結成し,憲政党はみずから解党して参加した。幸徳秋水「自由党を祭る文」(『万朝報』)は,その憲政党の動向を批判したもの。
 憲政党(星亨ら)はもともと第2次山県有朋内閣と提携していたが,山県内閣が文官任用令の改正・軍部大臣現役武官制の導入などにより政党勢力の抑制を図ったため対立し,以前から政党の組織を計画していた伊藤博文に接近し,新党に合流していった。
 これによって地主たちの地方開発の要求を政党が集約して政策として内閣に提示・実現を図る(それによって政党の支持基盤=党勢を拡張する)という政治スタイルが整った。だからこそ,星亨らは第4次伊藤内閣の成立を政党内閣の成立だと評価した。しかし,憲政会が自由民権運動いらい藩閥と対立してきた自由党を継承している以上,その伝統に対する裏切り行為であることも事実だった。幸徳秋水はその点から政友会の結成を批判したのだ。


山県有朋首相の主権線・利益線演説

【史料解説】  1890年第1回帝国議会の開催にあたって山県有朋首相は,日本の独立自衛を確保するには主権線(国境)の防御だけでなく利益線の保護が必要であり,そのためにも陸海軍の軍備拡張が必要だと説明した。利益線とは“敵対国に支配されると国土の安全が脅かされる地域”のことであり,ここでは朝鮮を指していた。なお,利益線の保護とは,その地域が“敵対国に支配されることを阻止し,中立を保つこと”であり,その地域を政治的に支配することに直結するわけではなかった。
 山県首相は,イギリスとロシアが世界的に対立し,巨文島事件以降にイギリスが清との関係を密接化させ,東アジアではイギリス・清陣営 vs ロシアという対立構図ができあがっていたことを前提として,ロシアの朝鮮進出を阻止すること,そのために清との協調を図りながら朝鮮の独立と中立を確保することを,日本の防衛戦略として示したのだ。しかし,甲申政変以降,清が朝鮮への影響力を強め,イギリスもそれを支持している以上,清が日本との提携を重視するかは微妙であり,日清提携のもとでの朝鮮の中立化を実現させるという外交戦略をとるにあたっては,朝鮮における日清間の勢力均衡を獲得すべく日本側から積極的に働きかけることが不可欠になる。また,朝鮮の中立化を朝鮮政府に押しつけるとすれば,それは内政干渉だ。つまり,清や朝鮮との対立が生じる可能性を含んだ戦略だった。そのため,外交・内政のさまざまな要素にからんで,対清・朝鮮強硬路線へと転換する素地をもっていた。


条約改正と日清戦争

【史料解説】  『蹇蹇録』は第2次伊藤博文内閣の外相陸奥宗光が1894〜95年の外交政策について記した回想録。
 日本は,甲午農民戦争の勃発をきっかけとして,1894年6月朝鮮に出兵したものの,日本軍が朝鮮に上陸したときにはすでに朝鮮政府と反乱軍との間に和睦が成立し,農民反乱は終わっていた。つまり,軍隊駐留の名目を失ってしまっていたのだ。しかし,日本国内では対外硬の主張が強く,撤兵を実施することは内閣の存亡を危うくする可能性が高かった。朝鮮への出兵により内閣と衆議院(対外硬派連合)との対立関係が決定的な危機状況におちいったのだ。そこで,伊藤内閣は危機を打開するため強硬策へと向かう。清に対して朝鮮の内政改革に向けて共同干渉をおこなうことを提案して拒否されるや,7月10日単独で朝鮮政府に対して内政改革を申し入れ,さらに清との宗属関係の破棄などを要求して拒否されるや,7月23日朝鮮王宮を攻撃・占領して閔妃一派を追放,大院君を擁して親日派政権を樹立させた。他方,ロシアやイギリスの干渉を排して清との開戦へと導くため,青木周蔵駐英公使にイギリスとの条約改正交渉を急がせた。その結果,重要輸入品について協定関税制を残し,施行を5年後とするなどイギリス側に譲歩し,7月16日日英通商航海条約の調印に成功した。日清間で戦端がひらかれた豊島沖の海戦は7月25日のことだった。


下関条約

【史料解説】  1895年4月日本全権伊藤博文首相・陸奥宗光外相と清全権李鴻章らの間で日清講和条約(下関条約)が調印された。
 朝鮮王宮を軍事占領して親日派政権を樹立させた日本は,朝鮮の独立確保を掲げて清との戦争にのぞんだが,第一条でその目的を実現させた。そこでは清の朝鮮に対する宗主権を否定し,清・朝鮮間の宗属関係を清算している。
 他方,戦場が清の領土内にも及んだことから,日清戦争は清国分割戦争という性格も有することになった。第二条では遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を定め,第六条では日清修好条規を廃棄し,日本側が有利な不平等条約を結ぶことを規定するとともに(1896年に日清通商航海条約が締結された),長江流域の沙市・重慶・蘇州・杭州の開港・開市などを規定した。これらの規定がヨーロッパ諸国による中国分割競争の引き金となったのだ。


三国干渉

【史料解説】  日本による遼東半島の獲得は,ロシア・フランス・ドイツの干渉(三国干渉)を招いた。史料はそのうちのロシア政府の勧告。
 日清戦争前のロシアの極東政策は,沿海州地域の安全確保のために朝鮮の現状維持(独立確保と特定の一国による支配の阻止)をはかることに主眼があり,朝鮮の現状維持を脅かす事態として日清戦争をとらえていた。だから,ロシアは日本政府への勧告のなかで,日本の遼東半島領有は「朝鮮国ノ独立ヲ有名無実トナスモノ」だと主張していた。
 ロシアの関心はそれだけではない。ロシアの予想に反して日本が圧勝し,南満州への進出をすすめたことが,ロシアの危機感をかきたてていたのだ。ロシアはもともと,イギリスの支持をうけた清による朝鮮支配を警戒し,対清不信・対日友好路線をとっていたが,対清友好・対日対立路線へと転換し,将来における中国分割競争でロシアが優位を占めるためにも日本の南満州進出を抑制しようとしたのだ。そこには,日本の対清戦争がシベリア鉄道建設の結果でありロシアを指向したものだとの認識があった。
 三国干渉をうけ,第2次伊藤博文内閣は遼東半島を還付することを決定したが,遼東半島の割譲が列国の干渉を招く危険性は政府内部でも予想されていたことであり,外交上の失策だった。これに対し,日清戦争前から対外硬を主張してきた民間ジャーナリズムは,政府の失策を批判しながら,臥薪嘗胆をスローガンに掲げ,ヨーロッパ諸国に対抗できる国力充実を図るべきだとの議論を強めた。中国の故事にならい,屈辱をはらすまで艱難辛苦に耐えようというのだ。このスローガンは,政府が軍事力の強化をめざす日清戦後経営への国民の協力をもとめるうえで,うってつけの言葉となっていった。


日英同盟協約

【史料解説】  1902年1月第1次桂太郎内閣(外相小村寿太郎)のもとで日英同盟協約が締結され,清・韓国の独立承認,戦時における中立,第三国の参戦に対する共同戦闘を規定した。ロシアを仮想敵国とする軍事同盟だ。
 イギリスの海軍力はかつて世界第一を誇っていたものの,ドイツ・フランス・ロシアの海軍増強がその優位性を揺るがせていたし,日清戦争後の東アジアにおいては,日本の果たす役割を無視することができなくなっていた。こうした国際環境のもと,イギリスはロシアの満州占領という事態に対抗するため,日本に防壁としての役割を期待して攻守同盟の締結へと進んだのだ。
 それに対して日本は,イギリスのために「極東の番犬(憲兵)」という役割を果たしながら,韓国支配の実現という独自の利害を実現させようとしていた。つまり,ロシアとの間で日露協商の予備交渉を進めるなかで,日英同盟を圧力として活用しながらロシアからの譲歩を引き出そうとしていたのだ。ところが,日本が満州問題と韓国問題を一体として交渉しようとしたのに対し,ロシアは満州問題は露清間の問題だとして韓国問題だけを議論しようとしたため,なかなか交渉が成立せず,さらにロシアが満州からの撤兵という公約を果たさなかったため,ロシアとの対等な満韓交換のためには日本による韓国領土の軍事利用が不可欠と判断されて日本の態度が強硬となり,結局,交渉は決裂して日露戦争を招いた。


ポーツマス条約

【史料解説】  セオドア・ローズヴェルト米大統領の仲介により日露間で講和交渉がおこなわれ,1905年9月日本全権小村寿太郎外相・ロシア全権ウィッテ蔵相らによって日露講和条約(ポーツマス条約)が調印された。
 第二条で韓国における日本の指導権が承認されたものの,賠償金の支払いとサハリンの割譲についてはロシア側が強硬に反対したため,日本は賠償金を放棄し,サハリンは南半分の割譲で妥協して交渉を成立させた。それ以外には,沿海州・カムチャツカ半島沿岸の漁業権を獲得した。
 しかし,賠償金の獲得を放棄したことは国民の不満を招いた。条約調印の当日,対露同志会が主催した東京・日比谷公園での講和反対国民大会は数万の民衆が首相官邸などを襲撃する大事件となり(日比谷焼打ち事件),さらに横浜・大阪などの大都市へと暴動が波及した。


第2次日韓協約

【史料解説】  日本は“韓国の保全”を掲げて日露戦争を戦ったが,韓国の独立維持ではなく,日本による保護国化を実現させることがねらいだった。日本は戦争終結後の1905年11月軍事力を背景として第2次日韓協約(乙巳保護条約)を韓国に強要し,外交権を奪取した。朝鮮に対する優越性については,日露講和条約に先立って,桂・タフト協定と第2次日英同盟によって米英両国からすでに同意を得ており,帝国主義諸国による東アジア分割の一環だった。


韓国併合に関する条約

【史料解説】  第2次日韓協約以来,日本は“韓国は自力では独立するこ とができないので日本が韓国に保護を与えて富強を図る”との名分を掲げて司法制度の整備・殖産興業などの政策を進めていたが,それは内政干渉・主権侵害でしかなかったため,反日義兵闘争を激化させていた。そこで日本は,韓国に対する強固な支配を打ち立てるため,1909年7月韓国併合の方針を決定し,10月の伊藤博文暗殺事件をへて,イギリス・ロシアの承認をえた後,1910年8月韓国併合条約を締結した。その際,日本の保護下にある韓国を強制的に併合すれば国際的非難を受けかねないため,韓国皇帝が統治権を譲与し(第一条),天皇がそれを受諾する(第二条)という,合意を装った形式がとられた。なお,「併合」という用語は,日韓対等の合併という印象を与えず,国家廃滅・領土編入でありながらも刺激的ではない言葉として選ばれたものだった。


治安警察法

【史料解説】  1900年第2次山県有朋内閣は治安警察法を制定し,政治結社および政治集会の届け出を義務づけるとともに,結社禁止・集会禁止の権限を政府に与えた。さらに,労働組合への加入を禁止し,労働争議・小作争議を実質的に禁止した。


社会民主党宣言

【史料解説】  1901年5月社会主義協会員の安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・木下尚江・西川光次郎・河上清の6人が社会民主党を結成した。史料はその宣言書の一部で,このほかに綱領があり,軍備縮小または全廃・重大問題に関する直接投票制・貴族院の廃止などを掲げていた。治安警察法の規定により警察署に届け出たところ,翌日治安警察法により結社を禁止された。なお,宣言を掲載した雑誌『労働世界』(労働組合期成会の機関誌・片山潜が中心)や新聞『万朝報』『大阪毎日新聞』などは発禁処分を受けた。


工場法

【史料解説】  1911年3月第2次桂太郎内閣は,日本で最初の労働者保護法として工場法を制定した。すでに1880年代から農商務省を中心として立法化の努力が進められていたが,紡績資本家などの反対で難航し,1911年にようやく成立した(施行は1916年第2次大隈重信内閣のとき)。農商務省は社会問題の予防という観点から立法化を進めていたが,日露戦争後に軍工廠・造船所・鉱山などで大規模な労働争議が頻発し,社会主義運動のなかでも直接行動派が勢力をもつにいたって,資本家のなかにも社会不安の発生をふせぐためにも労働者保護立法が必要だとの認識がめばえて実現した。
 内容は12歳未満の就労禁止,年少者・女子の深夜業禁止,12時間労働制などだが,監督制度が整備されていなかったために違反行為が多く摘発されないままに存続した。また,紡績資本家が年少者・女子の深夜業禁止に強く反対したため,紡績業については適用が猶予され,年少者・女子の深夜業が全面的に禁止されたのは1929年のことだった。


『青鞜』発刊に際して

【史料解説】  1911年6月女性だけの文学団体として青鞜社が結成され,同年9月『青鞜』が発刊された。史料は,創刊号の冒頭にかかげられた文章の一節で,平塚らいてうの執筆。日露戦争後になって個人主義が浸透・定着していくなか,女性の自我の確立を強調し,家制度のもとでの束縛からの解放をうたいあげた。青鞜社の発起人は平塚らいてうと平塚の出身の日本女子大同窓生で,他に与謝野晶子・野上弥生子らが参加した。