尾崎行雄の桂内閣弾劾演説

【史料解説】  1913年2月5日衆議院本会議で立憲政友会の尾崎行雄がおこなった桂内閣弾劾決議案の提案理由説明。
二個師団増設問題で第2次西園寺公望内閣が総辞職したあと,内大臣兼侍従長として宮中にあった桂太郎が内閣を組織した。その際,宮中から府中に出る不都合をとりつくろうために大正天皇の詔勅が発せられ,また海軍が軍備拡張の確約を求めて海相を出そうとしなかったことに対しても詔勅を使って斎藤実海相を留任させた。こうした天皇を政治的に利用した組閣過程が,宮中・府中の区別を無視した行動として世論の批判をあびていた。また,桂首相は護憲運動のもりあがりに対抗するために新党の組織を計画したが,首相在任中の政党結成については貴族院勢力のなかにも反対が強く,尾崎の演説のなかでも憲法を軽視する行動として批判されている。


美濃部達吉の天皇機関説

【史料解説】  1935年貴族院本会議で菊池武夫議員が天皇機関説を反国体的であると非難したことに対し,貴族院議員だった美濃部達吉がおこなった弁明の一節。
美濃部の憲法学説は一般に天皇機関説と称され,上杉慎吉の天皇主権説と対立した点が強調されているが,天皇が統治権(主権)をもつことを否定していたわけではない。天皇のもつ統治権を無制限なものと解釈する天皇主権説に対して,美濃部は天皇の統治権に限界があると解釈していたのだ(これは美濃部だけに限られた特異な憲法解釈ではなく,たとえば伊藤博文も同様の解釈をもっていた)。その憲法解釈の基礎にあったのが国家法人説,つまり国家を共同の目的をもった集団(法人)とみなす学説だ。そのもとで,国家が統治権の主体とされ,天皇は国家の元首として国家を代表し,憲法の規定に従いながら権限(権能)を行使する存在であると解釈された。


吉野作造の民本主義

【史料解説】  吉野作造が1916年に雑誌『中央公論』に発表した「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」の一節。
吉野は政治の民主化−民衆の意向を国政に反映させるシステムの確立−をめざして民本主義を提唱したが,あくまでも大日本帝国憲法を前提とした政治思想だった。国民主権にたつ民主主義を提唱したのではなく,「国体の君主制たると共和制たるとを問はず」と述べているように,天皇主権か国民主権かという主権の所在にかかわりなく,民衆重視の国政運営を実現させるための政治思想として民本主義を提唱していたのだ。大日本帝国憲法では憲法改正の発議は天皇だけがおこなえるという点から考えれば,吉野の民本主義は現実的な政治思想のひとつだったと言える。


原敬の普通選挙観

【史料解説】  『原敬日記』1920年2月20日の記事の一部。憲政会や立憲国民党が普通選挙法案を衆議院に提出し,黎明会や大日本労働総同盟友愛会などの思想・労働団体による大規模な普通選挙運動(普選運動)が全国に展開していた時期のもの。
原敬は普通選挙実現については時期尚早の立場から反対だったが,とりわけ「階級制度打破」を掲げる労働運動・社会主義運動と普選運動とが結びつくことに対して警戒的だった。この記事の約1週間後,原敬内閣は普通選挙法案を審議中の衆議院を解散し,普通選挙運動の高まりに対抗した。同年小選挙区制のもとでの総選挙の結果,与党立憲政友会が絶対多数を占め,原内閣の立場が確固たるものとなったため,これ以降,普通選挙運動は下火になってしまう。
かわって,高まる民衆運動を抑制するための手段として普通選挙の導入が計画されていく。関東大震災の直後に成立した第2次山本権兵衛内閣が普通選挙の導入を公約していたが,虎の門事件で総辞職したために実現せず,第2次護憲運動により成立した加藤高明護憲三派内閣のもとで1925年に実現した。これで納税資格が撤廃されたとはいえ,女子には選挙権が認めていなかった。そのため,市川房枝らによって1924年に組織された婦人参政権獲得期成同盟会(翌25年に婦選獲得同盟と改称)を中心として婦人参政権の実現をめざす運動が進められが,実現したのは第2次世界大戦後の1945年12月。GHQの指令にもとづいて幣原喜重郎内閣が選挙法を改正したときのことだ。


水平社宣言

【史料解説】  1922年3月全国水平社の創立大会で採択された宣言の一部。
江戸時代のえた・非人という旧賤民身分の人びとは明治維新により平民に編制されたが,新平民として社会的な差別をうけ続けていた。米騒動以降の民衆運動の高まりのなか,そうした被差別部落の住民がみずから社会的差別の撤廃に取り組もうとする部落解放運動が本格的に始まる。それが,1922年西光万吉・阪本清一郎らにより結成された全国水平社だ。加えられた侮辱に対して徹底した糺弾をおこなうという水平社の活動は各地の被差別部落民を勇気づけていった。水平社は1942年に解消したが,第2次世界大戦後の1946年部落解放全国委員会として復活し,1955年には部落解放同盟と改称した。


治安維持法

【史料解説】  1925年加藤高明護憲三派内閣は治安維持法を制定し,国体の変革・私有財産制度の否認を目的とする組織を結成したり,その組織に加盟したりすることを犯罪として規定した。共産主義運動の取り締まりを目的とする弾圧立法だ。とはいえ,適用対象はのちに自由主義者や宗教者へと拡大され,1935年には大本教(明治後期に出口なおが創始した新興宗教)が弾圧をうけ,出口王仁三郎ら多数の幹部が逮捕され,教団施設を破壊されている。


改正治安維持法

【史料解説】  1928年田中義一内閣が治安維持法を緊急勅令により改正し,最高刑として死刑を導入した。同年に実施された第1回普通選挙に際して,天皇制廃止を掲げる日本共産党が公然と活動をくりひろげたため,衝撃をうけた田中内閣が,国体の変革を目的とする組織に関する罰則規定を強化したのだ。
なお,治安維持法は1941年に全面改正され,予防拘禁制度が導入された。これは,治安維持法違反で刑に処せられた者を刑期満了後も再犯のおそれがあるという理由だけで拘禁できるという制度だ。


第一次世界大戦への参戦理由

【史料解説】  1914年8月大隈重信首相の私邸でおこなわれた閣議での加藤高明外相の発言の一部。
加藤外相の説明によれば,日英同盟の規定では日本が第1次世界大戦に参戦しなければならない義務はないが,(1)日英同盟の情誼(思いやり),(2)ドイツの拠点を占領・領有することによる国際的地位の向上,の2点を理由として参戦すべきことを提案している。つまり,日英同盟を口実として参戦し,ヨーロッパ諸国が東アジアをかえりみる余裕のないのを利用して東アジアにおける勢力範囲の拡大をめざすべきことを,加藤外相は主張していたのだ。大戦を「大正新時代の天佑」(元老井上馨の意見書)と判断していた政府は,その提言に沿ってドイツに対して宣戦布告し,大戦に参戦した。


二十一か条の要求

【史料解説】  第2次大隈重信内閣(加藤高明外相)は,1915年中国の袁世凱政権に対して全5号21か条からなる要求をつきつけた。第一号では,前年に日本軍が占領した青島など山東省におけるドイツ権益を日本が継承すること,第二号で,関東州(旅順・大連)租借地や南満州鉄道などの期限を99年延長し(関東州租借期限が1923年に満了),さらに新たな鉱山の採掘権を認めることなど,南満州・東部内蒙古の権益を確保すること,第三号では,中国最大の製鉄会社漢冶萍公司を日中共同経営とすること−鉄鉱石を産する大冶鉄山への利権を確保することがねらい−,第四号で,中国沿岸の他国への不割譲を要求していた。ここまでは公表していたが,第五号は他国には非公開とされ,日本人顧問の採用などの希望項目が含まれていた。全体としては中国における権益の拡大・強化をめざすものだが,中国に対する指導権の獲得もねらっていた。そのため,中国市場で主導的な地位を占めてきたイギリスや,門戸開放を掲げるアメリカなど,欧米諸国の疑惑・反発を招くのは当然だった。袁政権も要求に反発したが,大隈内閣はもっとも紛糾していた第5号などを取り下げたうえで,最後通諜をつきつけた。この要求を認めなければ軍事力を行使すると脅しをかけたのだ。その結果,袁政権は要求を受諾せざるをえなくなったが,中国での反日運動(日本商品の不買運動など)を高めるきっかけとなった。


石井・ランシング協定

【史料解説】  二十一か条の要求をめぐって日米関係が緊張したため,1917年寺内正毅内閣が日米関係を改善するために石井菊次郎を特派大使としてアメリカに派遣し,ランシング国務長官との間に石井・ランシング協定を取り交した。協定では,中国での門戸解放・機会均等を認めあうとともに,領土の隣接ゆえに南満州・東部内蒙古において日本が特殊な関係(特別な地位)をもち,特殊な利益をもっていることを認めあった。こうして日本はアメリカから満蒙の特殊権益を承認されたのだ。ただし,満蒙権益の“特殊”性をどうとらえるのかをめぐっては,日米間で解釈のズレがあった。日本は「経済的生存」のためだけでなく「国防」のために不可欠という意味で“特殊”権益だと解釈したが,アメリカは経済的な意味あいでのみ解釈していた。


九か国条約

【史料解説】  1922年ワシントン会議において,イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリア・ポルトガル・ベルギー・オランダ・中国の9国によって,中国に関する九か国条約が結ばれた。(1)中国の主権尊重・領土保全を規定し,特定の国が中国を植民地化することを排除し,(2)中国市場の門戸開放・機会均等を規定し,中国市場における列国の経済活動の自由を保障しあった。
これはアメリカが1899年いらい提唱してきた立場であり,政治力・軍事力により排他的な勢力範囲を相互に確保しあうという西欧諸国の伝統的な対中政策に修正をせまり,日本の中国進出を抑制するものでもあった。しかし,新しい排他的権益の獲得を禁じていたものの既得の権益を否定するものではなく,満蒙における日本の特殊権益は九か国条約のもとでも保障されていた。つまり,九か国条約は日本にとって必ずしも不利な条約ではなかったのだ。


朝鮮三・一独立宣言

【史料解説】  1919年3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園で朝鮮の独立宣言が読み上げられ,「独立万歳」を叫ぶデモンストレーションがおこなわれた(三・一独立運動)。それをきっかけとして朝鮮各地で日本からの独立運動が始まり,朝鮮半島全土に広がった。
これに対して,原敬内閣は軍隊・憲兵警察を動員して徹底的に弾圧し,なかでも京畿道水原郡での弾圧事件は有名で,堤岩里の教会堂に村人をとじ込めて射殺し,教会と民家を焼き払ってしまった(堤岩里事件)。
朝鮮での独立運動の展開は,日本の植民地統治のあり方に修正をせまり,憲兵警察を手足とする武断政治から巧妙な同化政策(文化政治)への転換を促した。また,知識人にも大きなインパクトを与え,吉野作造や柳宗悦らが同化政策のもつ侵略性を批判し,朝鮮の独立を支持する議論を発表した。


金融恐慌

【史料解説】  史料は,金融恐慌のときに枢密顧問官だった伊東巳代治の伝記からの引用。
金融恐慌のさなかに鈴木商店が倒産したことで台湾銀行が経営危機に陥ったため,第1次若槻礼次郎内閣(片岡直温蔵相)が緊急勅令を使って日本銀行に特別融資をおこなわせ,台湾銀行を救済しようとしたが,枢密院で否決された。史料は,その際に伊東巳代治がおこなった「台湾銀行救済に関する緊急勅令案」への反対演説の一部だ。
伊東ら枢密院勢力が第1次若槻内閣の施策を否決したのは,幣原喜重郎外相のもとでの対中政策への不満からだった。当時,中国では北伐が進展し,そのなかで中国共産党の指導する反帝国主義運動が高まっていた時期だったが,イギリス・アメリカが自国の権益を維持するために軍事介入をおこなったにもかかわらず,若槻内閣は共同干渉しようとはしなかった。それゆえに,上海や青島などに紡績工場(在華紡)をもつ紡績資本家や中国市場で商社活動をおこなう三井物産など経済界から幣原外交への不満の声が高まっていたし,また三井財閥と密接な関係をもつ立憲政友会からの批判も高まっていた。そうしたのなか,中国に対する強硬外交への転換を期待して枢密院が倒閣へと動いたのだ。
もっとも,枢密院が内閣の施策を否決したとしても,元老や天皇の支持のもとで内閣がその施策を強引に実行に移すことは可能だ。とはいえ,第1次若槻内閣の与党憲政会の議席は衆議院の過半数には及ばず,また近いうちに総辞職することが政友会・政友本党とのあいだで合意されており(その代わりに内閣の施策に対する支持を2党から取り付けていた),すでに死に体だった。それに追いうちをかけたのが,枢密院による緊急勅令案の否決だったのだ。