目次

18 占領下での戦後改革 −1945〜1948年−


外交史 日本は,1945年9月2日の降伏文書で,軍隊の連合国に対する無条件降伏を宣言するとともに,天皇および日本国政府の国家統治の権限が連合国軍最高司令官の従属下におかれることを認めた。

1 連合国軍による占領管理の開始

(1)連合国の戦争目的と戦後秩序 アメリカとイギリスは1941年8月大西洋憲章を発表し,自由貿易体制の確立・すべての国民の平和的生存の保障・全般的な安全保障体制が確立されるまでのファシズム国家の非武装化などからなる戦後世界構想を示していた。この構想は,1942年の連合国宣言でも連合国(the United Nations)の戦争目的として確認され,1945年10月に発足した国際連合(the United Nations)へと受け継がれていった。
 また,連合国はブレトン・ウッズ(アメリカ)で通貨金融会議を開き,貿易の拡大・自由化とそのための国際通貨制度の確立をめざして国際通貨基金(IMF)を設置し(1945年12月発足),ドルを基軸通貨とする固定相場制を採用した。金1オンスを35ドルとしたうえで,各国の通貨とドルとの交換比率を設定し,為替相場の安定をはかろうとしたのだ。さらに,1948年にはGATT(関税および貿易に関する一般協定)を結び,関税その他の貿易障壁の低減・削減を促進しようとした。
 こうしてアメリカが主導する国際秩序が形成されていったが,他方でソ連の勢力拡大も著しく,次第に世界はアメリカなど資本主義諸国とソ連など社会主義諸国との2大陣営へと分裂していく。
(2)日本占領のしくみ 大日本帝国は敗戦にともなって領土を分割された。カイロ宣言にもとづいて,台湾などは中国に返還され,将来の独立を約束された朝鮮はアメリカ・ソ連によって分割占領された(自主的な独立運動は弾圧)。南樺太・千島列島はヤルタ協定にもとづいてソ連軍が占領・領有し,また,沖縄・奄美・小笠原の各諸島はアメリカ軍が占領し,直接軍政によって支配した。
 日本本土については,アメリカ軍を主力とする連合国軍の占領下におかれ,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が間接統治した。降伏文書調印により,連合国軍最高司令官は憲法を超越する絶対的な権限を得たが,連合国軍による直接軍政ではなく,GHQの指令・勧告にもとづいて日本政府が政策を立案・実行していく形の統治方式が採用されたのだ。なお,占領政策の最高決定機関としてワシントンに極東委員会,連合国軍最高司令官の諮問機関として東京に対日理事会が設置された。しかし,アメリカ政府は,連合国間の合意が成立しないときには極東委員会の決定がなくともGHQに対して占領政策を指令することができたので(中間指令という),実質的にはアメリカの単独占領だった。

連合国軍の占領機構
最高決定機関極東委員会(ワシントン・11か国)
統治機関連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)
最高司令官=マッカーサー→リッジウェイ
諮問機関対日理事会(東京・米英ソ中の4か国)

(3)戦犯裁判の実施 連合国はポツダム宣言にもとづいて戦争犯罪人(戦犯)の裁判・処罰を実行した。その際,捕虜虐待などの“通例の戦争犯罪”(B級)に加え,侵略戦争の計画・開始・遂行を“平和に対する罪”(A級),一般住民に対する殺害や虐待など非人道的行為を“人道に対する罪”(C級)として新たに戦争犯罪として設定した。
 GHQは,1945年9月から戦争に指導的役割を果たした軍人・政治家を戦犯容疑者として逮捕し,翌年5月から極東国際軍事裁判(通称東京裁判)で裁いた。A級戦犯として起訴されたのは東条英機・広田弘 毅・松岡洋右・木戸幸一ら28名で,そのうち,東条・広田ら7名が絞首刑,木戸ら16名が終身刑に処せられた。東京裁判は,しばしば連合国による一方的な“勝者の裁き”と言われるが,戦犯容疑者のなかには,他人の責任を追及したり内部告発をおこなうことによって起訴を免れた軍人・政治家がおり,731部隊の関係者はアメリカへの資料提供とひきかえに免責された。また,昭和天皇については,占領統治のため最大限に利用しようと考えていたマッカーサーやアメリカ政府の政治的判断により起訴されなかった。
 なお,「平和に対する罪」は戦後に初めて規定されたものであり,事後立法の適用に反対する罪刑法定主義の立場からしばしば裁判の不当性が指摘されるが,検察側は,十五年戦争以前に侵略戦争の違法性とその犯罪性は実定法則として確定していたとの立場をとっていた。
 他方,BC級戦犯に対する軍事裁判は,横浜やアジア太平洋各地でアメリカ・イギリス・オランダなどによっておこなわれ,上官の命令にしたがって捕虜を管理していた下っぱの兵士たちが裁かれた。


政治史 ポツダム宣言に示された条項は,降伏にあたっての条件では なく,無条件降伏のあとに実施を義務づけられた条項だった。それらを間違いなく実行させるため,連合国軍による占領管理が実施された。

2 政治的自由の拡大

(1)非軍事化と民主化 連合国軍は,日本が世界平和に対する軍事的脅威とならないよう,非軍事化と民主化をめざして,陸海軍を解体させるとともに政治的自由の復活・強化を促進した。
 ところが,ポツダム宣言受諾後に成立した東久邇宮稔彦王内閣は,連合国軍に押収されるとまずい公文書の焼却を進めるとともに,国体護持をかかげ,治安維持法にもとづく弾圧体制を維持した。そのため,1945年10月GHQが政治犯の釈放・天皇に対する批判の自由など政治的自由の拡大を求める人権指令を発すると,対立して総辞職した。
(2)五大改革指令 かわって,戦前に協調外交を展開した幣原喜重郎が首相に就任すると(外相は吉田茂),マッカーサーは,10月11日幣原首相に対して五大改革を口頭で指示するとともに,憲法改正を示唆した。

五大改革指令
①婦人の解放    →婦人参政権の実現
②労働組合の奨励  →労働組合法の制定
③教育の民主化   →教育基本法の制定・教育勅語の失効
④圧政的諸制度の撤廃→治安維持法・特別高等警察などの廃止
⑤経済の民主化   →財閥解体・農地改革の実施

 これをうけて,幣原内閣は1945年10月治安維持法・治安警察法・特別高等警察などを廃止するとともに,政治犯を釈放した。さらに,12月幣原内閣は選挙法を改正し,選挙資格を満20歳以上の男女とすることによって婦人参政権を実現した(沖縄県民からは選挙権を剥奪)。また,GHQの指令にもとづいて,戦争協力体制において指導的な役割を果たした軍人・政治家・財界人などが政治・警察分野の公職,財界・言論機関などの責任ある地位・職務につくことを禁止した(公職追放)。
(3)政党の復活 1945年末までに政党が結成・復活された。

戦後直後に結成された政党
日本進歩党…旧民政党など大日本政治会(旧翼賛政治会)参加者
日本自由党…旧政友会(久原派)・総裁鳩山一郎
日本協同党…産業組合運動の指導者が中心(→国民協同党へ)
日本社会党…無産政党の旧社会大衆党
日本共産党…釈放された徳田球一ら・はじめての合法政党

3 日本国憲法の制定

(1)制定過程 憲法改正作業がスタートするのは,1945年10月にマッカーサーが幣原喜重郎首相に対して憲法改正を示唆してから。
 幣原内閣は松本丞治国務相を委員長として憲法問題調査委員会を設置し,1946年2月天皇の統治権を認め,明治憲法の部分的な修正にとどめた「憲法改正要綱」を提出したが,GHQに拒否された。それにかわりGHQは,憲法研究会(高野岩三郎ら学者により組織)が自主的に発表していた「憲法草案要綱」などを参考にして,国民主権・天皇の象徴的地位・戦争放棄をもりこんだGHQ案を示した。ソ連を含む極東委員会が発足し(46年2月),日本の新たな憲法について議論を始めるよりも以前に,アメリカ主導の占領政策を既成事実化しようとしたのだ。
 そして幣原内閣がGHQ案にもとづいて憲法改正案を起草し,第1次吉田茂内閣のもと帝国議会の審議をへて,同年11月3日昭和天皇の名によって日本国憲法として公布された。施行は翌年5月3日。
(2)改正のポイント 主権在民・基本的人権の尊重・平和主義が3大原則。国家の主権は天皇から国民へ移り,天皇は日本国と日本国民統合の象徴,国会(衆議院・参議院で構成)が国権の最高機関・唯一の立法機関と規定された。内閣は国会に対して責任をもつものとされ(議院内閣制),首相の任免権を天皇がもつことには変わりがないが,国会が首相を指名し,首相が各大臣の任免権をもつものと規定された。そして,国民の平和的生存権の尊重を掲げ,第9条で戦争・武力による威嚇・武力行使をすべて放棄し,戦力を保持しないことを宣言した。

内閣制度の変化
明治憲法 天皇が統治権を総攬
↓↑
内閣=天皇の輔弼機関→天皇に対して責任をもつ
   天皇が各大臣の任免権をもつ・各大臣の単独輔弼制
昭和憲法 国会が国権の最高機関
 ↓↑
内閣=議院内閣制→国会に対して責任をもつ
   首相が各大臣の任免権をもつ・連帯責任制

(3)地方分権の推進 新憲法で地方公共団体の首長の公選制が定められたことをうけ,1947年4月第1次吉田内閣が地方自治法を制定し,地方住民の政治参加の権利を保障し,内務大臣をはじめとする中央官庁の統制を排除した。また,1947年12月片山哲内閣が警察法を定めて中央集権的な警察制度を解体し,人口5000人以上の市町村に自治体警察を設置,それ以外の村落部を管轄するためだけに国家地方警察を置いた。こうして地方分権化が進められるなか,同年12月地方行政・警察行政を管轄した内務省が解体された。
(4)民法・刑法の改正 1947年民法が大きく改正された。戸主制度が廃止され,家督相続にかえて財産の均等相続が定められ,男女同権・夫婦中心の家族制度が定められた。また,同年刑法も一部改正され,天皇に対する大逆罪・不敬罪などが廃止された。

民法の改正
明治民法(1898年) 戸主制度…戸主が家族の居住指定権・婚姻の同意権などをもつ
長男が家督(戸主の地位と財産)を相続・男尊女卑
民法改正(1947年) 戸主制度・家督相続の廃止→財産の均等相続・男女同権

4 政治の民主化

(1)政党内閣の復活 1946年4月新選挙法にもとづく総選挙が実施された。婦人が初めて参加し,39名もの婦人代議士が当選を果たした。選挙の結果,幣原内閣の与党進歩党は,議員の大半が公職追放をうけたうえ,議席を減らして第2党に転落,かわって第1党となった自由党も過半数をとれなかった。さらに,自由党総裁鳩山一郎が選挙後に公職追放をうけたため組閣が難航し,内閣が存在しない状態が1か月も続いた。
 その頃,敗戦直後の深刻な食糧危機を背景として各地で民衆運動が高まり,生活防衛・擁護を掲げる労働組合の活動も活発となっていた。そして,5月には復活メーデーや食糧メーデーがおこなわれ,社会党・共産党の提携による民主人民政府の樹立をもとめる声が高まっていた。
 これに対してGHQは,自由党総裁となった前外相吉田茂を後押しし,自由党・進歩党の連立内閣を組織させた(第1次吉田茂内閣)。
(2)二・一ゼネスト計画 各地で産業報国会にかわって労働組合の組織が進むなか,労働組合の全国組織が新たに結成された。1946年8月社会党系の日本労働組合総同盟(略称総同盟),共産党系の全日本産業別労働組合会議(略称産別会議)が成立した。
 そして,激しい食糧危機・インフレの昂進・失業者の激増により国民の生活危機が高まるなか,官公庁の労働者を中心として二・一ゼネストが計画された。産別会議・総同盟加盟の労働組合の数百万の労働者が参加し,1947年2月1日を期して全国いっせいにストライキを実施しようとしたもので,共産党・社会党左派の指導のもと,吉田内閣の打倒・民主人民政府の樹立がめざされていたが,マッカーサーの禁止命令で中止された。
(3)中道内閣の登場 1947年4月新憲法下の新しい政府を構成するために衆議院議員選挙・参議院議員選挙が実施された。その結果,得票数では自由党がトップだったものの,議席数では社会党が第1党となり,社会党委員長片山哲を首相として社会党・民主党・国民協同党の3党連立内閣が成立した。保守勢力でもなく共産党勢力でもない,中道内閣のもとで戦後改革と経済復興が進められていく。


文化史 新憲法では天皇の地位は国民の総意にもとづくものとされ,神話にもとづく宗教性が否定された。そして宗教・教育の面でも,神格化された天皇と神国日本の思想が排除された。

5 国家神道の解体

 GHQは国家神道を解体させた。1945年12月国家と神道との分離を指令し(神道指令),神社に対する政府の保証・支援・監督などを廃止させ,学校教育から神道教義を排除させたのだ。これにより,国家の祭祀をになっていた神社神道の特権性が否定され,神社も他の民間宗教と同様な宗教団体となり,46年神社の連合組織として神社本庁が発足した。政治・宗教の分離(政教分離)の原則がようやく実現した。
 また,1946年1月1日幣原内閣のもとで「新日本建設の詔書」(いわゆる天皇の人間宣言)が発せられた。GHQの指示・合意のもとで昭和天皇みずからが天皇の神格性を否定した詔書だ。当時は天皇の退位・戦犯としての起訴をめぐって内外で論議がかわされていたため,昭和天皇の免責と天皇・天皇制存続というGHQの方針を既成事実化するためにおこなわれたセレモニーだった。

6 教育の民主化

 学校教育は国民形成の根幹のひとつだ。そこでGHQは,1945年12月学校教育での修身・日本歴史・地理の授業を停止することを指令した。さらに,1946年3月にはGHQの要請にもとづいてアメリカ教育使節団が来日し,個人の価値と尊厳を重視することを教育方針として強調,男女共学・義務教育の9年制・教育の地方分権化などを提案した。
 それをうけて,1947年3月第1次吉田内閣が教育基本法を制定した。教育勅語に代わる新しい教育理念として,個人の尊厳の重視・真理と平和を希求する人間の育成を掲げ,教育の機会均等・教育に対する公権力の不当な介入の禁止などを規定した。そして,1948年6月には衆議院・参議院で教育勅語の失効ならび排除が決議された。

教育の民主化
教育基本法(1947.3)……教育の機会均等・男女共学・義務教育9年制
学校教育法(1947.3)……六・三・三・四制の学校体系
教育委員会法(1948.7)…公立学校の運営管理・教科書の採択などを処理・教育委員は公選制


経済史 GHQの指令のもと,財閥解体・農地改革・労働改革の3大改革が進められるとともに,食糧危機・極度のインフレを克服するため経済復興への努力が進められていく。

7 経済の民主化

 GHQは,財閥と寄生地主制を戦争推進(軍国主義)の経済的な基盤とみなし,その解体を指令するとともに,日本社会の民主化の担い手を育成するため,労働者・農民の生活水準の向上をはかった。
(1)財閥解体 GHQがめざしたものは,①持株会社の解体,②財閥家族の企業支配力の排除,③株式所有の分散(株式の民主化)。そのため,45年11月財閥資産の凍結を実施。次いで,三井・三菱・住友・安田など合計23の財閥本社を解体させ,財閥家族とその関係者を会社役員から追放,財閥家族や本社が所有していた株式は46年8月発足の持株会社整理委員会に移管させて公開処分した。
 そして,将来における財閥の復活を防ぐため,1947年4月第1次吉田内閣が独占禁止法を制定。持株会社・カルテルなどが禁止されて自由競争の保障がはかられ,監視のために公正取引委員会が設置された。さらに,同年12月片山内閣が過度経済力集中排除法を制定し,独占的な地位をもつ大企業の分割を促進した。しかし,銀行は分割の対象とされず,また米ソ冷戦が激化するなかで適用が緩和され,325社が分割対象に指定されたものの,実際には日本製鉄など11社だけが分割された。

財閥解体
持株会社整理委員会……財閥本社の解体を実行
独占禁止法………………持株会社やカルテルなどを禁止
 →監視機関=公正取引委員会
過度経済力集中排除法…独占的な大企業を分割

(2)農地改革 寄生地主制の解体による自作農の創設が改革の目標。
 GHQの指令をうけ,幣原内閣が1945年12月農地調整法を改正し,第1次農地改革に着手した。しかし,在村地主の所有限度を5町歩とする など不徹底で,GHQは農民運動の高まりを警戒して改革の徹底化を求めた。そこで,第1次吉田内閣が1946年10月農地調整法を再改正,自作農創設特別措置法を制定し(第2次農地改革),①不在地主の全小作地と在村地主の1町歩以上の貸付地(北海道は4町歩)を国家が強制的に買収して小作農に売却,②小作料の金納化などが実施された。
 その結果,山林地主の残存など限界はあるが,全小作地の約80%が解放されて全耕地の約90%が自作地となり,寄生地主制は解体された。
 その間,農業協同組合(農協)が組織されて農民の生活擁護の活動をおこない,それに対し,日本農民組合に代表される農民運動は,農地改革の成功によって活動が後退させていった。

農地改革
第1次(幣原)第2次(第1次吉田〜)
不在地主土地所有認めず土地所有認めず
在村地主5町歩まで認める1町歩まで(北海道は4町歩)
小作料金納(現物納も可)金納→最高額も決定
農地委員会地主5自作5小作5地主3自作2小作5

(3)労働改革 日本経済の国際競争力を支えていた低賃金構造を是正するため,労資関係の改革と労働者の地位向上をめざした。

労働改革
労働組合法(1945.12)…………労働者の団結権・団体交渉権・スト権を承認
労働関係調整法(1946.09)……労働争議の仲裁・調停などの方法を規定
労働基準法(1947.04)…………労働条件の最低基準を定める

 さらに,1947年9月には片山内閣によって労働政策担当の官庁として労働省が設置された(婦人少年局長には山川菊栄が就任)。

8 経済復興への努力

(1)国民生活の破綻 敗戦後の日本経済は深刻な危機に陥っていた。①戦時中の空襲によって多くの都市では生活や生産活動が破壊されており,②敗戦にともなって軍需生産が停止されたため,ほとんどの工場が生産をストップさせ,民需生産への転換が進まず,戦時中以来の物資不足はさらに深刻となっていた。また,③敗戦直後の臨時軍事費の支出急増が激しいインフレを引き起こし,④戦争終結にともなって戦地から復員してきた軍人や中国・朝鮮などから引揚げてきた人びとが加わって失業者が激増,⑤凶作による食糧不足も重なって,国民生活は極度に困難となっていた。こうしたなか,労働組合は賃金の大幅増加などを求めて労働争議をおこし,労働者による生産管理や経営参加も進んでいた。
(2)新円切り替え 激しいインフレを抑制するため,1946年2月幣原内閣が金融緊急措置令を出す。それまで発行されていた日本銀行券(旧円)の流通を禁止して新しい日本銀行券(新円)に切り替える(新円切り替え)とともに,その際,旧円をすべて強制的に預金させて封鎖し(預金封鎖),一人1か月100円に限って新円での預金の引き出しを認めたのだ。これによって貨幣流通量を減らすことには成功したものの,一時的な効果しかなかった。
(3)傾斜生産方式 第1次吉田内閣(蔵相石橋湛山)は,総合的な経済政策の立案をおこなうために経済安定本部を設置し,1946年12月から傾斜生産方式を採用した。石炭・鉄鋼などの重要産業部門に資材・資金・労働力を集中させることで生産復興の起点にしようとしたのだ。そして復興金融金庫を設立して融資を確保,価格差補給金を支給して生産費を保障,アメリカの対日援助による輸入資材を集中的に投下した。
 この政策は,片山内閣,同じく3党連立で民主党首班の芦田均内閣にも継承された。その結果,生産は上昇しはじめたが,赤字財政による巨額の資金投入がインフレをますます進行させてしまった。
(4)ガリオア資金によるアメリカの援助 ガリオア資金とは占領地域統治救済資金の略称で,占領地住民の最低生活を維持し,飢饉と疫病を防いで社会不安を除く目的で支出された。日本では,この資金で食糧や医療品などが供給された。なお,冷戦の進展にともなってエロア資金(占領地経済復興援助資金)も供与され,工業原料の輸入にあてられた。


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