日満議定書

【史料解説】  関東軍が樹立させた満州国を日本が承認した日満議定書。1932年9月15日斎藤実内閣が調印した。満州国は,同年3月に溥儀(清国最後の皇帝宣統帝)を執政として成立し,中国の東三省(奉天・吉林・黒竜江省)を領土として出発,のち熱河省も領土に編入した。
 議定書では,満州国を独立国として認めたうえで,満州国の領域内における日本の権益を尊重し,満州国の国防と治安維持のために日本軍が駐屯することを無期限・無条件で認めていた。さらに,日本軍駐屯の経費をすべて満州国が負担し,鉄道・港湾など交通機関の管轄・新設をすべて日本に任せ,日本人を満州国政府の官吏に任命することも規定されていた。つまり,日満議定書は満州国が日本の傀儡国家以外のなにものでもないことを示した外交文書だった。
 なお,日満議定書が調印された時には,リットン調査団がすでに調査を終えて報告書をまとめており,日本(とりわけ陸軍)はリットン報告書が正式に公表される前に,関東軍による満州領有を既成事実化しようとしたのだ。


国際連盟脱退通告文

【史料解説】  1933年2月国際連盟臨時総会で,リットン報告書をもとに,満州国不承認の決議案と日本軍の満鉄付属地内への撤退をもとめる勧告案が,賛成42・反対1(日本)・棄権1(タイ)で採択されると,全権松岡洋右ら日本代表団が退場し,翌月斎藤実内閣が連盟からの脱退を通告した。
 連盟のリットン調査団は,中国の提訴をうけ,日本みずからの提案にもとづいて派遣されたもので,1932年2月から日本や中国各地で調査をおこない,まとめあげた報告書を9月30日日中両国に手交し,10月2日に公表した。リットン報告書は,中国は統一国家へと進む途上にある国との現状認識を示したうえで,柳条湖事件を日本軍の正当防衛と認めず,満州国の建国も住民自身による自発的なものとは認められず承認できないとしており,日本が積み上げてきた既成事実を否定するものだった。しかし他方では,満州での日本の経済的権益を承認しており,さらに,満州に中国の主権のもとに自治政府を樹立させ,あらゆる軍隊を撤退(日本軍はもとより中国軍も撤退)させて非武装地域とし,中国と日本・ソ連などとの間に不可侵条約を締結して満州の安全保障を確保,国際連盟の主導のもとで日本を含めた列国の共同管理下におくことを提案しており,日本に対して妥協的な内容となっていた。当時日本は,中国国民政府による国権回復運動や日本商品のボイコットの不当性を訴えており,そうした経済的な理由だけから満州事変が計画されたのであれば,このリットン報告書が示す解決案は処方箋として有効なものだったと言える。
 ところが,日本はリットン報告書が自衛権の発動を認めず,満州国成立を承認しない点に反発,イギリスなどが宥和的な態度をみせて妥協を斡旋しようとしていたにもかかわらず,報告書の提案を問題解決の基礎として受け入れることを拒否した。あくまでも日満議定書に即して問題の解決を図ろうとしたのだ。それに対して中国の立場を後押しし,武力行使の結果得られた既成事実を追認することに強く反発したのが,北欧や中南米などの小国だった。これら小国にとっては国際連盟こそが安全保障の“生命線”だったのだ。さらに,ドイツでナチスが台頭し,1933年1月ヒトラーが政権を掌握したことは,小国だけでなくフランスのような大国にも影響を及ぼした。連盟の満州問題への対応がヨーロッパでの同様の事態の先例になることへの懸念が強まったのだ。こうした対立のなか,日本は連盟からの脱退を通告し,第一次世界大戦後の国際協調−戦争の再発防止とその違法化−の試みに対立する道を選択していった。


国体明徴声明

【史料解説】  岡田啓介内閣は1935年8月と10月に2度にわたって国体明徴声明を発したが,この史料は10月の第2次声明の一部。
 美濃部達吉の天皇機関説は,統治権の主体を国家とし,天皇はその最高機関として統治権を行使するとみなす憲法解釈だったが,1935年2月貴族院本会議で菊池武夫議員が天皇機関説は「緩慢なる謀反」だと攻撃,貴族院議員(勅選議員)だった美濃部が本会議で弁明をおこなったものの,政治問題として大きく取り上げられた。在郷軍人会や右翼が中心となって機関説排撃運動(国体明徴運動)を展開し,さらに,岡田啓介内閣や天皇機関説を支持する元老西園寺公望・内大臣牧野伸顕ら親英米派の天皇側近グループに対する攻撃へとエスカレートしていった。衆議院でも野党立憲政友会が倒閣を目的として排撃キャンペーンに加わり,陸海相も明確な措置をおこなうよう内閣に要求した。その結果,内務省が『憲法撮要』など美濃部の著書を発売禁止処分とし,岡田内閣は国体明徴声明を発した。8月の第1次声明では天皇機関説は「国体の本義を愆るもの」とされるにとどまっていたため排撃運動がおさまらず,10月の第2次声明では機関説の「芟除」が明言されるに至った。さらに,9月美濃部達吉が貴族院議員を辞任し,12月には牧野伸顕内大臣,翌年3月には美濃部の学問の師にあたる一木喜徳郎枢密院議長がそれぞれ辞任した。


二・二六事件蹶起趣意書

【史料解説】  1936年2月26日陸軍皇道派の青年将校らが約1400名の部隊を率いて挙兵して首相官邸や重臣の私邸などを襲撃,東京を制圧した。その際,青年将校らが川島義之陸相に面会して読み上げたのが,史料の蹶起趣意書。
 この二・二六事件に至る背景は,(1)国家改造をめざす陸海軍中堅のファシズム勢力と,国際協調の現状維持をめざす西園寺公望・牧野伸顕・鈴木貫太郎ら天皇側近の親英米派との対立,(2)満州事変以降に国家改造への動きを主導した陸軍中堅のファシズム勢力内部における皇道派と統制派との抗争,の2つあり,とりわけ(2)がクーデター挙行の直接のきっかけとなっていた。満州事変のころは,陸軍中堅のファシズム勢力は荒木貞夫陸相・真崎甚三郎教育総監らを首領として一つのグループを形成していたが,対ソ戦略をめぐる対立などから分裂,荒木の後任林銑十郎陸相と結んだ永田鉄山らが次第に陸軍の主導権を掌握して統制派とよばれ,それに対立した荒木・真崎らの将官や連隊付きの青年将校らは皇道派とよばれた。統制派は,陸軍士官学校から陸軍大学校へ進んだエリート官僚で構成され,軍の組織力による国家改造の実現をめざしていた。それに対して皇道派の青年将校は,陸軍士官学校を卒業後,陸軍大学校へは進学せずに各地の連隊に配属された将校で,直接行動を重視する傾向にあった。
 皇道派・統制派の抗争は1933年ころから激しくなる。1934年には皇道派青年将校の磯部浅一・村中孝次らがクーデターを計画したとの架空の理由で免官され(陸軍士官学校事件),さらに1935年7月皇道派の中心人物真崎甚三郎が教育総監を罷免され,同年10月それに反発した皇道派の相沢三郎が陸軍省内で統制派の永田鉄山を斬り殺すという事件にまで至って,両派の対立はピークに達する。そして,磯部・村中ら皇道派の青年将校たちが,追いつめられた状況を挽回し,皇道派政権の樹立をめざして決行したのが,二・二六事件だった。
 クーデター当初,陸軍首脳部は彼らの行動に理解を示し,岡田内閣の打倒・真崎甚三郎による暫定軍事政権の樹立が実現するかにみえた。しかし,昭和天皇が,側近木戸幸一の助言にしたがって即刻鎮圧の姿勢を明確にしたため,陸軍首脳部も態度をひるがえし,青年将校らは反乱部隊として鎮圧された。


国家総動員法

【史料解説】  日中戦争が長期化するなかで,第1次近衛文麿内閣は1938年4月国家総動員法を制定した。この法律によって政府は,戦争・事変に際して,国力を最大限発揮させ,総力を戦争・事変に投入するため,労務・物資・貿易・資本などあらゆる面にわたって統制をおこなうことが可能となった。しかも,政府は法律ではなく勅令によって関係法規を定めることができたため,帝国議会の法律審議権が有名無実なものとなったことを意味していた。
 経済統制はすでに日中戦争開始前から始まっていた。広田弘毅内閣(馬場〓[えい]一蔵相)の大軍拡予算以来,軍備拡張にともなって輸入が急増したため,貿易面から経済の直接統制が始まっていたのだ。そして,日中戦争の勃発がこの動きを決定的なものとし,開戦直後には,軍需物資確保のために貿易制限により物資の需給を調整するための輸出入品等臨時措置法,軍需産業・輸出産業に優先的に資金を供給するための臨時資金調整法が制定され,貿易と資金の面から経済統制が強化されていく。国家総動員法はそれらをさらに発展させ,全体的な経済・貿易・労働の国家統制を実現するものだった。


「国民政府ヲ対手トセズ」声明

【史料解説】  1938年1月第1次近衛文麿内閣が中国国民政府の否認・抹殺を声明した「国民政府を対手とせず」声明(第1次近衛声明)。
 盧溝橋事件の勃発に際し,第1次近衛内閣は関東軍・朝鮮軍に出動命令を出し,日本国内からも華北へ軍隊を増派することを決定した。近衛首相を初めとする各閣僚は,出兵決定をおこなって日本の強硬な戦意を誇示し,さらに中国に一撃を加えておけば,抗日運動をおさえこむことができるだろうと安易に判断していたのだ。それに対して陸軍参謀本部のなかには,事態の不拡大を主張する人びとが存在した。その代表が石原莞爾で,彼は将来のソ連・アメリカとの戦争に備えて日満ブロックのもとで重工業建設を計画的に推進することを構想しており,その構想が実現する以前の戦争遂行に批判的だった。しかし,近衛内閣や陸海軍内の強硬派が全面戦争へと持ち込んでいく。とはいえ,内閣にしても戦争終結のタイミングをはかっており,ドイツのトラウトマン駐中大使を通じて和平工作(トラウトマン和平工作)を進めていた。しかし,戦局が優勢なのに乗じて有利な条件での和平をはかる方針をとっており,首都南京の攻略によって日本の態度がより強硬なものとなったために交渉は行き詰ってしまう。そこで近衛内閣は,昭和天皇の支持を背景として参謀本部内の反対を押し切って和平交渉の打ちきりを決定し,第1次近衛声明を発表したのだ。
 なお,「国民政府を対手とせず」とは,「否認」にとどまらず,その存在を「抹殺」するものであり,これ以降,近衛内閣は傀儡政権の樹立へと本格的に乗り出していく。ところが,その工作がうまくいかなかったために国民政府との和平を再び考慮せざるをえなくなり,同年11月東亜新秩序声明(第2次近衛声明)を発表した。


日独伊三国軍事同盟

【史料解説】  1940年9月第2次近衛文麿内閣(外相松岡洋右)のもとで日独伊三国軍事同盟が調印された。
 当時ヨーロッパでは,ドイツの電撃作戦によって5月にオランダ・ベルギーが降伏し,6月にはパリが陥落してフランスが降伏,7月からドイツによるイギリスへの大空襲が始まっていた。こうしてヒトラーがまたたく間にヨーロッパ大陸のほぼ全域の指導権を握り,アジアではフランス領インドシナ(仏印)やオランダ領東インド(蘭印)の本国による支配力は弱体化した。こうしたヨーロッパ情勢の激変に便乗して,日中戦争の解決をめざして東南アジア進出をすすめようとする南進論がいっきに高まる。とはいえ,日本の南進はイギリスやアメリカとの関係悪化を不可避なものにしていく。そこで,ドイツ・イタリアとの提携を強化することによって,イギリスを追い込むとともに,アメリカ国民の孤立主義的・戦争回避的な傾向を強めてアメリカの参戦を阻止するというもくろみのもと,日独伊三国軍事同盟が締結されたのだ。そこで日本とドイツ・イタリアはおのおのアジア・ヨーロッパにおける新秩序の建設とその指導的地位を認め合い,アメリカから攻撃された場合の相互援助を協定したのだ。ただし,日中戦争へのドイツ・イタリアの参戦も,イギリスに対する日本の参戦協力の義務もなく,ねらいはもっぱらアメリカへの牽制だけに向けられていた。ところがアメリカは,フランスの降伏後,イギリスの軍事的崩壊を阻止することを自国の国防上の見地から最も重視していた。アメリカを孤立させようとする枢軸国側の思惑は,かえってアメリカの警戒を強めることになっていくのだ。


帝国国策遂行要領

【史料解説】  1941年9月6日に第3次近衛文麿内閣と軍部により御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」。
 日本の南部仏印進駐に対してアメリカが対日石油輸出の全面禁止の措置をとって経済制裁を強化したため,海軍のなかには,じりじりと石油備蓄が少なくなり,ついには武力を発動しようにもどうにも動けなくなってしまうことを恐れて早期開戦を主張する動きが急激に高まっていた。そのため,「帝国国策遂行要領」で,1か月後の10月上旬になっても日米交渉がまとまらないときは,その時点でアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を決意し,10月下旬には戦争に突入できるようにすると決定されたのだ。しかし,日米交渉はすでに行きづまりをみせており,争点も日本軍の中国や仏印からの撤兵問題,三国軍事同盟問題など多岐にわたっており,わずか1か月で妥協の見通しが得られるわけがない。事実上の開戦を決定したに等しかった。


ヤルタ協定

【史料解説】  1945年2月にクリミア半島のヤルタでローズヴェルト・チャーチル・スターリンの米英ソ3国首脳が会談し,ドイツの戦後処理などについて協議するとともに,秘密協定を結び,ソ連の対日参戦の時期と条件を決めた。史料は,その際のヤルタ秘密協定の一部。連合国は領土不拡張の方針を公表していたにもかかわらず,この協定では千島列島のソ連への引き渡しが約されていた。また,旅順の租借権がソ連に認められ,東清鉄道・南満州鉄道を中国とソ連の共同経営としたうえでソ連の優先的利益の保障が約されていた。


ポツダム宣言

【史料解説】  1945年7月26日トルーマン・チャーチル・蒋介石の米英中3国首脳が共同で発表したポツダム宣言。日本の無条件降伏とともに降伏後に実施すべき条項(戦後処理の方針)を示したもので,アメリカが原案を作成し,チャーチル首相・蒋介石中華民国首席の同意をえて発表された。ソ連は内容の協議には関与しておらず,公表後に初めて内容を知らされたが,同年8月8日対日参戦によりポツダム宣言に参加した。なお,アメリカは7月16日に原子爆弾の実験に成功しており,翌日から始まったポツダム会談に出席のトルーマン大統領のもとへは18日に知らせが届き,それを受けてトルーマン大統領は25日に“ポツダム会談が終了する8月3日以降の原子爆弾投下”を命令し,ソ連の参戦なしに日本を降伏させようとねらった。ポツダム宣言発表の前日のことだ。
 宣言では,日本が再び世界に対して軍事的脅威を及ぼすことを防止するため,戦争指導者の排除と戦争遂行能力の破壊−非軍事化−,民主主義的傾向の復活・強化−民主化−が掲げられていた。連合国軍による日本の占領管理はこれらの条項を実行するためにおこなわれた。
 このポツダム宣言発表に対して,日本では7月28日に鈴木貫太郎内閣がこれを黙殺するとの態度を表明したが,連合国側ではそれが拒否と受け取られた。そのためアメリカは,8月6日広島に原子爆弾を投下するとともに,日本がポツダム宣言を受諾しない限り原爆攻撃を続けると声明し,さらにソ連が8月8日に対日参戦を通告してきた。このソ連の参戦が日本に強い衝撃を与え,ポツダム宣言受諾に踏み切るきっかけとなった。東郷茂徳外相らが主張する国体の護持のみを条件として受諾するか,阿南惟幾陸相らが主張する国体の護持・戦犯の自主裁判など4条件のもとで受諾するかをめぐって意見が対立したが,翌9日閣議ならびに御前会議において,国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受諾することを決定,10日連合国側に「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」受諾すると申し入れた。これに対して連合国側は,「降伏の時より天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国軍最高司令官に従属する」ものとしながら,「日本の究極の政治形態はポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるるべきものとす」と回答。この回答をうけて,14日御前会議でポツダム宣言受諾が決定された。とはいえ,連合国側の回答には天皇の国家統治の大権を変更しない(国体の護持)との確約はなく−変更するとも明言していないが−,また,「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思」という条項を国民主権主義を定めたものと判断すれば,それを受諾したことによって主権が天皇から国民に移ったと解釈できる。
 なお,「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者」とあるように,連合国は,日本国民を軍国主義的な戦争指導者の犠牲者として位置づけ,指導者と“だまされた”一般国民を分けるという姿勢を示している。このような指導者責任観は東京裁判のなかでも貫かれた。


新日本建設に関する詔書(天皇の人間宣言)

【史料解説】  昭和天皇が1946年1月1日に発表した「新日本建設に関する詔書」。連合国軍最高司令官マッカーサーやアメリカ政府との連携のもとで作成されたもので,「天皇の人間宣言」とも称されている。
 天皇と国民との間の紐帯は「神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」と,天皇の神格性を否定するとともに,冒頭には五か条の誓文が掲げられ,明治期以来,日本の君主制と民主主義が両立してきたことを強調することも意図されていた。昭和天皇の戦争責任を追及し,天皇の退位・天皇制廃止を求める動きを牽制する効果がねらわれていたのだ。


日本国憲法

【史料解説】  日本国憲法は明治憲法の改正手続きにもとづき,天皇の発議により帝国議会・枢密院で審議され,1946年11月3日昭和天皇により公布,翌47年5月3日に施行された。
 日本国憲法はGHQ案にもとづいて起草されたが,幣原喜重郎内閣による草案作成や帝国議会での草案審議のなかでいくつかの修正が加えられている。
 第9条は戦争だけではなく武力による威嚇・武力行使をも「国際紛争を解決する手段」として放棄した条項だが,衆議院での審議過程で第二項の冒頭に「前項の目的を達するため」との語句が挿入され,これによって“自衛のための戦力保有まで放棄したものではない”との含みがもたされた。
 第11条は基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として保障し,実定法によって奪うことのできない自然権と規定しているが,在日外国人の人権については全く規定がない。もともとGHQ案には「外国人ハ平等ニ法律ノ保護ヲ受クル権利ヲ有ス」という規定があったのだが,幣原内閣により削除されたのだ。なお第1次吉田茂内閣は,日本国憲法が施行される前日に,朝鮮や台湾に戸籍がある人びとの日本国籍を勅令によって強制的に剥奪した。
 なお,第24条で家庭生活における個人の尊厳と男女の平等が規定され(→民法改正),さらに,第92条で地方自治の基本原則が掲げられ,第93条で地方公共団体の首長の公選制が規定された(→地方自治法の制定)。


教育基本法

【史料解説】  教育基本法は1947年3月に制定され,日本国憲法の理想を教育によって実現するとし,個人の尊厳と真理・平和の希求を教育理念として示した。教育の機会均等,義務教育9年制と義務教育無償の原則,男女共学,政治的教養の尊重,教育の政治的・宗教的中立性などを規定している。