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21 経済大国への成長 −1975〜1994年−


外交史 アメリカの国際的地位の低下により国際社会の多極化が進む。それにともなって,アメリカは日本に責任分担を要求し,次第に日米関係は同盟関係へと転化していった。

1 国際社会の多極化

(1)先進国首脳会議(サミット) アメリカを中心とする西側先進諸国は,アジア・アフリカ諸国の資源を経済的に支配し,低価格に維持することで経済成長と繁栄を謳歌してきた。第1次石油危機は,そうした先進諸国の経済基盤を揺るがすものだったため,1974〜75年世界同時不況が発生した。また,ドル危機の結果,国際通貨体制は安定性を失っており,アメリカには単独でそれを乗り切るだけの国力はすでに存在しなかった。世界経済に大きな地位を占める主要国間の協力が不可欠となっていた。
 こうした戦後国際秩序の動揺に直面して,1975年先進国首脳会議(サミット)がパリ(フランス)のランブイエ城で開催され,アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・西ドイツ・日本の6か国が参加した(日本からは三木武夫首相が出席)。国際経済協調のための国際的協議の枠組みが形成され始めたのだ。

先進国首脳会議
アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・西ドイツ・日本で構成
1975年フランスで開催…三木武夫首相が出席
→以後,毎年開催(のちカナダ・EUが参加)

(2)ペルシャ湾岸地域の動揺 資源ナショナリズムの高まりのなか,中東諸国ではイスラム教の教えにもとづく国家の建設・社会正義の実現をめざすイスラム原理主義が台頭した。そうしたなか,1979年2月イランで革命がおこって王政が倒れ(イラン革命),イスラム原理主義にもとづく新国家が成立,アメリカとの対決姿勢を強めた(なお,イラン革命により再び石油価格が上昇したため,第2次石油危機が発生した)。こうしてアメリカはペルシャ湾岸地域での軍事拠点を失ってしまった。
 さらに,アメリカの勢力後退を利用してソ連が攻勢に出始めた。その発端が,1979年12月アフガニスタンへの侵攻の開始だ。これ以降,米ソ2大国間の緊張緩和は崩れて冷戦が激化した(新冷戦)。
 こうしたなか,アメリカは1980年代初めレーガン大統領のもとでソ連対決・軍拡路線を強めるとともに,日本に対して責任分担の強化を求め,日米安保体制は次第に同盟関係へと変化していく。中東ペルシャ湾岸地域の平和と安全及びその地域からの海上交通路の安全の確保というグローバルな共同防衛システムへと転化していったのだ。


経済史 アメリカが日本に対して責任分担の要求を強めた背景には,日本経済が2次にわたる石油危機を世界にさきがけて乗り切り,経済大国へと成長を遂げたことがあった。

2 低成長から経済大国へ

 石油危機によって高度経済成長が終焉し,日本経済は低成長時代を迎えた。政府が赤字国債を財源とする積極財政で国内景気の回復をはかる一方,民間企業は減量経営,ME(マイクロ・エレクトロニクス)技術の導入による省エネルギー・省力化を進めて国際競争力を強化し,アメリカ・西欧への輸出を急激に拡大させていった。その結果,石油危機にともなう不況から世界にさきがけて脱出した。
 こうしたなかで産業構造の転換が進んだ。鉄鋼・造船・石油化学など資源・エネルギーを多く消費する産業が停滞したのに代わって,半導体・集積回路(ICやLSI),そうしたハイテク技術を利用した電子機器,自動車などの産業,サービス業の発達が著しかった。

石油危機からの脱出
1.赤字国債を財源とする積極財政
 赤字国債の発行を再開(1975年・戦後最初は1965年佐藤栄作内閣)
 →大量の国債を財源とする積極財政
2.減量経営
 人件費削減…従業員の系列会社への出向や配置転換,希望退職など
 →日本的労使関係の動揺・再編
3.ME(マイクロ・エレクトロニクス)革命
 コンピュータなどのME技術の導入による省エネルギー・省力化
 →オフィスの自動化…パソコンが普及(1980年代前半〜)
4.輸出の急激な拡大
 自動車・電気機械・ハイテク製品の欧米向け輸出が増大
 →貿易黒字が増大

3 臨調行革の推進

(1)行財政改革の実施 大量の赤字国債の発行は財政赤字を累積させ,1980年代初めには財政再建が重要な政治課題となった。そのため,1980年鈴木善幸内閣のもとで第2次臨時行政調査会(臨調)が設置され,“増税なき財政再建”を掲げて緊縮財政の実施を内容とする答申を出すと,1982年11月に成立した中曽根康弘内閣が臨調路線の具体化をめざして行財政改革を実施した。中曽根内閣のねらいは政府の公共サービスの領域を縮小させて財政負担を軽減することにあった。

中曽根内閣による行財政改革
緊縮財政…社会保障関係予算を制限・防衛費は例外
公共企業体の民営化
 電信電話公社 → 1985年:日本電信電話(NTT)
 専売公社   → 1985年:日本たばこ産業(JT)
 国鉄     → 1987年:JRグループ7社に分割・民営化

 このように緊縮財政が進められたが,新冷戦のもと,アメリカとの軍事的な提携関係を強化したために防衛費は例外。三木武夫内閣時に閣議決定された“対GNP比1%”の制限をこえて増大された。
(2)税制改革 中曽根内閣は租税収入の拡大をめざして大型間接税の導入をめざしたものの失敗,続く竹下登内閣が1988年末に税制改革関連法案を成立させて消費税を創設,翌89年度から実施された。


経済史 経済大国への成長にともなって,1980年代から金融の自由化,1990年代には農産物の輸入自由化が進み,またバブル発生とその崩壊のなか,高度経済成長以降の企業経営のあり方が再編を迫られている。

4 プラザ合意

(1)アメリカ経済の後退 不況からの脱出のなかで日本はアメリカ向けの輸出を急増させたが,それは日本だけではなかった。韓国・台湾・香港・シンガポールは,外国の資本・技術を導入して工業化を進め,アメリカ向けの輸出を拡大しながら経済の高成長を遂げていた(NIES[新興工業地域経済群])。
 そのため,アメリカでは貿易赤字が累積し,また,ソ連対抗・軍拡路線にともなう軍事費の増大は財政赤字を累積させていた。さらに,こうした双子の赤字を抱えていながらも,レーガン米大統領の高金利政策により日本・西欧の資金がアメリカに流入し(1985年アメリカは世界最大の債務国に転落),実力以上のドル高を生み出していた。
(2)プラザ合意 そこで,1985年9月アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランスはニューヨーク(アメリカ)のプラザホテルで先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)を開催し,ドル高を是正するために各国が協調してドルを引き下げようという合意に達した(プラザ合意)。これがきっかけとなって,ドル相場はいっきに下落し,かわって急激な円高が進んだ。ところが,双子の赤字は解消されず,アメリカ経済に対する不信感が高まるなか,1987年10月ニューヨーク市場は株価暴落にみまわれ,ドル安も進んだ。資金がアメリカから逃げ出したのだ。

5 バブル経済

 プラザ合意にともなう急激な円高の進展のなか,日本経済は内需主導型の経済への転換を迫られていた。そこで政府は,公共事業の拡大と所得税減税によって内需の拡大をはかり,低金利政策をとった。
 そこへ1987年アメリカでの株価暴落が発生した。西側先進諸国は,世界恐慌の再来を回避するため,協調して金利を大幅に引下げるとともにドル買い介入をおこなってドル安に歯止めをかけた。その結果,恐慌は阻止できたものの,超低金利のもとで市場への資金供給が拡大,各国で景気上昇がいっきに加速した。
 そのなかで,日本経済はバブル経済を迎えた(1987〜1991)。だぶついた資金が不動産と株式に流れ込んで地価・株価が高騰,そして,地価・株価の高騰が企業の資金運用のあり方を大きく変化させて企業財テクを活発化させ,地価・株価をさらに上昇させていったのだ。
 これに対し,政府が地価上昇を抑えるために次第に金融引き締めへと転換したため,1991年には地価・株価が暴落し,バブル経済は崩壊した。その結果,投資の失敗による企業倒産があいつぎ,融資していた銀行などの金融機関は大量の不良債権を抱え込み,金融不安を引き起こした。

6 世界貿易のルールづくりの進展

(1)日米貿易摩擦の激化 日本の対米貿易黒字の激増は,アメリカとの間で貿易摩擦をいっそう激化させた。アメリカは自動車などの輸出自主規制を求め,日米経済構造協議(1989〜90)では日本市場の閉鎖性を批判する動きが強まった。そうしたなか,1988年牛肉・オレンジの輸入自由化が竹下内閣のもとで合意(1991年実施),1993年には細川護熙内閣のもとで米市場の部分開放がおこなわれた。
(2)GATTのWTOへの発展 GATTは,農産物,知的所有権などの貿易ルールを確立するために多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)をつづけていたが,1994年最終協定案が採択され,翌95年にはGATTの諸協定実施のために世界貿易機関(WTO)が設立された。


外交史 アメリカ経済が後退を加速させている頃,ソ連もアフガニスタンへの軍事侵攻の長期化などを背景として経済危機に陥り,指導力を次第に低下させ,ついには解体した。こうして冷戦が終結したものの,かえって世界各地で地域紛争と経済停滞が深刻となった。

7 冷戦の終結

(1)東欧社会主義とソ連の崩壊 1985年ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任するや,ソ連ではペレストロイカ(改革)が進められ,経済面では市場経済の導入,外交面では国際緊張の緩和がはかられた。その結果,1988年にはアフガニスタン和平協定が結ばれてソ連軍の撤兵が実現した。
  そうしたなか,1989年東欧諸国で社会主義政権が次々と崩壊し(東欧革命),90年には東西ドイツの統一が実現,さらにソ連でも1991年保守派のクーデター失敗によってソ連共産党が解体,同年末には各共和国が独立してソ連が解体した。こうしてソ連の消滅により冷戦は終結したが,かえって世界政治は不安定要因が増した。
(2)湾岸戦争と国際協力 1990年8月イラクがクウェートに侵攻した。これに対し,1991年国連決議を背景に,アメリカを中心とする多国籍軍がイラクのクウェート占領を解除した(湾岸戦争)。その際,日本の国際協力のあり方をめぐって内外で議論が高まった。自衛隊を西側諸国の共同防衛体制の一翼に積極的に組み入れようとする動きが強まったのだ。
 そして,続発する地域紛争に国連平和維持活動(PKO)で対応する動きが強まるなかで,1992年宮沢喜一内閣が国連平和維持活動協力法(PKO協力法)を制定し,内戦終結後のカンボジアに自衛隊を派兵した。


政治史 政治腐敗が進むなかで自民党が分裂,社会党の勢力後退もともなって五五年体制が崩壊,政界再編がめまぐるしく進んだ。

8 五五年体制の崩壊

(1)汚職事件の続発 政治家をめぐる汚職事件が続発した。1976年にロッキード事件が起こって田中角栄元首相が逮捕されていたが(三木武夫内閣),1988年にはリクルート事件(竹下内閣),92年には佐川急便事件(宮沢内閣)が発覚し,政党への不信感が高まっていった。
(2)五五年体制の崩壊 そうした政治不信の高まりのなか,1993年政治改革の是非をめぐって自民党が分裂,衆議院の過半数を割り,宮沢内閣が総辞職した。かわって日本新党の細川護熙を首相とする非自民連立内閣が成立し,自民党は結党以来初めて政権政党の座を失った。しかし,翌94年には社会党・新党さきがけとの連立(社会党首班の村山富市内閣)により政権政党に復活した。


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