サンフランシスコ平和条約

【史料解説】  1951年9月サンフランシスコで日本とアメリカ・イギリスなど48カ国との間で締結された対日平和条約。日本と連合国との戦争状態の終結を宣言するとともに,日本国に対する日本国民の主権を承認して占領軍の撤退を規定した。翌52年4月28日に発効し,日本は独立を回復した。
日本の領土については,朝鮮の独立を承認するとともに,下関条約で獲得した台湾・澎湖諸島,ポーツマス条約で獲得した南樺太,さらに千島列島を放棄することを規定した。また,北緯29度以南の島々は,アメリカの施政権下におくことが定められたが(アメリカは信託統治領とする提案を国連にはおこなわなかった),すでに1947年9月昭和天皇は“アメリカが沖縄の軍事占領を続けることを天皇が望んでいる”との意志を側近を通じてアメリカに伝えていた。
賠償問題については極めて寛大な措置がとられた。第14条で日本が「戦争中に生じさせた損害および苦痛」に対して賠償を支払うことが承認されたが,同時に支払い能力の観点から連合国が賠償請求権を放棄することが定められ,アメリカ・イギリスなど多くの連合国は賠償請求権を放棄した。しかし,東南アジア諸国が反発したために例外規定が存在し,「日本国軍隊によって占領され,且つ,日本国によって損害を与えられた連合国」に限って「生産,沈没船引揚げその他の作業における日本人の役務」で支払うこと,賠償額などの具体的項目は賠償請求国と日本との間の個別交渉にゆだねることが規定された。この規定にもとづいて賠償協定を結んだのはフィリピンと南ヴェトナムだけで,ビルマ(今のミャンマー)・インドネシアは対日平和条約の規定によらずに賠償協定を結び,ラオス・カンボジア・タイ・マレーシア・シンガポールは賠償請求権を放棄したうえで日本による無償の経済協力を協定した。これらの賠償支払い・無償経済協力は,アメリカの東南アジア諸国への経済援助の一部肩代わりとしての性格が強く,また,日本企業に海外市場を提供するとともに企業の海外進出を容易にする役割を果たした。
第11条で戦犯裁判の判決を日本が受諾することが規定されたが,極東国際軍事裁判は東条らの判決を下して以降,冷戦の展開のなかでうやむやのうちに終了しており,最少限度の戦争責任を認めたにとどまった。なお,昭和天皇をめぐっては,保守派のなかにも退位すべきとの意見があったが,実現しなかった。
日本の安全保障については,再軍備の制限については規定されず,第5条で日本が個別的・集団的自衛権をもつことを承認し,日本が集団的安全保障のための取り決めを結ぶことも承認した。これは,第6条の外国軍駐屯を認める規定とともに,日米安全保障条約のための布石だった。


日米安全保障条約

【史料解説】  サンフランシスコ平和条約と同時に日米間で締結された日米安全保障条約。
アメリカ軍の日本駐留を認めたものだが,アメリカが要請して日本が許可するという形式ではなく,日本の申し入れにアメリカが応えるという形式をとっている点に特徴がある。日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるのだから,国連憲章にしたがって日米間に集団的安全保障の関係を設定し,そこから生じる義務を履行するためにアメリカ軍が日本に駐屯するという形式も可能だった。しかしアメリカのねらいは,アメリカが望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得することにあった。朝鮮戦争勃発により,アメリカにとっての日本の戦略的位置が極めて重要になっていたのだ。とはいえ,その 権利獲得の正当化は難しく,その意味で日本はアメリカとの交渉において優位な立場に立っていたのだが,日本は自らの戦略的価値を取り引き材料として活用することはなく,まるで植民地か保護国のような全土基地方式をむざむざ日本からの希望という形で認めてしまった。すでに朝鮮戦争前に吉田茂首相がアメリカに派遣した特使池田勇人蔵相がその可能性を示唆しており,朝鮮戦争勃発後には,講和交渉の準備のために来日していた大統領特使ダレスに昭和天皇が申し入れていたのだ。この結果,米軍駐留はアメリカが日本に与える“恩恵”だとの論理がまかり通るようになってしまった。
なお,日本国憲法が,前文で「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」とし,第9条で戦力保持を禁じていたため,日米安保条約の合憲性が問われることとなった。第4次吉田内閣の統一見解(1952年)では,「憲法第九条第二項にいう「保持」とは,いうまでもなくわが国が保持の主体たることを示す。米国駐留軍は,わが国を守るために米国の保持する軍隊であるから憲法第九条の関するところではない」とされていたが,米軍基地の拡張にかかわる砂川事件に際し,1959年3月東京地裁が日米安保条約違憲の判決を下した(伊達判決)。判決理由は,1.憲法第9条は自衛権を否定するものではないが,自衛のための戦争・戦力の保持を禁止している,2.在日米軍の極東地域への出動により,日本が自国と直接関係のない武力紛争に巻き込まれる恐れがあり,そのような危険をはらむ米軍駐留を許容した政府の行為は,日本国憲法の精神にもとる,3.米軍駐留は日本の要請・協力によって初めて可能となるものであり,外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは,指揮権の有無・米軍の出動義務の有無にかかわらず,第9条で禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当する,というものだった。これに対し,国はいっきに最高裁に上告したが,最高裁での上告審判決(1959年12月)は,1.第9条は他国に安全保障を求めることを禁止していない,2.第9条が禁ずる戦力とは日本が主体となって指揮権・管理権を行使しうる戦力をいい,外国の軍隊は,それが日本に駐留するとしても,そこにいう戦力には該当しないとするとともに,3.安保条約は高度の政治性を有するものであるとして,その内容が違憲か否かについての司法判断を回避した。これ以降,安保条約の合憲性については,この最高裁判決が踏襲されている。


日ソ共同宣言

【史料解説】  1956年10月モスクワで調印された日ソ共同宣言。日ソ間の戦争状態の終了を宣言し,日本の国連加盟をソ連が承認したもので,日本全権は鳩山一郎首相ら,ロシア全権はブルガーニン首相ら。
カイロ宣言では領土不拡大の原則が宣言されていたにも関わらず,ヤルタ協定でソ連の千島列島領有が密約され,戦争末期以降,千島列島をソ連が占領・領有していたことから,交渉では領土問題をめぐってしばしば紛糾した。鳩山一郎内閣は,北方4島の一括返還を主張しつつも,歯舞・色丹の2島返還を中心目標として交渉にのぞみ,ソ連も2島返還で譲歩する態度を示していたため,2島返還で妥協が成立する可能性があったが,日本国内では吉田系外務官僚や自民党内吉田派が反発,アメリカも露骨な妨害工作をおこなった。アメリカは,日本が択捉・国後2島のソ連領有を認めるなら沖縄をアメリカの領土にすると脅し,さらに“日本は講和条約で放棄した領土の主権を他国に引き渡す権利は持っていない,4島は日本の主権下に置かれるべきものだ”との覚書を提出していた。その結果,平和条約締結後の歯舞・色丹返還という形で領土問題を棚上げし,国交正常化が実現した。
なお,第6項で日本・ソ連は相互に請求権を放棄したが,多くの関東軍兵士や民間人がソ連軍の捕虜となり,シベリアなどで強制労働に従事させられた問題(シベリア抑留問題)については,十分な国家補償が実施されないまま現在に至っている。


日米相互協力及び安全保障条約

【史料解説】  1960年1月岸信介首相が訪米し,アイゼンハワー米大統領との間で調印された日米相互協力及び安全保障条約(日米新安全保障条約)。
新安保条約では,経済協力の促進をもりこむことで条約の軍事色を薄める効果がねらわれるとともに,アメリカの日本防衛義務が明文化されたことで条約の内容がより双務的なものとされた。そして,米軍の装備変更・軍事行動に関する事前協議制の導入,日本国内での内乱に対するアメリカ軍の出動条項(内乱条項)や第三国への基地貸与禁止条項の削除など,日本の自立性を認める内容がもりこまれた。さらに,条約期限が10年と定められた上で条約からの離脱の手続きが明確化され,日本のアメリカへの従属色が薄められた。その一方で,旧安保条約では“期待”にとどまっていた自衛力の維持増強が“義務”づけられることになった。
しかし,アメリカの日本防衛義務は単なる条文上だけの負担にすぎず,アメリカの実質的負担はなんら増加していなかった。また,事前協議制は“実行可能なときはいつでも協議する”(1959年岸・アイゼンハワー共同声明)という性格のもので,なんの拘束力ももっていなかったし(実際,ヴェトナム戦争でも湾岸戦争でも公式には事前協議は一度も行われていない),海軍艦艇の行動については事前協議の対象にならないという了解も成立していた。こうして,アメリカは“日本列島の基地としての自由使用・軍事行動の自由”という特権をそのまま温存し,“基地タダ乗り”を続けることとなった。
なお,安保改定にともない,日米行政協定にかわって日米地位協定が締結され,在日米軍の駐留経費に対する日本の負担(防衛分担金)は,民間に所有権のある区域に対する借用料の支払いを除いて,廃止された。しかし,1970年代以降の円高ドル安のなか,アメリカの要請により,1978年度から福利厚生費・施設整備費など在日米軍の駐留経費を一部負担している(思いやり予算)。


日韓基本条約

【史料解説】  1951年GHQの斡旋で始まった日韓会談は,植民地時代の事後処理などをめぐる対立から難航したが,佐藤栄作内閣成立直後の1964年12月に始まった第7次日韓会談で合意が成立し,1965年6月日韓基本条約が締結された。韓国のヴェトナム派兵・韓国への経済支援の日本による肩代わりを望むアメリカの強い要請と,経済成長をめざす朴正煕政権が日本からの経済援助を望んだために妥協が成立したのだ。
植民地支配については,それに対する謝罪の言葉は前文にも条文にもなく,韓国併合に至る諸条約について「もはや無効である」と,「もはや」という語を挿入することによって植民地支配がかつては合法だったことを規定した。同時に「請求権・経済協力協定」が締結され,日本が経済協力として3億ドルの無償供与などを提供するかわりに,韓国が請求権を放棄することが規定された。
なお,第3条で韓国政府を「朝鮮にある唯一合法の政府」と確認したが,この解釈をめぐっては日韓間でズレがあった。韓国側が朝鮮半島における唯一の合法政権であることを確認したと解釈したが,日本側は北緯38度線以南を現に管轄している事実を確認したにすぎないと解釈し,韓国の統治権が北緯38度線以南に限定されているとの立場をとった。


沖縄返還協定

【史料解説】  1971年6月に締結された沖縄返還協定。
ヴェトナム戦争を背景として米軍基地反対闘争をともないながら沖縄復帰運動が高まるなか,沖縄における米軍基地の維持をめざして施政権の返還交渉がおこなわれ,「本土なみ」返還が実現した。その際,沖縄への日米新安保条約の適用,沖縄の米軍基地は日米新安保条約による提供施設として存続することが協定されたが,核兵器の撤去については明示されず,緊急時における沖縄への核兵器の持ち込み・貯蔵を認めることが密約された。
沖縄返還に際してアメリカは,日米の直接的な相互防衛の範囲を西太平洋地域にまで拡大し,さらに日本領域以外での軍事行動にも日本に共同責任をとらせることをめざしていた。アメリカのねらいは,1969年の佐藤栄作・ニクソン共同声明とその際の佐藤首相のスピーチによって実現。日本は事前協議制の“弾力的な運用”という形で,沖縄のみならず日本全土の基地を日本の自主的意思によって米軍に使用させ,米軍の軍事行動に共同責任をとることを約束した。こうして日米安保体制は西太平洋・極東地域の防衛への日本の貢献をひきだすシステムとして機能が転換し始めた。
なお,沖縄復帰運動はサンフランシスコ平和条約締結の直前から始まり,1950年代後半のアメリカによる軍用地接収に対する抵抗運動(島ぐるみ闘争)の展開とともに発展,1960年4月沖縄県祖国復帰協議会が結成され,本格化した。それ以降,復帰運動の展開は3つの段階に分れる。1.1950年代から1964年ころまで。日本人としてのアイデンティティの確保を目標とし,沖縄は日本固有の領土であり,沖縄住民は日本国民であることが繰り返し強調された。2.ヴェトナム戦争が始まった1960年代半ば。嘉手納基地を中心に沖縄がヴェトナムへの出撃基地化するなか,日本国憲法に謳われた主権在民・平和主義・基本的人権の擁護という理念の実現が復帰の目標とされた。3.日本への施政権返還が現実化した1967年以降。米軍基地存続に対する不安から,日本政府からの差別・犠牲の強要を排除することが強調された。しかし,こうした沖縄住民の期待は日米両政府によって裏切られ,膨大な米軍基地はそのまま存続した(日本全土の米軍基地のうち75%が沖縄に集中)。それに対する沖縄住民の不満は何度となく爆発。沖縄返還の直前には1970年アメリカ兵のささいな交通事故がきっかけとなってコザ反米暴動が発生し,1995年には米兵少女暴行事件をきっかけに大田昌秀沖縄県知事が米軍用地の強制使用のための代理署名を拒否するなど,米軍基地の整理・縮小要求が高まり,日米地位協定の見直しを求める動きも強まった。


日中共同声明

【史料解説】  1971年の国際連合の中国招請決議および翌72年のニクソン米大統領の訪中という国際情勢の変化を背景として,1972年9月田中角栄首相・大平正芳外相が訪中し,周恩来中国首相とともに日中共同声明に署名した。
国交正常化に際して中国は,1.中華人民共和国が唯一の合法政府であること,2.台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること,3.日華平和条約は不法・無効であり廃棄することの復交3原則を提示したが,日中共同声明では1.は無条件で承認,2.については日本が「十分理解し尊重する」との態度を表明,3.は共同声明ではなんら触れられなかったが,共同声明調印後に大平外相が日華平和条約は終了したものとみなす政府見解を発表した。こうして中国本土を支配する中華人民共和国との戦争状態が終了し,かわって台湾の国民政府とは外交関係が断絶した。
なお,第7項(覇権条項)で,日中国交正常化がアジア・太平洋地域において覇権を求め,第三国に対抗するための外交上の取り決めではないことを謳うとともに,他国による覇権にも反対することが掲げられていた。これは当時激化していた中国・ソ連の対立を背景とするもので,平和条約締結交渉においても中国は覇権条項の挿入を主張,日本はソ連を刺激するとして躊躇したが,結局,1978年8月に調印された日中平和友好条約(福田赳夫内閣の園田直外相と華国鋒主席・黄華外相が調印)にももりこまれた。


1956年度経済白書

【史料解説】  『経済白書』は経済企画庁が毎年発表している「年次経済報告」の通称。前年の景気と経済政策の効果を分析するとともに,今後の政策課題を提起するもの。第1回白書は1947年経済安定本部が作成・発表し,1956年から経済企画庁が担当するようになった。
日本経済は,朝鮮戦争にともなう特需で活況を呈し,1951年に工業生産額が戦前水準を回復したものの,朝鮮戦争の休戦後は深刻な不況に陥っていた。ところが,1955年には景気が回復傾向となり,さらに米の大豊作により食糧事情も好転して物価は安定,さらに金融緩和策により企業の資金繰りも好転していた。そこで『経済白書』は「もはや「戦後」ではない」と記すことで“戦 後の廃墟からの復興は終わった”との見通しを発表,そのうえで,「今後の成長は近代化によって支えられる」として,“技術革新によって新たな経済発展をめざさなければならない”との決意を宣言したのだ。実際,1956年から翌年にかけて技術革新をともなった設備投資ブームが訪れ,ジャーナリズムはその大型景気を,日本歴史上初めての好景気という意味で神武景気と名づけた。
この時期は労働運動の転換期でもあった。1950年代前半には労働組合主導の経済再建をめざす総評のもと,激しい労働争議がおこなわれた。しかし,大がかりな合理化が進むなか,合理化絶対反対の姿勢を改めて活動の重点を賃上げ闘争におこうとする動きが強まり,1955年には春闘が始まった。


国民所得倍増計画

【史料解説】  1960年11月に経済審議会が答申し,翌12月池田勇人内閣が閣議で了承した「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」。10年後に実質国民総生産(GNP)を倍増させようとする計画で,社会資本の充実・産業構造の高度化・貿易と国際経済協力の促進・人的能力の向上と科学技術の振興・二重構造の緩和と社会的安定の5つを課題として掲げた。所得倍増というバラ色の夢を示すことによって高度経済成長を加速させることをねらっていたが,安保闘争に集中した国民の注目を経済成長へとそらすことも意図されていた(政治の季節から経済の季節へ)。当時は,1958年から始まっていた岩戸景気のさなかで,国民所得倍増計画の発表にともなって地方自治体や経済団体,個々の企業にいたるまで長期計画づくりが一大ブームとなり,現実の経済成長は国民所得倍増計画の想定をうわまわるテンポで進んだ。