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1917年のロシア革命を通じてソヴィエト社会主義共和国連邦が生まれて以降,日ソ関係は複雑な過程をたどった。このロシア革命から日独防共協定の締結に至る日露・日ソ関係の展開について,具体的に述べなさい(200字程度)。


<解法の手がかり>
問われているのは,ロシア革命から日独防共協定の締結に至る日露・日ソ関係の展開。

最初に「日露・日ソ」と書かれている点に注目したい。
「ロシア革命を通じてソヴィエト社会主義共和国連邦が生まれ」と書かれており,ロシア革命=ソ連の成立と理解している受験生(日本史だけの選択者)が多いのではないだろうか。実際にはソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立するのは1922年のことなのだが,それはともかく,ロシア革命=ソ連の成立と理解していた場合,なぜここで「日露」関係が含まれているのか,その点をどのように考えるのか? ここが一つのポイントである。
ここで意識したいのは,ロシア革命により帝政ロシア(ロシア帝国)が滅んだことである。
このことを意識すれば,
ロシア革命により日露協約が消滅した
この点を指摘することから始める必要があることに気づくだろう。

続いて,ロシア革命によりソヴィエト政権が成立して以降に注目しよう。
少なくとも次の3つの出来事を思い浮かべたい。
シベリア出兵
日ソ基本条約
日独防共協定
この3つである。

シベリア出兵はロシア革命に対する干渉戦争であり,日本は寺内内閣から原内閣にかけてアメリカやイギリスなどと共同して出兵した。この時期の関係は,敵対,あるいは交戦と表現できる。
この出兵が終わるのはワシントン会議がきっかけである。ワシントン会議で日本はシベリアからの撤兵を約束し,加藤友三郎内閣のもとで撤兵を行った(ただし北樺太を除く)。

日ソ基本条約は加藤護憲三派内閣のもとで結ばれた条約で,日本とソ連が国交を樹立した。この時期の関係は文字通り,国交の樹立と表現できる。もちろん融和とも表現できる。

日独防共協定はソ連を中心とするコミンテルン(国際共産主義運動)に対抗することを目的としたもので,二・二六事件後に陸軍主導のもとで成立した広田内閣が結んだ。日ソ関係は再び緊張・敵対へと向かったと表現すればよい。
このようなソ連に対抗しようとする動きは,満洲事変から本格的に始まる。満洲事変はソ連の経済的・軍事的な成長に脅威を感じた関東軍が,日本の権益がない北満洲を含めて軍事占領し,対ソ防衛ラインをソ連と中国の国境線まで押し上げた出来事であった。これ以降,日本は防共を掲げながらアメリカ・イギリスや中国などとの交渉にのりだしていた。この点は細かいので答案にくみ込めなくても問題ない。


<解答例>
ロシア革命により日露協約が消滅したうえ,革命の波及を恐れた日本がシベリア出兵を行って革命に干渉したため,日露両国は敵対関係にあった。1920年代に国際協調が進展すると,ワシントン会議を機に日本がシベリアから撤兵し,さらに日ソ基本条約が結ばれて両国の国交が成立し,日ソ関係は融和が進んだ。1930年代,ソ連が国力を強めたのを警戒し,日本は満州事変以降,防共を掲げて外交をくり広げ,ドイツと日独防共協定を結んだため日ソ間の緊張が激しくなった。(215字)