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<解法の手がかり>
問われているのは,17世紀後半~18世紀初期にかけての「この」儒学刷新の動向。
「この」の指示対象は「朱子学に対する根本的な批判がなされるようになった」なので,朱子学がどのようなものであるかを説明したうえで,それを批判して登場した古学派について説明していけばよい。
なお,儒学では江戸前期,陽明学も存在する。しかし,日本陽明学の祖と言われる中江藤樹は17世紀前半に活躍した人物であり(弟子熊沢蕃山は17世紀半ばから後半にかけて活躍するが),陽明学は「朱子学に対する根本的な批判がなされるようになった」という事例として取りあげるのは妥当ではない。
朱子学
宋の朱熹が大成した儒学の一派で,合理的思考と道徳主義を合わせ持ち,社会秩序を宇宙や自然と同じように定まったものとみなした。そのため,幕府・諸藩のなかには,幕藩体制下の封建的な社会秩序を維持するため教学として重視するものがいた。
(個人の修養による人間性の錬磨およびその延長としての社会の革新(修身・斉家・治国・平天下)が説かれている)
古学派
朱熹の解釈を批判し,儒学の祖である孔子や孟子の原典を直接研究することを主張した。孔子や孟子が使った実際の用例を集めて当時の意味を探るという学問手法をとり,そのことを通じて,当時の政治・社会の現状に適合した日本独自の儒学を作りあげることをめざした。山鹿素行が『聖教要録』を著して朱子学を批判して以降,本格化し,京都の伊藤仁斎,江戸の荻生徂徠らが続いた。伊藤仁斎は経世済民から離れて個人の倫理を突き詰めた。一方,荻生徂徠は道徳から離れて政治・社会の統治法を追究し,将軍徳川吉宗から諮問を受けて『政談』を提出している。
<解答例>
朱子学は宋の朱熹が大成し,合理的思考と道徳主義を合わせ持ち,社会秩序を宇宙や自然と同じように定まったものとみる儒学の一派であった。それに対して17世紀後半以降,孔子や孟子の原典に直接立ち戻って研究することを主張し,当時の政治・社会の現状に適合した儒学をめざす古学派が現れた。山鹿素行は朱子学を批判して『聖教要録』を著し,伊藤仁斎は政治から離れて個人の倫理を突き詰め,荻生徂徠は道徳から離れて政治・社会の統治法を追究した。(210字)