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年度 2006年

設問番号 第2問


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【解答例】
1明治憲法では天皇が統治権を総覧したが、立法や予算制定には帝国議会の協賛が必要とされた。帝国議会は貴族院・衆議院の2院で構成され、両院の同意がなければ法律や予算は成立しなかったうえ,公選議員からなる衆議院が予算の先議権をもっていた。そのため,衆議院に基盤をもつ政党が次第に政治的影響力を拡大し、政権を獲得していった。
2明治憲法では議院内閣制が採用されておらず、首相の選定についても規定がなく、元老と称される藩閥の長老政治家が実質的な選定にあたった。そのため、元老の支持がなければ,政党党首が首相に就任して政党内閣を組織することはできなかった。さらに、内閣に権限が集中する構造が採用されていなかったため、政党内閣が成立しても、天皇の諮詢機関として重要な国務の審議にあたった枢密院、統帥権が内閣から独立した陸海軍から制約をうけた。
3日露戦争後に公式令が定められ,勅令には必ず総理大臣が副署するとされた。
(総計399字)
〔別解〕3日中戦争勃発後,内閣直属の企画院が設けられ,内閣機能の強化がはかられた。(この場合,総計400字)
【解法の手がかり】
明治憲法と政党政治の関係を問うた問1・2は一般的な出題だが,問3は難問。
問1
明治憲法の制定が政党政治の発展にとって重要な意義を持った理由。条件として,明治憲法の内容に即して説明することが求められている。いいかえれば,明治憲法体制のもとで政党政治が成立・発展した理由を明治憲法の内容に即して説明することが求められており,定型的な出題。
まずは「政党政治」の定義を確認することから始める。
政党政治とは,「政党内閣」が継続し,そのもとで政治が運営される状態をさす言葉だが,では「政党内閣」とは何か?
○衆議院に基盤をおく政党の党首を首相とし,
○閣僚の過半が政党員によって組織された
内閣である。
このことを念頭におけば,公選制議会の規定とその権限に注目すればよいことがわかる。
明治憲法では二院制の帝国議会が規定され,二院の一つとして公選制の衆議院が開設された。そして,帝国議会は天皇の協賛機関として予算や法律の審議・承認権をもった。いいかえれば,予算や法律は帝国議会の審議・承認を経て成立するものとされ,なかでも増税の決定権を帝国議会が掌握していた。さらに,衆議院は貴族院よりも予算案を先に審議する権限を認められていた。そのため,衆議院に基盤をおく政党が予算審議を軸としながら内閣や国政運営に対する発言力を強化していき,そのことが政党内閣を成立させる要因となった。

問2
明治憲法が政党政治の発展にとっての障害となった理由。条件として,明治憲法の内容に即して説明することが求められている。これも定型的な出題。 まず政党内閣が成立しにくかった理由から。
先ほどの政党内閣の定義を念頭におけば,
○議院内閣制が規定されていない点,
○元老が首相推挙権を握っていたこと,
○国務大臣の任命権を天皇がもっており(もちろん内閣の輔弼事項),そのため政党党首が首相となっても政党員で閣僚の大半を占めることができるとは限らなかった点(西園寺内閣を想起する)
があげられる。
ただし,「明治憲法の内容に即する」ことが求められているので,元老の首相推挙権には触れずともよい。

次に政党内閣が安定しなかった理由。
帝国議会には衆議院以外に貴族院が存在し,予算先議権以外は衆議院と対等な権限をもっていただけでなく,天皇の諮詢機関である枢密院や天皇が統帥権をもつ陸海軍といった,天皇に直属して内閣から独立した国家機関が存在しており(国家機関の多元性),それらの支持・協力がなければ存続は危うかった。

問3
明治憲法の制定後に首相の権限を強化するために講じられた措置。
「制定後」だけ書いてあって,いつ頃なのかが不明だが,制定後まもなくの時期を想定するのが妥当。となれば,公式令(1907年)が想定できるものの,高校日本史レベルでは超難問。
公式令は,天皇の命令(詔書・勅書など)について,その区分とともに発布手続きを規定したもの。それまでは,それぞれの内容に応じて関係する各省の国務大臣だけが副署することとなっていたのが,全ての勅令に必ず首相が副署することと改められている(副署とは,天皇の署名〔御名〕に副えて署名すること)。これにより,どんな命令であれ,関係する大臣が天皇に上奏し,天皇が裁可するだけでは効力が発揮せず,首相の承認・副署が不可欠となる。いいかえれば,上奏に対する天皇の裁可は形式的なものとなり,実質的な決定権を首相が掌握するという状態が生じることとなる。つまり,首相の権限が強化され,閣内(そして天皇)に対する統制力が強化され,内閣が天皇の統治権を一元的に輔弼して国務を担う体制が整えられたのである。
とはいえ,これに反発した陸海軍(と明治天皇)により,直後に軍令が定められ(1907年),陸海軍に関する命令は,他の勅令から切り離され,陸海相の副署だけで公布されるものとされた(これを補う陸海相の上奏が帷幄上奏)。

とはいえ,公式令は高校日本史を超えている。
したがって,日中戦争勃発以降の戦時体制のもとで行政の総合・統一が求められ,そのなかで講じられた措置を念頭におくのが教科書に即した対応かもしれない。たとえば,第1次近衛内閣により戦時統制経済を推進するための内閣直属の事務機関として企画院が設けられたことである。