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年度 2014年

設問番号 第1問


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【解答例】
1応仁の乱ころ,本願寺の蓮如は教えを平易に説いた御文を使って布教し,信者を講に組織し,北陸・近畿・東海地方に教線を広めた。加賀国では門徒の国人・地侍らが一向一揆を起こして守護富樫政親を滅ぼし,16世紀半ば以降,本願寺の統制のもとでしばしば門徒たちが一向一揆を起こし,16世紀後半には織田信長政権と戦ったものの屈服した。
2寺檀制度。江戸幕府はキリスト教など禁制の宗教を徹底して禁圧するため,寺院に人々が自らの檀家であることを証明させる寺請制度を導入しようとした。
3鎮護国家思想。7世紀後半,朝廷は都に官寺が建立して国家の安泰を祈り,地方でも郡司層による氏寺の建立が広がった。8世紀半ば,朝廷が諸国で国分寺・国分尼寺の建立に着手し,行基の協力を得て大仏造立事業を進め,仏教の浸透を図る一方,各地で仏教と神々への信仰の融合が進んだ。
4末法思想。浄土教。源信。往生要集。平等院鳳凰堂。
5貴族は獣肉を食べなかった。
(総計400字)


【解法の手がかり】

問1
問われているのは,応仁の乱に始まる争乱の時代のなかでの浄土真宗の地方展開の過程。条件として,布教の中心的な担い手(人名),布教の方法・組織をあげることがもとめられている。
まず,時期の確定から。
応仁の乱のころに活躍した本願寺の蓮如から書き始めるのは問題ないとして,「争乱の時代」の終期をどこに設定するか。豊臣政権の全国統一と考えてよいし,大坂の陣による「元和偃武」と考えてもよい。
次に,条件について。
布教の中心的な担い手(人名)=本願寺の蓮如をあげることができれば十分。
布教の方法・組織=御文を使って布教,信者(門徒)を講に組織→道場に寄り合う
では,メインの「浄土真宗の地方展開」。「過程」が問われているので時期区分しながら見ていく。
浄土真宗と言っても高校日本史では本願寺の動向しか取り上げられないので,本願寺とその門徒の動きを整理していけばよい。
○応仁の乱ころ
本願寺の蓮如=越前の吉崎などを拠点としながら北陸・近畿・東海の各地方に布教
→国人・地侍や百姓,さらに非定住の商人や交通・手工業者の間に教線を広める
加賀国…本願寺門徒を中心とする国人・地侍らが一向一揆を結び,守護富樫政親を滅ぼす
○戦国時代(16世紀半ば)
本願寺派の寺院を中心として寺内町が形成(例:大坂・富田林など)
→本願寺を頂点として門徒が隔地間的に結びつく=本願寺の指令・統制のもとで一向一揆を起こす
○織田政権期(16世紀後半)
室町幕府15代将軍足利義昭と結び,織田信長政権と戦う(石山戦争)=伊勢長島や越前などでも一向一揆
→織田政権に屈服

問2
1つめの問いが下線部⒜「すべての人がどこかの仏教寺院に属す」を何というか。
これは寺檀制度。すべての人がどこかの仏教寺院を檀那寺とし,その寺院の檀家(檀那)となる制度。
2つめの問いが,下線部⒜を強制した江戸幕府の政策とその背景。
寺檀制度を強制的に作り上げたのは,それを利用して寺院(檀那寺)にそれぞれの民衆が自分ところの寺院の檀家(檀那)であることを証明させるためである。人々が自らの檀家(檀那)であることを寺院が証明する,言い換えれば,寺院が人々の身分保証を請負う制度を寺請制度といい,キリスト教など幕府禁制の宗教の信者でないことを明示させるために幕府によって導入された。

問3
1つめの問いは,下線部⒝のような思想をなんというか。
仏教を「国家の安泰を願って導入」するのは,仏教の鎮護国家思想に基づくもの。
2つめの問いは,7世紀後半~8世紀に仏教が受容されている過程。
「過程」が問われているので,いくつかに時期区分して説明しよう。
○7世紀後半
背景:律令国家の整備
都に官寺(大官大寺など)を建立=仏教の鎮護国家思想に基づく
地方豪族が氏寺をさかんに建立
○8世紀半ば以降
背景:疫病流行や飢饉,藤原広嗣の乱にともなう政治不安
諸国に国分寺・国分尼寺を建立
盧舎那大仏を造立=行基の協力(作善を国家事業化)→仏教が社会への浸透=神仏習合が進む

問4
1つめの問いは,空欄⒞に入る語句。末法思想。
2つめの問いは,下線部⒟の教えの名称。浄土教。
3つめの問いは,下線部⒟の教え(浄土教)を唱えた代表的論者とその著作。著作が問われているので空也ではなく,源信,その著書『往生要集』を答える。
4つめの問いは,下線部⒟の教え(浄土教)の影響のもとで作られた代表的な建築・美術作品を一つ。平等院鳳凰堂阿弥陀如来像,高野山聖衆来迎図など。

問5
問われているのは,10,11世紀の貴族の食事が庶民のそれとどう異なるか。
これは難問。たとえば山川『詳説日本史』では貴族の食生活は記述されているものの,庶民の食生活については説明されていない。庶民の食生活が分からなければ違いは説明できない。
というわけで,答える必要はなく,空白でよい。
とはいえ手がかりがないわけではない。リード文では,10,11世紀に浄土教が広まったが,「それは都の貴族を主たる対象としたものであり,一般の人々の心の救済を説くものではなかった」と書かれている。そこに注目すれば,仏教の影響のもとで貴族がどのような食生活を送っていたのかを説明すればよい,とも判断できる。当時の貴族の食生活は,仏教の影響もあって獣肉は用いられていなかった。