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年度 2002年

設問番号 第1問

テーマ 平安時代中後期の密教と浄土教/古代


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設問の要求は,10世紀〜平安時代末において密教や浄土教の信仰が朝廷・貴族と,地方の有力者にどのように受容されていったか。

注意しなければならないのは「10世紀以降」に限定されていることである。「平安初期には」などと書き始めてしまうと設問での時期限定を読んでいないと受け取られかねない。
こう書くと,では「密教」が説明できないではないかと思ってしまう受験生がいるかもしれないが,教科書をよく読んで欲しい。山川『詳説日本史』でも,国風文化のところで「摂関期の仏教は,天台・真言の2宗が圧倒的な勢力を持ち,祈祷をつうじて現世の利益を求める貴族と強く結びついた」と書かれているように,密教は10世紀以降においても圧倒的な勢力を誇っていたのである(鎌倉時代も同様)。

まず,密教や浄土教が人びとのどのような期待に応えたのかを確認しよう。
密教
平安初期に本格的に導入されて以降,加持祈祷により鎮護国家の役割を担うとともに,病気平癒や安産,立身出世など皇族・貴族たちの現世利益に応えた。
浄土教
人びとの極楽浄土への往生を約束した阿弥陀如来に対する信仰で,死後における幸福(地獄に落ちることなく浄土に往生すること)を説く

両者をまとめてしまえば,密教や浄土教は人びとの現世や死後に対する不安に応えたのだと言える。

では,そうした不安が広がった背景は何であったか。
10世紀〜平安時代末期といえば,律令国家が大きく変質・解体して地方政治・在地の社会秩序が混乱し,そのなかで荘園公領制成立へ向けた動きが進んでいた。一言でいえば,社会秩序の動揺・再編が進んでいた時代であった。
さらには,地震・火山の噴火・長雨などの災厄や疫病の流行があいつぎ,人びとは死と隣り合せの生活を続けていた(→それが陰陽道の浸透にもつながる)。
一方,仏教の末法思想−釈迦の死後,正法,像法を経て,修行する人も悟りを開く人もいなくなる(釈迦の教えだけが残る)末法の時代が訪れるとする思想−が普及し,当時,1052年から末法となると信じられていた。
こうしたことが,人びとの社会不安を増幅させていたのである。

さて,密教や浄土教がどのように受容されたのか。
密教
 朝廷→鎮護国家(護国)の法会や祈祷を行わせる
 皇族・貴族の帰依→造寺造仏や荘園寄進
浄土教
 市聖空也や源信,さらには各地を遍歴した民間の僧侶(聖)の活動により貴族,奥州藤原氏のような地方の有力者,庶民に普及。
 ↓
 浄土教美術の発達
  阿弥陀堂建築=藤原頼通の平等院鳳凰堂,奥州藤原氏による陸奥平泉の中尊寺金色堂
  寄木造の阿弥陀如来像,来迎図など


(解答例)
律令体制が解体して社会秩序の動揺・再編が進むなか,政変や疫病など災厄が相次ぎ,社会不安が高まっていたことを背景に,密教や浄土教は広く受容された。密教は加持祈祷によって鎮護国家の使命や現世利益に応え,造寺造仏や荘園の寄進など朝廷・貴族から保護を受けた。来世での幸福を説く浄土教は天台僧源信や空也などの活動により普及し,貴族や地方の有力者によって阿弥陀堂が建立され,寄木造の阿弥陀如来像や来迎図など浄土教美術が発達した。