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年度 2002年

設問番号 第2問

テーマ 中世〜近世の大名支配と在地武士・百姓・商工業者/中世・近世


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設問の要求は,室町時代の地侍たちの,幕府・大名・荘園領主への対立的な行動を具体的に説明すること。

まず,地侍とはどのような存在であるかを資料文アで確認しておこう。そこには2つのデータが示されている。
(1)国人たちと主従関係を結び,国人に対して軍役をつとめていた
(2)惣村の指導者層でもあった
そして,ここから次の行動パターンを導き出すことができる。
(1)→国人たちと軍事行動をともにする
(2)→惣村の百姓たちと行動をともにする
それぞれ具体的にはどのような行動だったのか。この設問では,幕府・大名・荘園領主との関係においてとられた行動のうち,それらに対する「対立的な行動」を説明することが求められている(つまり協力的な行動については説明不要)。
(1)
国人とともに国一揆を結び,大名支配を排除して一定地域の自治を実現した。
(2)
惣村の百姓たちとともに荘家の一揆を結んで強訴・逃散を行い,荘園領主に対して年貢減免などを求める
広域に結んで土一揆を起こし,自ら徳政実施行動を展開するとともに,幕府に対して徳政令発布を求める


設問の要求は,戦国大名が城下町に家臣たちを集住させた目的。

資料文イがこれに対応するが,そこでは「家臣」という語が用いられていない。したがって,まず「家臣」とはどのような人々を指すのかを資料文イを使って明確化しておく必要がある。 資料文イでは「自分に従う国人たち」との表現があるが,家臣とは「国人たち」だけを指すわけではない。「国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした」と書かれているのだから,城下町に集住させられた家臣とは「国人や軍役を負担する人々」である。

ところで,「軍役を負担する人々」とはどのような人々なのか。
在地に居住するもので,国人以外に軍役を負担する人々といえば,資料文アで「平時から武装しており,主君である国人が戦争に参加するときには,これに従って出陣した」と説明されている地侍を指すものと想像できる。
しかし,資料文イでは注意深く「地侍」という語が避けられている。
もともと地侍とは百姓身分でありつつ武士身分でもあった人々なのだから,「年貢を負担する者」であるとともに「軍役を負担する者」でもある。そのことを念頭におけば,地侍のなかには「軍役を負担する者」として城下町へと集住していった者もおれば,「年貢を負担する者」(つまり百姓身分)として在地に留まった者もいるということがわかる。
この作業を通して戦国大名は,軍役負担を軸として領主−百姓関係を確定しなおそうとしているのであり,いいかえれば,兵農分離を推進しているのである。

さらに,領主として把握された「国人」や「軍役を負担する人々」(地侍)は,もともと「在地に居館を設け」(資料文ア),あるいは「惣村の指導者層」として,百姓に対して直接的な関係をもっていた人々であったが,彼らを城下町に集住させることは在地から引き離すということであり,彼らの在地に対する支配力(在地性)を弱体化させるとともに,年貢を負担する人々=百姓に対する戦国大名の直接支配を志向するものであった。

さて,戦国大名の家臣に編成された「国人や軍役を負担する人々」は,戦国大名が戦争を行うときは「これに従って出陣した」人々であり,すなわち戦国大名のもとでその軍隊を構成した人々である。そして,城下町とは戦国大名の居城の回りに形成された町であり,戦国大名の直接監視下にある地域といえる。
ここから,家臣を城下町に集住させることは,軍隊(家臣団)に対する統制を確保するとともに迅速な軍事動員(軍隊編成)を可能にするという効果をもっていたこともわかる。


設問の要求は,近世大名が城下町に呼び集めた商工業者の扱い方に関し,(1)居住のしかた,(2)与えた特権について説明すること。
(1)について。
城下町には武家地,寺社地とならんで町人地と称される地域が設定され,商人や手工業者はその地域のなかに職種ごとに居住させていた。
(2)について。
商人や手工業者の集住を促すため,地子銭を免除し,営業の自由を保障するなどの特権を与えた。

そして,このようにして城下町に呼び集めた商人や手工業者は,城下町に集住する家臣団に対して生活物資や軍事物資を供給することが期待されていた。


設問の要求は,近世の村がもつ(1)二つの側面,(2)その相互の関係。
対応するのは資料文エであるが,そこでは
「近世の村は,農民の生産と生活のための共同体であると同時に,支配の末端組織としての性格も与えられた。」
と書かれており,「二つの側面」が(ア)農民の生産と生活のための共同体,(イ)支配の末端組織であることがわかる。まずはそれぞれの具体的内容を確認しよう。
(ア)農民の生産と生活のための共同体
室町時代に惣村が形成されて以降,村では用水や山野などの入会地を管理し,祭礼などの行事をともにし,結とよばれる相互扶助による共同労働もさかんであった。さらに,有力名主=地侍を指導者層として自治が行われ,領主に対する年貢の百姓請(地下請),警察権を自ら行使する自検断などにより在地における行政の基本単位としても機能していた。
(イ)支配の末端組織
太閤検地では村ごとに検地帳を作成し,村を支配の末端組織として把握していった(村切り)が,江戸時代でもそれが継承された。幕藩領主は,村方三役と総称される村役人を中心とする自治を保障するとともに,年貢・諸役は村高を基準として賦課し,村全体の責任のもとで納入させる村請制を採用した。

次に,「相互の関係」である。
上ですでに確認したように,室町時代以来,在地では百姓たちの生産と生活の共同体として村が形成されてきており,さらに百姓たちによる自治も進展してきていた。それに対して幕藩領主は,自治を保障し,村内部のことがらについてはその自律性にゆだねたのであるから,二つの側面相互の関係は,“幕藩領主が村の自治・共同体的慣行を百姓支配のために利用した”と表現することができる。


(解答例)
A惣村の指導者として荘園領主に対して年貢減免などを求めて強訴・逃散を行い,土一揆を主導して幕府に対して徳政令発布を求めた。また,大名支配の排除をはかる国一揆に参加することもあった。
B軍役負担を軸として領主・百姓関係を確定しなおして兵農分離を進め,家臣に編成した国人や軍役を負担する人々を在地から切り離して百姓の直接支配を志向するとともに,彼らを直接監視下において家臣団統制を強化しつつ迅速な軍事動員を確保しようとした。
C城下町に集住する家臣団に対する生活物資と軍事物資の供給を安定的に確保するため,地子銭免除などの特権を与えて商工業者を集め,武家地とは区別された町人地に職種ごとに居住させた。
D村は用水や入会地などの管理,結とよばれる相互扶助が行われる生産と生活のための共同体であったため,幕藩領主は村方三役を中心とする自治を保障し,年貢の村請制を採用して村を支配の末端組織として位置づけ,共同体的慣行に依拠した百姓支配を行った。