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年度 2002年

設問番号 第3問

テーマ 日清戦争〜第1次世界大戦期の日露関係/近代


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設問の要求は,日清戦争直後に「怖露病」がもっとも激しかったことの国際関係上の背景。
いいかえれば,国民のなかにロシアを恐れる意識(→敵対意識・対抗意識と読み替えてよい)が高まっていたことの背景を,国際関係,つまり日清戦争直後におけるロシアとの対立関係から説明せよ,というわけである。

まず三国干渉。
日清戦争に勝利した日本が下関条約で遼東半島の割譲をうけたことに対し,ロシアがフランス・ドイツとともに,日本の遼東半島領有は朝鮮の独立を有名無実にするなど極東の平和に対する障害となるとの理由から,遼東半島の清への返還を求めたものである。
結局,日本政府は干渉を受け入れて遼東半島を清へ返還したが(東大1979年度第4問も参照のこと),国民のなかには「臥薪嘗胆」のスローガンに象徴されるロシアへの敵対感情が増大していった。

そして朝鮮情勢。
日清戦争を通じて日本の内政干渉が強まると,朝鮮政府内部では,閔妃を中心としてそれへの反発も強まっていった。その結果,三国干渉を契機として閔妃や国王高宗らはロシアに接近し,日本に対抗しようとする動きをみせた。これに対し,日本の駐朝公使三浦悟楼らが朝鮮王宮に乱入して閔妃を殺害するという暴挙にでるが(閔妃殺害事件),かえって国王高宗のロシア公使館への避難という事態を招き,親日派政府も瓦解に追い込まれてしまう。
このような動向が日本国民のロシアに対する敵意を増幅していたのである。
もっとも,朝鮮内部の独立自主をめざす運動が高まるなか,朝鮮政府に対するロシアの影響力も後退し,さらに日露間でも西・ローゼン協定などが結ばれ,朝鮮での勢力均衡がはかられていった。

なお,設問での設定時期は「日清戦争直後」なので,“北清事変を契機とするロシアの満州占領”については触れてはならない。


設問の要求は,「明治三十七八年役」前と“資料文の執筆時”における日露両国政府の関係の(1)変化の内容と(2)その理由

まず,「明治三十七八年役」が何という戦争であったか,“資料文の執筆時”(1916年)はどのような国際情勢にあったのかを確認しておこう。

「明治三十七八年役」
これが,満州・韓国問題をめぐって日露両国が戦った日露戦争を指すことはすぐに判断できるはず。その際,イギリスとアメリカが日本を支援した。

“資料文の執筆時”(1916年)の国際情勢
第一次世界大戦のさなかであり,前年の1915年には第2次大隈内閣が中華民国袁世凱政府に対して二十一か条要求をだし,最後通諜を突きつけてその大半を認めさせており,さらに1916年には同内閣により第4次日露協約(いわゆる日露同盟)が締結されている。これは秘密条項で条約の適用範囲を満州・蒙古から中国全土へと拡大し(日露両国による中国の独占を企図),第三国の中国支配を防ぐと規定しており,攻守同盟ともいえる性格をもっていた。問題文の冒頭にある「政府のロシアに対する外交政策」とは,具体的にはこの第4次日露協約を指すものと考えられる。
さて,先に第4次日露協約(日露同盟)では秘密条項で第三国の中国支配を防ぐことが規定されていたと書いたが,その「第三国」とは具体的にはどこをさすのか。条文では何ら明示されていないが,ドイツやアメリカを念頭においたものである(実教『日本史B』では,「1916年7月に第4次日露協約をむすび,その秘密協約で,中国が第三国の支配下におかれるのをふせぐため,相互援助することを協定し,アメリカに対抗しようとした(日露同盟)。」と説明されている)。

以上のことから,日露両国政府の関係の(1)変化の内容は明らかで,対立関係から提携・協調関係への変化である。
まず日本の韓国支配に対するロシアの承認であり,第二に日露協約(日露協商)の締結である。
日露協約は1907年に締結され,満州における日露の勢力範囲を確定し,両国間の提携・協調関係を築き上げた条約。もともと日本は,日露講和条約(ポーツマス条約)でロシアから旅順・大連の租借権,長春・旅順間の東清鉄道とそれに付属する利権を譲り受けたが,その結果,ロシアと権益地域が隣接することとなった。日本国内にはロシアの復讐を警戒する動きもあったが(特に陸軍),南満州権益を安定して経営していくにはまずロシアとの緊張緩和が不可欠であり,そこに日露が提携関係を結ぶきっかけがあった。
もう一つの要因はアメリカの満州進出への積極的姿勢である。ポーツマス会議のさなか,アメリカの鉄道企業家ハリマンが日本を訪れ,長春・旅順間の東清鉄道の共同経営を申し入れ,桂太郎首相との間で予備覚書を交わしたのが最初。この計画は,ポーツマス条約締結をすませて帰国した小村寿太郎外相の反対によって白紙撤回され,その結果,日本は1906年,半官半民の国策会社として南満州鉄道株式会社を設立し,アメリカ資本の直接投資を排除して南満州権益の独占を図った。翌07年に締結された日露協約はそうした日本の南満州政策を補完するものであった。この後,アメリカは1909年,ノックス国務長官が満鉄中立化を提案するが,1910年,日露両国はその提案を拒否するとともに,第2次日露協約を結んで緊密な協調関係をきずいた(これにより日露再戦の危機がほぼ消滅した)。1912年の第3次日露協約は,辛亥革命の発生と中華民国の成立,清の滅亡という中国情勢の激動をうけて締結されたもので,相互の勢力範囲を内蒙古にまで広げたもので(東部=日本・西部=ロシア),そして1915年の二一か条要求に対するアメリカの反発をうけて,翌16年に第4次日露協約(日露同盟)が結ばれ,両国の勢力範囲が中国全土に拡大された。


(解答例)
Aロシア主導の三国干渉により遼東半島の清への返還を強いられ,朝鮮では閔妃殺害事件もあってロシアの影響力が拡大していた。
B日露戦争後,ロシアが日本の韓国支配を承認し,南満州権益を譲渡したため,対立は解消し,他方でアメリカが満州進出を図って日本と対立したため,協調関係へ転じた。日露協約を結んで満蒙での相互の権益を確保し,第1次大戦期には軍事同盟へと発展させた。