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年度 2004年

設問番号 第1問

テーマ 文字文化の普及過程の歴史的背景/古代


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設問で問われているのは,古代における文字文化の普及過程の歴史的背景。条件として,政治的動向にもふれること,5つの指定語句(国風文化・勅撰漢詩文集・唐風化政策・渡来人・万葉仮名)を用いることが求められている。

この問題で最も注意しなければならないのは,<文字文化の普及過程>が問われているのではなく,<その歴史的背景>が問われている点である。ところが,年表形式で文字文化の普及に関するデータがしっかりと示されているため,<普及過程>の説明に終始してしまいかねない。<歴史的背景(政治的動向を中心に)>に言及することを忘れていては,設問の要求に応えたことにはならない。その点を肝に命じておこう。

とはいえ,まずは<文字文化の普及過程>を時期区分しながら確認しよう。

(1)弥生時代
57年 倭の奴国の王が後漢の光武帝から印を授かる(『後漢書』東夷伝)
239年 魏の明帝,親魏倭王とする旨の詔書を卑弥呼に送る(『三国志』魏書)

漢字が中国との外交関係のもとで中国からもたらされた。ただし,それに伴って倭内部で漢字使用が進んだかどうかは,史料もなく,分からない。

(2)ヤマト政権の展開期
4〜5世紀 百済から和迩吉師が渡来し,『論語』『千字文』を伝えたという(『古事記』)
471年カ 稲荷山古墳出土鉄剣の銘文が記される
478年 倭王武が宋の皇帝に上表文を送る(『宋書』倭国伝)
607年 遣隋使小野妹子が隋の煬帝に国書を届ける(『隋書』倭国伝)

渡来人により漢字がもたらされ,ヤマト政権は彼らに記録・出納・外交文書作成などの職務を担わせた(→史部)。それにともなって倭内部で漢字の使用が始まったことが,稲荷山古墳鉄剣などの金石文(地方豪族とヤマト政権との関係を記す文字資料)や中国への国書によりわかる。さらに,地名や人名といった日本語(倭語)が漢字の音訓を借りて表記されるようになった。

(3)律令国家の展開期
701年 大宝律令が成立。地方行政区画の「評」を「郡」に改める
712年 太安万侶が漢字の音訓を用いて神話等の伝承を筆録した『古事記』ができる
720年 編年体の漢文正史『日本書紀』ができる
751年 『懐風藻』ができる
8世紀後半 『万葉集』が編集される
8〜9世紀 この時代の各地の国府・郡家などの遺跡から木簡が出土する

律令国家のもとでは文書行政(文書を用いた情報伝達)が行われ,漢字の使用が本格化・浸透する。そして漢文学(漢詩文)が展開するとともに,漢字の音訓を用いて日本語を表記する万葉仮名が成立する。
なお,「各地の国府・郡家などの遺跡から木簡が出土する」というデータが,文書行政を意識させるためのデータであることはわかると思うが,大宝律令制定により「地方行政区画の「評」を「郡」に改める」とのデータも,そのことが藤原宮出土の木簡により判明したことを考えれば,同じように文書行政を意識させるデータと考えることができる。

(4)律令国家の再編期(弘仁・貞観文化期)
814年 嵯峨天皇の命により,最初の勅撰漢詩文集『凌雲集』ができる

平安初期は唐風文化の全盛期で,文章経国思想(漢文学の政治的な有効性を強調する考え)のもと漢文学が隆盛し,漢字文化の習熟が進む。

(5)国風文化期
905年 醍醐天皇の命により,勅撰和歌集『古今和歌集』ができる
935年頃 紀貫之,最初のかな日記である『土佐日記』を著す
11世紀 紫式部,『源氏物語』を著す

文化の国風化が進む。それを象徴するのが仮名文字の発達で,その結果,「日本人特有の感情や感覚を生き生きと伝えることが可能になっ」た(『詳説日本史』山川)などと評価されるように,文字文化が広く日本社会のなかに浸透していった。

以上を概観すれば,
(1)弥生時代=中国との外交関係のもとで<漢字が流入>

(2)ヤマト政権の展開期=<漢字の使用が始まる>

(3)律令国家の展開期=<漢字の使用が本格化・浸透>→漢文学が展開,漢字の音訓を用いた万葉仮名も成立

(4)律令国家の再編期=<漢字文化の習熟が進む>

(5)国風文化=かな文字の発達のもとでかな文学が展開<独自の文字文化が形成>

このように<文字文化の普及過程>を整理することができるが,ここで答案を書いてしまってはダメだ。最初に確認したように,<文字文化の普及過程の歴史的背景>が問われているだから,普及過程を説明しつつも<歴史的背景>(政治動向を含む)をメインにすえた答案を作り上げることが不可欠である。そのことを意識してデータを編成し直すと.....

(1)と(2)は,まとめてしまえば<漢字の流入・使用開始>の時期だが,それは中国との外交関係が契機のひとつとなっている。つまり,中国を頂点とする国際秩序に組み込まれるなかで,いいかえれば,中国を中心とする漢字文化圏に包摂されるなかで,日本に漢字という文字が流入し,その使用が始まる。用途は記録,外交文書の作成などであり,その担い手となったのは渡来人であった。
(3)について。行政の実務において,また天皇による支配の正統性を主張する史書の編纂において漢文が用いられただけでなく,そもそも律令が漢文で書かれていた。つまり,唐にならった律令国家の建設ゆえに,漢字使用が本格化し,社会のなかに浸透していったのだと言える。
なお,律令国家の建設事業は唐を模倣したものだから,その事業そのものを「唐風化政策」と形容することが可能かもしれない。受験生の答案としてはそれでもよいとは思うが,実際には大宝律令制定以降,律令国家が展開し,社会の実情に適合させようと再編が進められるなかで唐風化政策が進む。その典型が平安初期,特に嵯峨天皇の時代である。その意味では,「唐風化政策」という指定語句は,律令国家建設を説明する語句としてではなく,平安初期のところで用いるのが適当だろう。
(4)は,唐風化政策が推進された律令国家再編期で,文章経国思想のもと,貴族・官人に漢文学(漢詩文)の教養が要請された時代である。それゆえ,漢文学が全盛を向かえ,漢字文化の習熟が進む。
このように(3)〜(4)の時期を通じて漢字文化の浸透・習熟が進むなかで,漢字の音訓を用いて日本語を表記しようとする動きが展開し(万葉仮名),さらに仮名文字が発達してくる。つまり,仮名文字を使った独自の文字文化((5))が展開していく背景・基礎には,唐風化政策のもとでの漢字文化の習熟があったのである。つまり,(4)は(5)の歴史的背景と位置付けることができる。


(解答例)
中国を中心とする漢字文化圏に包摂される中,外交や国内支配の必要上,渡来人を担い手に漢字使用が進んだ。律令制が成立すると,国家を正統づける法典や史書の編纂,文書行政の浸透から漢字使用が拡大し,万葉仮名も成立した。唐風化政策が進んだ平安前期には,文章経国思想から勅撰漢詩文集の編纂など行われて漢字文化の習熟が進み,かな文字の成立を基礎とする国風文化の前提となった。(180字)