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年度 2004年

設問番号 第2問

テーマ 中世〜近世初の貨幣流通/中世・近世


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問われているのは,(ア)(1)がどこで造られたものか,(イ)流通した背景としての国内経済上の変化。

(ア)について。
写真は見たことがなくとも,設問文に「鎌倉時代の日本で使われていた銭貨の一例」と説明してあることから,宋銭であることは察しがつくだろう。
(イ)について。
国内経済のどのような変化が宋銭の流通を促したのかが問われているのだから,考えることは,<国内経済のどのような変化>が貨幣に対する需要を高めたのか,である。

その点を考える前に,まず,貨幣とはどのような役割を果たすものなのかを概観しておこう。
a 価値尺度 品物がどれくらいの価値(交換価値)をもつかを表示する基準。
b 交換(流通)手段 品物を交換するに際し,それへの対価を支払うために用いられる。そのため,貨幣を媒介することで商品はさまざまな人々の手を経て流通していく。
c 支払手段 人々が国家へ租税を納入したり,国家や企業などが給与を支払うのに用いられる。
d 蓄財手段 貨幣は,蓄えている財産の規模を表示してくれ,そのため,貨幣を蓄えることが財産蓄積の行為ともなる。
e 価値増殖の手段 他人に貸付け,利子をつけて返済させることで,価値を増殖させることができる。
f まじないの手段 通過儀礼・祭礼など社会的儀礼の一環として授受され,呪力をもつものとして,あるいは呪力そのものとして機能することがある。

このように貨幣はさまざまな役割を果たすが,<経済>に限ればa〜eの4つ。これらのうち,国内経済上の変化に伴って需要が増えたのはどれだろうか。
鎌倉時代には,農業生産が発達するとともに,荘園年貢の輸送を媒介として商品流通が活発化していったことを念頭におけば,bの役割を果たす貨幣に対する需要が増加していたことが推察できるだろう。これで答案はできあがるが,後は商品流通が活発化した様相を具体的に説明することを忘れないでおこう。
なお,「(代)銭納」は書いてはダメだ。「(代)銭納」とは年貢などを貨幣で納入することなのだから,貨幣が流布した結果・影響ではあっても,その原因・背景ではない。

ちなみに,貨幣は素材面からみると,物品貨幣(米・布など),金属貨幣(金銀銅など),信用貨幣(紙幣など)があるが,金属貨幣は物品貨幣に比べて,分割しやすく,持ち運びに比較的便利であり,また耐久性があるなどの理由から交換手段として適していた。


問われているのは,(2)の貨幣が造られてから,土中に埋まるまでの経過。

まず考えることは,どこで造られたのか。
図版では旧字が用いられているが,「永楽通宝」であることが判読できれば(推測できれば),(2)が明で造られたことがわかる。

次に考えることは,明で造られた(2)がどのような経緯で日本に相当数流入したのか。
15世紀には日明間で勘合貿易が行われ,それを通じて(2)に代表される明銭が大量に輸入されたことは知っているはず。

さて,次は何を考えればよいだろうか。
まさか,明から輸入されてそのまま,まとまった状態で土中に埋まったわけではないだろう。となると,輸入されてから土中に埋まるまでに,どのような経過をたどったのかを考える必要がある。
その際,注意しておきたいのは次の2点。
(ア)問題文では「土中に埋まる」と書いてあるが,貨幣(明銭)が自然に埋まったのか,それとも誰かによって人為的に埋められたのか。
(イ)問題文で「相当数がまとまった状態で」と書かれていることから,どのようなことを推論できるか。
まず,(ア)について。
発掘されているのが1,2例であれば自然に埋まった可能性もある。しかし,発掘例がそれほど少ないのなら,わざわざ問題として出題されるだろうか?となれば,人為的に埋められたと考えておくのがよさそうだ。誰かが一人で,あるいは複数の人間が共同して明銭を埋めたのだろう。
続いて,(イ)について。
「相当数がまとまった状態で」ということは,埋めた人(もしくは人々)が相当数の明銭を手元にもっていたはずで,言い換えれば,相当数の明銭を蓄蔵していたはず。
ここで,Aで確認した貨幣の果たす役割を思い出してほしい。dとして蓄財手段という役割を指摘したはず。これと総合して考えれば,明銭は日本に流入して以降,交換(流通)手段として機能するとともに,人々によって蓄えられ,蓄財手段としても機能するようになっていたことが想像できるだろう。

これで,明銭が土中に埋まる直前までの経過は推論できた。残るは,埋めた理由である。
実は,理由については学者のなかでも議論が分かれていて,戦乱などから財産を守るため,あとで掘り返すために土中に埋めておいたのだという説と,土地開発を行う際に神仏にささげたものだという説(今でも家を建てるときに神主に来てもらってお払いすることがある)がある。
こうなると受験レベルではお手上げとも言え,最低限,銭貨が蓄財手段としても機能するようになっていたことが指摘できれば十分なのではないかと思う。


問われているのは,(1)(2)が流通していた時代から(3)が発行されるまでに,(ア)日本の国家権力にどのような変化があったか,(イ)それが貨幣のあり方にどのような影響を与えたか。

(ア)について。
最初にやっておかなければならないのは,(1)(2)(3)が流通していた時代それぞれについて国家権力のあり方を整理することである。
(1)→鎌倉時代
 鎌倉時代は鎌倉に武家政権,京都に公家政権が存在し,公武二元支配が行われた時代であり,承久の乱・蒙古襲来を経るなかで武家政権の支配力が拡大していくものの,最後までこの枠組みは維持され続けていた。さらに,荘園公領制のもと,天皇家や摂関家,延暦寺・興福寺・伊勢神宮といった権力者が荘園や知行国によって家産を形成し,私的な勢力として割拠しており(権門体制),鎌倉幕府もそうした権門としての性格を共有していた。つまり,一元的な国家権力が存在しなかったのが鎌倉時代であった。
(2)→室町時代
 南北朝動乱を経て全国支配を形成した室町幕府は,朝廷の権限を吸収して公武一統を実現していったが,その全国支配は守護領国制に依拠することで初めて実現しており,地方分権的な性格が強かった。また,天皇家や摂関家,有力寺社の領主権はその実質を失っていった(経済的な権益へ転化)とはいえ,荘園公領制は社会の基本構造として残っており,室町幕府・守護大名もそれを否定できていなかった。つまり,室町時代も一元的な国家権力が不在であった。
(3)→江戸時代
 江戸時代の支配体制は幕藩体制と呼ばれ,各地に諸大名が領地(領知)をもち,ある程度の自由裁量を認められ地方統治を担っていた。この意味では江戸時代も地方分権的だが,室町時代とは異なり,中央集権的な性格が強かった。それは,石高制を基礎とする大名知行制が形成されていたからである。つまり,石高制のもと,幕府が所領与奪の権限を握り,諸大名の領知は一時預かりと認識されていたのである。

以上のデータをもとに,(1)(2)の時代と(3)の時代とで国家権力がどのように異なっていたのかを整理すると,次のようになる。
(1)(2)の時代=一元的・統一的な支配力をもつ国家権力が不在
↑↓
(3)の時代=石高制を基礎に統一権力が出現

次に(イ)について。
「貨幣のあり方にどのような影響を与えたか」を考える前に,「貨幣のあり方」を考えておこう。そのうえで「影響」を考えればよい。
○(1)(2)が流通していた時代
 中国から流入した各種の宋銭・明銭が流通し,さらに室町時代後期には私鋳銭が流通するなど,さまざまな銭貨が混在し,統一性が欠如していた。
○(3)が発行された時代
 (3)は江戸幕府が発行した寛永通宝だが,これが大量に鋳造・供給されることで全国に流通する銭貨の統一が実現した。
 このことは,江戸幕府が石高制を基礎とする統一権力として成立し,それゆえ貨幣鋳造権を独占したために可能となった−これが問われている「影響」である。


(解答例)
A宋。荘園公領制下での畿内への年貢輸送を媒介に遠隔地間商業が発達し、各地で定期市が開催されるなど貨幣需要が高まっていた。
B明で鋳造されて勘合貿易で流入し,経済発展にともなって蓄財の手段ともみなされ,戦乱の中で隠匿などを目的に埋納された。
C統一権力が不在の中世は,中国銭を中心に多様な貨幣が混在したが,石高制を基礎に統一権力が樹立された江戸時代は,貨幣鋳造権を掌握した幕府のもと,同じ規格をもつ貨幣が全国的に通用した。