過去問リストに戻る

年度 2007年

設問番号 第2問

テーマ 中世の禅宗文化と浄土真宗・日蓮宗の動向/中世


問題をみる

問われているのは,禅宗が生み出した文化の特徴。条件として,政治権力との関わりをふまえることが求められている。

まず注意しなければならないのは,「文化の内容」が問われているのではなく「文化の特徴」が問われている点である。したがって,漢詩文や水墨画などが生み出されたなどとの表現で答案を〆てしまうと,設問の要求に応えたことにならない。「特徴」を表現しなければならない。

次に「禅宗が生み出した」という表現に注目する必要がある。禅宗もしくはその担い手としての禅僧が直接作り出した文化について考えればよいのか,それとも禅宗の影響のもとで成立した文化まで含めて広く考えてよいのか,どちらだろうか。
設問では「禅宗によって」ではなく「禅宗が」と表現されている点や,資料文(2)・(3)では「禅僧」の活動のみが取り上げられていることを考えれば,前者でよいことがわかる。
したがって,室町文化総体を念頭におくのではなく,禅僧が担った文化についてその特徴を考えていこう。

まず資料文の内容把握から。
資料文(2)
○幕府によって中国の禅僧が招かれたこと
○日本から多くの禅僧が修行のため,または幕府の外交使節として中国に渡ったこと
資料文(3)
○禅僧は宗教活動の一環として,すなわち日常的に漢詩文を作成していたこと
○禅僧のなかでは,新しい中国風の絵画技法が学ばれていたこと,さらに中国にわたって技法を深める禅僧がいたこと

これらから判断できるのは,
◎幕府(武家政権)の保護のもとで形成された文化であること
◎禅僧が日中間を往来するなかで形成された文化であること
◎中国風の文芸や絵画が創作されていたこと
である。

つまり,公家勢力に対抗しながら独自の文化形成をめざした武家政権の保護のもと,禅僧が日中間を活発に往来し,新しい中国文化の普及・浸透に大きく貢献したのである。

なお,山川『新日本史』(p.142〜143)に次のようが記述があり,参考になる。
「明が成立してからは,外交使節として禅僧の来日はあるものの,渡来僧は途絶えた。しかし禅寺では,参禅修行のために中国語が必要であり,日常的に漢詩を交わして漢文をつくるなど,中国風の文化が保持された。そして,五山版とよばれる禅の経典や漢詩文集などの出版もおこなわれた。これら禅僧のつくる漢詩文は五山文学とよばれ,14世紀後半に,義堂周信や絶海中津ら著名な禅僧が輩出し,最盛期を迎えた。他方,自由に生きた大徳寺の一休宗純のような異色の禅僧もいた。
 また,漢文で書かれた外交文書や詩文を交わすことによる意思の疎通は,東アジアの外交の場において必須の手段であったため,禅僧は外交使節や外交文書の作成者としても幕府から重用された。
 さらに,禅僧は中国風の絵画である水墨画を伝えた。室町時代の前半では,明兆・如拙らが,後半では雪舟が画僧として知られ,とくに雪舟は明に渡海して学んだ後,『四季山水図』などを描き,水墨画の技術を集大成した。」


問われているのは,鎌倉時代に抑圧された宗派が戦国時代までにどのように展開したか。

まず「鎌倉時代に抑圧された宗派」を確定したい。
「鎌倉時代に抑圧された」と聞けば,まず法然や親鸞,そして日蓮が思い浮かぶだろう。それ以外に栄西を思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし,資料文(1)で指摘されているのは親鸞と日蓮だけである。
1207年,親鸞が朝廷から弾圧をうけた際,彼の師法然も弾圧を受けているのだが,それはカットされている。ということは,法然を開祖とする浄土宗については触れる必要がないと判断してよい(実際のところ,浄土宗については知識がないと思う)。
では,栄西はどうか。彼は延暦寺から抑圧をうけているものの,一方で鎌倉幕府の保護をうけており,さらに彼が伝えた禅宗については,その文化的な展開が設問Aで問われている。この点を念頭におけば,設問Bで言及する必要はない。

次に注意すべきは「戦国時代までに」との時期設定である。戦国時代だけに限定せず,広く時期をとって説明したい。

浄土真宗
○近畿・北陸・東海などに広まる
○地方武士や百姓・商工業者に浸透
○惣村や寺内町を基盤として一向一揆が形成される=守護を排して自治支配を実現

日蓮宗
○西国などに広まる
○商工業者に浸透
○京都では町衆を担い手として法華一揆が形成される=京都の町政(市政)を掌握


(解答例)
A禅宗は,独自の文化形成をめざす武家政権から積極的な保護をうけ,そのもとで禅僧が日中間を活発に往来した。そのため,禅宗寺院を中心に漢詩文や水墨画など新しい中国風の文化が創出された。
B浄土真宗は近畿・北陸などの武士や百姓らに浸透し,各地で信者が一向一揆を結んで守護に対抗した。日蓮宗は西国などの商工業者に広まり,京都では信者が法華一揆を結んで町政を一時握った。