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年度 2008年

設問番号 第4問

テーマ 明治憲法体制と政党内閣/近代


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第一次大隈内閣と原内閣とを比較することを通じて,明治憲法体制のもとで,どのように政党内閣(政党政治)が進展し,定着するにいたったかを問うたオーソドックスな問題である。微細な成立経緯に目を奪われず,設問A・Bが配置されることにより出題者が何を問おうとしているのかを把握した上で解答したい。


問われているのは,第一次大隈重信内閣の成立と戦争との関連。
まず,「戦争」とは具体的には何を指すのか? 第一次大隈内閣は日清戦争後に成立した内閣なので,まず日清戦争が思い付く。しかし,日清戦争あるいはその勝利が政党の政治的発言力の拡大にどのようにつながるのだろうか。
日清戦争後における戦後経営の必要性から藩閥内閣が政党と提携したこと,そして,戦後経営のなかでの財源不足から地租増徴問題が浮上し,このことが藩閥内閣(第三次伊藤内閣)と政党(自由・進歩両党)の決定的な対立に発展することになることも知っているだろう。
ここで考えたいのは,戦後経営とは何か,何を中心としていたか,である。
日清戦後経営は,ロシアを仮想敵国とした軍備拡張,軍拡に応じられるだけの経済力の育成,そして台湾経営などを内容としており,なかでも対露戦に向けた軍拡が中心であった。
この点を念頭におけば,「戦争」とは日清戦争ではなく日露戦争(あるいは対露戦の想定)を指すと考えるのが妥当であることがわかる。

さて,対露戦に向けた戦後経営のなかで,地租増徴問題をめぐって藩閥内閣(第三次伊藤内閣)と自由・進歩両党が対立し,両党が合同して憲政党が成立したことで,第一次大隈内閣成立へと至った。
では,地租増徴問題をめぐる内閣と政党の対立,そして憲政党の結成がなぜ「はじめての政党内閣」の成立につながるのか? それは,衆議院が増税の決定権を握っていたこと,そして憲政党が衆議院の単独過半数を占めたためであった。


ある受験生から「当時の実力者である伊藤博文は日露協商論者であるし,山県有朋も山県=ロバノフ協定を結んでいるにもかかわらず,藩閥勢力が対露戦を意識していた,というのはどういうことか」との質問を受けました。

確かに日清戦争後の藩閥は対露宥和策をとっています。言い換えれば,当面は対立的な外交政策を採らないという姿勢です。これは伊藤も山県も違いはありません。日英同盟締結後になってようやく,やや対立的になるだけのことです(桂内閣にしても日英同盟締結で日露開戦を決意したわけではない)。こうした意味では,藩閥は全体としてみた場合,対露強硬論ではありません。
とはいえ,宥和策を採っているからといって,対露戦を想定していない,言い換えれば,ロシアを仮想敵国としていない,という話にはなりません。時期が異なりますが,日露戦争後を考えてみてくれてもいいです。日露協商を結んでロシアと協調関係に入りますが,ロシアは仮想敵国でした。
宥和・協調策は,相手との軍事的関係において拮抗状態を確保しようとする動きをともなうことが一般的です。ですから,対露宥和策を採る伊藤のもとで,対露戦を想定した軍拡が模索されることに矛盾はありません。
[2008.4.3追記]



問われているのは,原敬内閣が本格的な政党内閣となった理由。条件として,社会的背景に留意することが求められている。
まず注意しなければならないのは,原内閣の成立事情についての説明が求められているのではないことである。言い換えれば,政友会総裁原敬が首相に推挙された事情(だけ)を説明したところで,設問の要求に応えたことにはならないのである(そもそも政党の党首が首相に就任しただけでは政党内閣とは呼べない)。
次に注目したいのは,設問文に「のちの「憲政の常道」の慣行につながる,本格的な政党内閣となった」と書かれている点である。つまり,「憲政の常道」の成立事情をも想起し,原内閣の成立事情のうち,それとの共通点を抽出することが必要となってくる。

原内閣について。
○米騒動→元老が政友会のもつ統合力に期待
○原敬=元老山県有朋ら藩閥官僚勢力との関係調整に主な関心
○原内閣の構成=かつての西園寺内閣とは異なり,閣僚の大半を政党員で占める

「憲政の常道」について。
○第2次護憲運動→元老が憲政会・政友会に期待
○背景:社会運動の勃興=大正デモクラシーの進展(市民的自由の拡大と民衆の政治参加を求める風潮)
○政党による政権交代=政党内閣制が続く

両者の共通点を取り出せば,第一に,社会運動の高揚,大正デモクラシーの進展を背景としていることである。そして,それらと「戦争」との関連は,第一次世界大戦にともなう大戦景気のなかで都市民衆(労働者やサラリーマン)が増加したこと,それら都市民衆を基盤とすることである。
そして第二に,元老を中心とする藩閥官僚勢力が政党内閣に期待をかけたことである。さて,どのような期待をかけたのか? それは,民衆を統合することのできる,言い換えれば民衆を善導することのできる能力,政治的・社会的な統合力への期待であった。


(解答例)
A藩閥が対露戦に備えた軍拡とそのための地租増徴を企図したのに対し,増税の決定権を握る衆議院で憲政党が単独過半数を占めた。
B大戦景気のなかで労働者やサラリーマンら都市民衆が増加したことを基礎として,市民的自由の拡大と民衆の政治参加を求める風潮が広がり,米価騰貴が全国各地で米騒動を招いた。そのため,藩閥官僚勢力からも政党のもつ政治的・社会的な統合力が期待された。