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年度 2012年

設問番号 第3問

テーマ 江戸時代半ば以降における農村の休日と若者組/近世


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A 問われているのは,当時,村ごとに休日を定めた理由。条件として,村の性格や百姓・若者組のあり方に即すことが求められている。

まず,「村ごとに休日を定めた」との表現からチェックしていこう。
◎「村ごとに」…ここで注目する必要があるのは,なぜ「村」が単位となっているのか。
◎「休日」…どのようなタイプの休日があるのか,確認したい。資料文で具体的に取り上げられているのは,大きく分ければ3つである。
 ①「正月・盆・五節句や諸神社の祭礼」(資料文(1))…年中行事的な祝祭日
 ②「田植え・稲刈り明け」(資料文(1))…農業労働の休養日
 ③「臨時の休日」(資料文(3))…若者組が「押しかけてきて」「願い出」たもののうち,村役人の寄合で認めたもの
 これらの休日が定められた理由を考えたい。
◎「定めた」…定めた主体は,資料文(2)や(3)をもとに考えれば,村(あるいは「村役人の寄合」)であると分かる。そして,「村で定められた休日はおおむね守っている」(資料文(2))との表現から,休日は,村の百姓たちが共通して守るべきものとして定められていた,と判断できる。

続いて,条件としてあげられている諸項目を確認しよう。
「村の性格」から。次の3つの点は知っているはず。
○百姓にとって経営(生産と生活)を成り立たせるための共同体
○独自の法(村掟)をもち,寄合に基づいて運営される自治組織
○村請制のもとで領主支配の末端をになう(法令の伝達・順守や年貢の納入などを請け負う)存在

次に「百姓のあり方」。
「あり方」との表現が曖昧だが,「村ごとに」と書かれている点に留意し,「村」との関わりを考えてみるとよい。
江戸時代の百姓の多くは,小家族とせまい田畑をもとにした小経営であった。そのため,田植えや稲刈りなど,短期間で多くの労働力を要する農作業に際しては,お互いに労働力を提供しあう必要があった(この慣習を結とよぶ)。
だからこそ,先ほど確認したように,村は百姓経営を成り立たせるための共同体だったのである。

ここで,先ほど確認した休日のタイプ(①と②)に戻って,休日を定めたことの理由を考えよう。
村の共同体としてのあり方を保たせる軸が祭礼であることを念頭におけば,①のタイプの休日は,百姓たちの共同性を確認し,共同意識を培うために設定されていた,と判断することができる。
一方,先にも確認したように,田植えや稲刈りがお互いの労働力を提供しあって行われていたことを考えれば,②のタイプの休日は,農作業上の共同性に基づいて設定された,と判断することができる。
両者をまとめれば,村としての休日を定めることを通じて,村としての共同性を確認し,保持しようとしていた,と結論づけることができる。

最後に「若者組のあり方」。
「若者組」という用語をはじめて目にする受験生がほとんどだろうが,若者によって構成された集団であることはすぐに判断できるだろう。ここから,村のなかに年齢ごとの集団組織があった,と推論できる。
さて,「若者組」がどのような存在なのか,資料文からデータを引き出してこよう。
資料文(3):
○村の名主のもとへ「大勢で頻繁に押しかけて」要求を突きつける ……(ア)
 →名主ら村役人を中心とする村落秩序を尊重しつつも,村役人に対する圧力団体的な存在
○「総代や世話人を立て,強固な集団を作」る ……(イ)
 →自律的・自立的な集団
資料文(4):
○支出の大半を「祭礼関係」に使う ……(ウ)
 例)「芝居の稽古をつけてくれた隣町の師匠へ謝礼を払」う
   「近隣の村々での芝居・相撲興行に際して「花代〔はなだい〕」(祝い金)を出」す
 →村のまとまりの軸である祭礼やそこでの興行(遊興)を主に担ったのが若者組であった,と推論できる。
  さらに,村という枠をこえ,近隣の村々や町との結びつきをもった集団でもあったことが分かる。

こうした若者組のあり方に関連づけながら,③タイプの休日が定められたことの理由を考えてみよう。
休日を定めた主体が「村役人の寄合」であること,そして彼らは,自律的・自立的な集団である若者組の集団による強訴(押しかけての要求)に対応する形で休日を定めたことに留意すれば,祭礼・興行を中心的に担う若者組を,村役人を中心とした村落秩序のもとにしっかりと組み込み,統制することが意図されていた,と推論することができる。


問われているのは,18世紀末に村人の「遊び」をより厳しく規制しようとした際に,幕府や藩が危惧したことがら。条件として,農村社会の変化を念頭におくことが求められている。

まず,18世紀末,農村社会がどのように変化していたのか,確認しておこう。その際,設問Aでは村の共同性や秩序に焦点があたっていたことに留意しよう。つまり,個々の百姓経営のあり方ではなく,共同体としての村,村落の共同体的な秩序に注目したい。
18世紀末といえば,村々で商品生産(商品作物の栽培や農村手工業)が活発となって貨幣経済の浸透が進み,生活水準の総体的な向上をともないつつも,百姓の階層分化が広がっていた。以前からの有力な百姓が商品生産の担い手としてさらに成長したり,新しく台頭する百姓が出現したりする一方,経営に失敗し,貧窮する百姓が増加し,小作人や奉公人へ転落したり,都市へ流出したりすることが広がっていた。こうしたなか,村政運営をめぐって村方騒動が生じるなど,村落秩序が動揺していたのである。 さらに,村々と都市のあいだで人や物の交通が活発となっていた。都市から村々へ訪れる行商人や文人が増え,百姓のなかから商業活動に経営の比重を移す在郷商人も登場する。無宿や博徒もしだいに横行するようになり,治安の乱れを招いていた。

次に,村人の「遊び」がどのようなものか,考えよう。
○「遊び」とは?
資料文(1)で「休日〔やすみび〕」と「遊日〔あそびび〕」が並記してある点に着目すれば,「休日」に行われる,あるいは「休日」に関わる行為が「遊び」であった,と判断できる。
○「遊び」の内容
資料文(2):
「平日よりも贅沢な食事や酒,花火などを楽しんだ」 …(a)
「博打〔ばくち〕に興じる者もいた」 …(b)
資料文(4):
 若者組の祭礼に関わる行動=芝居の稽古 …(c)
「師匠へ謝礼」,「「花代〔はなだい〕」(祝い金)」といった支出 …(d)

(a)や(d)から,「遊び」が風俗・生活の奢侈化,貨幣支出の拡大,一言でまとめれば,貨幣経済の浸透を招くことが分かる。
(b)から,「遊び」が博徒の横行につながりかねないことが分かる。
(c)からは,さらに,「遊び」は若者組の行動の広がりをともなうことがうかがえる。
ところで,若者組の行動は,上記の(ア)から,名主ら村役人を中心とする村落秩序を尊重しつつも,それを揺るがしかねない,村方騒動と類似したものであることが分かり,(ウ)から,村という枠をこえ,近隣の村々や町と独自な結びつきをもっていたことが分かる。
これらのことを念頭におけば,「遊び」は村役人の統制,村落秩序を逸脱する(逸脱しかねない)行動を招きかねない,と判断できる。
まとめれば,幕府や藩は,村落秩序の動揺,治安の悪化を招き,村請制のもとでの村役人を通じた領主支配を揺るがす可能性を,「遊び」の広まりのなかにかぎとったのだと言える。


(解答例)
A村は百姓の小農経営維持に不可欠な共同組織であり,農業サイクルに合った休日を定めることでその共同性を保つ一方,祭礼・興行を主に担う若者組の要求をも組み入れ,村落秩序の維持を図った。(90字)
(別解)A村は,小経営の百姓にとり経営維持に不可欠な共同組織であるとともに,内部には年齢別の自律的な集団が形成されていた。そこで,村ごとに休日が定められ,村としての共同性と統制が保たれた。(90字)
B貨幣経済の浸透や博徒の横行,村役人の統制を逸脱する若者組の行動を招き,村落秩序の動揺,治安の悪化につながると危惧した。(60字)