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年度 2013年

設問番号 第4問

テーマ 江戸幕末期の新たな政権構想と明治憲法下の政治制度/近代


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問われているのは,橋本左内の構想が従来の政治の仕組みをどのように変えようとするものであったか。条件として,国際的背景を含めることが求められている。

まず,橋本左内の構想を確認しよう。
「第一」
○将軍の後継ぎを立てること。これは「政治の仕組み」に直接関わることがらではないので,ここでは検討の対象から外してよい。
「第二」
○松平慶永・徳川斉昭・島津斉彬らを国内事務担当の老中,鍋島直正を外国事務担当の老中とする。
○有能な旗本や「天下に名のとどろいた見識ある人物」を登用して老中に「附属」させる。
 →「天下に名のとどろいた見識ある人物」については,「大名の家来や浪人」であってもよい。

次に「従来の政治の仕組み」を確認しよう。
①役職と職務内容:
・老中が政務を統轄→将軍の政治を補佐・執行。
・若年寄が旗本を監視,大目付が老中に属して大名を監視,寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行がおかれた:大名・旗本・寺社・(江戸の)町など,対象に応じて職務を分担。
・重要な事項は評定所で老中・三奉行らが合議して裁決。
・行政・立法・司法が未分離
②役職就任者の資格:武士身分が独占→基本的には譜代大名と旗本に限られ,さらに役職には大名が就く職と旗本が就く職の区別がある。
③同一の役職に複数のものが任命され,月番交代で政務にあたる。

この仕組みと対照させれば,橋本の構想は①役職と職務内容と③月番制には触れておらず,②役職就任者の資格をめぐる改革構想であることがわかる。どこが異なるのか,確認しておこう。
まず「武士身分が独占」の部分である。橋本の構想に登場する松平慶永・徳川斉昭・島津斉彬,鍋島直正はいずれも大名であり,旗本,「大名の家来や浪人」はいずれも武士身分であり(浪人は主家をもたない武士身分の者(ただし自称も含む)である),従来の政治の仕組みと同様である。
次に「基本的には譜代大名と旗本に限られる」の部分である。橋本の構想に出てくる大名のうち,松平慶永と徳川斉昭は親藩,島津斉彬と鍋島直正は外様である。また,「大名の家来や浪人」は大名でも旗本でもない。
そして「役職には大名が就く職と旗本が就く職の区別がある」の部分である。老中に任ずべき人物として松平慶永・徳川斉昭・島津斉彬,鍋島直正という大名をあげ,旗本や「大名の家来や浪人」を老中に「添え」「附属」させようとしている点を考えれば,将軍の政治を補佐・執行する老中という役職に就任する資格を変更させようとする改革構想ではなく,大名が就く職と旗本らが就く職の区別を維持しようとしていると推測できる。
以上から,橋本の構想は役職就任者の資格(②)を焦点とする改革構想であることがわかる。

なお,老中に「国内事務担当の老中」と「外国事務担当の老中」の区別が設けられている点が気になるかもしれない。
老中は元来,月番交代で政務にあたるのだから,複数のものが任命されてはいても,それぞれの専管の職務内容があるわけではなかった。この点を考慮に入れれば,外交という特定の職務内容を専管する老中が設けられていることを橋本の構想の新しさとして指摘してよい,かもしれない。
しかし,高校日本史レベルの知識を超えているが,勝手掛という財政問題専門の老中が5代将軍綱吉以降,海防掛という海防問題を専管する老中が寛政期以降に設けられており,ペリー来航後には海防掛に代わり,「外国御用掛(外国御用取扱)」という外交問題に専念する老中も任じられていた(堀田正睦が担当老中)。したがって,「外国事務担当」の老中を設けることは橋本左内の独創ではなく,当時の幕政のあり方を踏襲したものと言える。
もっとも,先にも書いたように,これは高校日本史を超えた知識である。したがって教科書レベルの知識と資料を対照させ,外交専門の老中を新設する,という点は橋本の改革構想の一つだと判断しても構わないのではないか,と思う。

最後に,このような政治改革が構想された国際的背景についてである。
この橋本の構想が示されたのは「1858年」,日米修好通商条約が締結された年である。「第一」で「将軍の後継ぎを立てること」が挙げられていることを考えれば,将軍継嗣問題の決着がついていない段階に記したものと判断できるので,おそらく日米修好通商条約もまだ締結されていないと推測できる。おそらく条約勅許や将軍継嗣問題をめぐって国論が分裂している頃に書かれたのだろう。しかし,日米修好通商条約の締結という方針は幕府のもとでほぼ固まっていたし,橋本左内は賛成・推進派であった。したがって,日米修好通商条約の締結を既定のものとして答案に書き込んで支障ないと判断できる。
日米修好通商条約締結の当時,清とイギリス・フランスとのアロー戦争が展開している最中であり,アメリカ総領事ハリスがこの戦争を利用して幕府に調印を迫ったことは知っているだろう。このことを念頭におけば,西洋諸国の圧倒的な軍事力をまのあたりにしながら,西洋諸国主導の国際社会のなかに組み込まれようとしていたのが当時の日本だった,と言える。
橋本左内はこうした情勢に積極的に対応するため,譜代大名・旗本という特定の家格の人々が幕政=国政を独占する政治の仕組みを変革し,家格や社会的地位にとらわれない人材登用を行うことで挙国一致の政治体制を作りあげようとしたのだ,と判断できる。


問われているのは,維新の動乱を経て約30年後に成立した新たな国家体制のもとでの政治制度と橋本の構想との主な相違点をいくつかあげること。

まず,橋本の構想を確認し直しておく(詳細が不明な部分は省いた)。
①役職と職務内容:
・老中が政務を統轄→将軍の政治を補佐・執行。
・老中がそれぞれ職務を専管する体制を基本的に不採用(外交〔と財政〕を除く)。
・行政・立法・司法は未分離。
②役職就任者の資格:
・武士身分による独占。
・大名が就く職と旗本(や大名の家来ら)が就く職の区別を維持。
・家格や社会的地位にとらわれない人材登用。

次に,維新の動乱を経て約30年後に成立した新たな国家体制のもとでの政治制度を確認しよう。
1858年から「約30年後に成立した」のだから明治憲法体制を想起すればよい。そのもとでの政治制度を,上で確認した橋本の構想の枠組みと対照させながら確認しよう。
①役職と職務内容
・国務大臣が政務を統轄・協議→天皇の統治を輔弼。
・国務大臣は各省の長官としてそれぞれ専任の行政事務を担う。
・行政から立法(帝国議会)・司法(大審院以下の裁判所)が分離・独立。
②役職就任者の資格
・文官任用令や衆議院議員選挙法・貴族院令などで規定=(職能)身分に基づかない。
・帝国議会を通じて一般人民の国政への参加も実現。

これらにとどまらず,橋本の構想が幕藩体制(将軍と各大名が独自に家臣団と領地をもつ体制)を前提としていたのに対し,約30年後には,その体制が既に解消され,天皇のもと,各道府県に派遣された官僚のもとで統治する中央集権体制がとられていたことに注目しておきたい。これが,上のような政治制度の前提であった。

なお,「約30年後に成立した」内容を説明することが求められているので,「約30年」の間にどのような変化があったのか,その経緯を説明する必要はない。


(解答例)
A従来,譜代・旗本を中心に家格に基づく政治制度がとられたのに対し,アロー戦争を背景に日米修好通商条約が結ばれ,欧米主導の国際社会に半ば強制的に組み込まれようとする状況下,親藩・外様をも幕政に参画させ,幕臣以外からも人材を登用すべきとした。
B橋本の構想が将軍と各大名が独自に家臣団と領地をもつ体制を前提とし,武士身分中心であったのに対し,天皇中心の中央集権的な明治憲法体制が整い,一般人民が政治に参与する道も開かれた。