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年度 2014年

設問番号 第1問

テーマ 古代における国政審議の変遷/古代


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問われているのは,律令制では国政はどのように審議されたのか。条件として,その構成員に注目することが求められている。

律令制のもとで国政を担当するのが太政官であること,そして,太政官の左右大臣,大納言ら公卿と総称される官人たちが国政の審議にあたることは知っているだろう。したがって,条件に即せば,国政の審議に参加する公卿たちがどのような人々によって構成されるのかを考えればよいことがわかる。 ところで,「律令制」とはいつからいつまでの時期を指すのか。この設問では国政に焦点があたっていることを念頭に置けば,律令政治,言い換えれば,律令法(あるいは律令格式)に基づいて運営される政治システムが機能している時期を念頭におけばよく,したがって7世紀後半から11世紀半ば(つまり摂関政治を含む)を対象とすればよい。
さて,資料文を確認しよう。
太政官の公卿がどのような人々によって構成されているのかについて説明してあるのは,資料文⑴のみである。したがって,資料文⑴を主な素材として考えていこう。
資料文⑴「律令制の国政の運営には,こうした伝統を引き継いだ部分もあった。」
ここで注目したいのは,第一に「こうした伝統」が引き継がれている点,第二に引き継いだ部分「も」あったと書かれている点である。ここから,2006年第1問を想起しながら考えていけばよいことが分かる。
まず,第一点め。
「こうした伝統」とは,「大王が,臣姓・連姓の豪族の中から最も有力なものを大臣・大連に任命し,国政の重要事項の審議には,有力氏族の氏上も大夫(マエツキミ)として加わった」という内容であり,畿内の有力氏族から氏上(代表者)が一人ずつ出て公卿となり,合議によって国政の審議にあたる,というものである。
次に,第二点め。
氏族制の伝統を引き継いだ部分以外といえば,奈良時代,官僚制原理がしだいに機能・浸透するなか,藤原氏のように,行政能力と儒教的学識をそなえた官僚政治家が氏族の枠にとらわれることなく公卿に就任することが多くなる,という点である。

ところで,国政の審議は太政官の公卿だけで担われたのだろうか。
公卿の会議で決まったことがらがそのまま法となるわけではなく,天皇の裁可(決裁)を経て初めて法となり,各地に文書で命令・伝達された。そして,天皇が国政の内容をすべて公卿会議に委ねているわけではなく,天皇側から公卿への積極的なアプローチがありえたことは資料文⑵からも分かる。実際,たとえば桓武天皇や嵯峨天皇は貴族を抑えて強い権力を握り,国政を主導していた。
このように天皇も国政の審議に関わっていたと考え,答案のなかにくみ込めればより良いだろう。


問われているのは,⑷の時期に国政の審議はどのように行われていたか。条件として,太政官や公卿の関与のあり方に注目することが求められている。 設問Aが国政審議に携わる構成員に焦点があたっていたのに対し,設問Bでは「行われ方」に焦点があたっている点に注意したい。設問Aで答えた構成員に即して国政審議の行われ方を考えていけばよい。

では,資料文の内容把握から。
摂関政治は摂政・関白が「天皇との信頼感のもとに公卿を指揮して,太政官を基盤に政治を運営する」(山川『新日本史』)であり,あるいは,摂関政治のもとでも「天皇が太政官を通じて中央・地方の役人を指揮し,全国を統一的に支配する形をとった」(山川『詳説日本史』)ことは知っていると思うので,資料文⑵,⑶もこちらで活用できることと判断できるだろう。そこで,まずは資料文⑵,⑶の読み取りから。
資料文⑵
○天皇…蔵人頭や蔵人を通じて太政官組織と連携
○蔵人頭や蔵人…天皇と太政官とをつなぐ重要な役割を果たす→天皇の命令をすみやかに伝達
資料文⑶
○太政大臣藤原基経…多くの貴族層の支持のもとで天皇をすげ替え
→資料文には書かれていないが,擁立した光孝天皇のもとで実質的に関白を務めた

資料文⑵→天皇と太政官組織とが天皇主導のもとで連携していたことが分かる。
資料文⑶→太政大臣として行うべき職掌を明確化するところに摂政・関白が由来することを示唆するとともに,摂政・関白が(多くの貴族の支持を受けつつ)天皇の不適切な素行・判断を制御する役割を果たしていたことが分かる。言い換えれば,天皇個人の年齢や能力・性向に関わりなく天皇の権限を行使できるようサポートする役割を果たすのが摂政・関白であった(1995年第1問も参照のこと)。それゆえに,摂政・関白は「天皇との信頼感」のもと,天皇と一体となって国政を主導したのである。

次に,国政審議に対する「太政官や公卿の関与」について確認していこう。
太政官については,資料文⑵に天皇と連携したことが書かれているだけで,それ以上のことは資料文からは分からない。太政官は公卿と事務局(文書の作成・処理や先例の調査にあたる弁官・史・外記など)によって構成されていることを知っていれば,ここでは太政官の事務局をも念頭に置いていることに気づくかもしれない。しかし,その知識は高校日本史(山川『新日本史』には記載があるものの)では細かいうえ,事務局は審議の前提となる文書などを整えるにせよ,国政の審議そのものに携わるわけではない。また,設問Aで国政審議の構成員については公卿にしか触れなかった。したがって,資料文⑵をふまえ,太政官組織が蔵人頭や蔵人を介して(弁官のなかから蔵人頭や蔵人に特命で選任されることで)天皇と密接な関係をもちながら関わっていたことが分かれば十分である。
公卿については,資料文⑷で2点,指摘がある。
○位階の授与や任官の儀式は,天皇・摂関のもとで公卿も参加して行われた
→公卿…叙位・除目に関与(摂関とともに上級貴族が受領の任命,人事に関わっていたことは2010年第1問も参照のこと)
○受領は,任期終了後に受領功過定という公卿会議による審査を受けた
→公卿…受領(の勤務状況)の審査を合議
これらから,⑷の時期においても公卿が国政の審議に携わりつづけていることが分かる。
とはいえ,「摂政・関白が大きな権限を持」つことを明記しながら,それと対立的に「位階の授与や任官の儀式」「受領功過定という公卿会議による審査」が特記されている点に注目すれば,国政全般にわたって公卿が審議に関わっているとは限らない,あるいは,国政は摂政・関白が主導しているものの公卿の合議制が関わっている部分が少なからず残っている,ことを示唆しているとも判断できる。実際,中納言以上の公卿が宮廷行事の執行や諸官司・諸国からの報告・具申の決裁をそれぞれ単独で処理することはあったものの,日常的な政務についての合議制はなくなり,公卿の合議(陣定)は財政や外交などの重要事項に限られていた。


(解答例)
A太政官の公卿が国政を審議し,天皇の裁可を受けた。公卿には当初,有力氏族の氏上が就いたが,次第に官僚政治家が任じられた。(60字)
B天皇が太政官を統括して強い権力を握るとともに,摂政・関白のもと,天皇個人の能力に関わりなくその権限を行使できる体制が整っていた。天皇と摂関が一体となって太政官と連携しながら国政を主導し,公卿も受領の任命,審査など重要事項の合議に関与した。(120字)


【添削例】

≪最初の答案≫

Aヤマト政権時代に政治に参与した有力氏族の氏上が太政官の公卿として政治的決定を行い,天皇の裁可を受けた。

B天皇,摂関,太政官の公卿が協力して国政を運営し,摂関の影響力は大きかったが,国政の重要事項の決定は,公卿の合議を経て天皇の裁可により行われた。また,幼少の天皇を補佐する摂政や成人した天皇を補佐する関白は,天皇の権力行使を可能にした。

Aについて。
「ヤマト政権時代に政治に参与した有力氏族の……」とありますが,律令制が整いはじめる以前に「政治に参与した」有力氏族のすべての氏上が公卿になったと確証を持って答えることができますか?

そして,律令制は7世紀後半から少なくとも10世紀まで(学者によっては11世紀半ばまで)続きますが,その時代すべてにおいて,「ヤマト政権時代に政治に参与した有力氏族の氏上」が公卿に任じられ続けたのでしょうか?
奈良時代以降において公卿の構成に変化はないのですか?

Bについて。
「幼少の天皇を補佐する摂政や成人した天皇を補佐する関白は,天皇の権力行使を可能にした。」とありますが,
摂政は幼少の天皇のもとで天皇の権限を「代行」しますから,「天皇の権力行使を可能にした」との表現は成り立ちますが,関白は「補佐」にすぎませんから,関白が設置されていなくとも「天皇の権力行使」は可能です。
また,「摂関の影響力は大きかった」との表現では,「国政の審議」における摂関の関与がわかりません。
いずれにしても説明不足です。

ところで,資料文⑵と⑶は活用しましたか?

≪書き直し≫

A当初は有力氏族の氏上が就き,後に有能な官僚が就くようになった公卿が政治的決定を行い,天皇の裁可を受けた。

B幼少の天皇を補佐する摂政や成人した天皇を補佐する関白によって,天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となったが,位階の授与や任官,審査といった重要事項の決定では,天皇,摂関に加えて太政官も合議に参加した。

> A
> 公卿の構成の変化は、「後には官僚が任じられた」と考えました。
> B
> 資料(3)から、「摂関によって、天皇の性格や行政能力に関わらない国政運営が可能となった」と考え、
> 「国政の審議」への関与については、「天皇、太政官とともに合議に参加した」としました。
> 資料(2)の使い方がよくわからないのでご教示ください。

Aについて。
内容としては問題ないのですが,「公卿」を説明する部分が長すぎです。英語の関係代名詞節みたいで,読みにくいです。

Bについて。
「太政官も合議に参加した」とありますが,太政官は行政機構なので「合議に参加」することはできません。参加するのは「太政官の公卿」ではありませんか。

ところで,資料文⑵の使い方がよくわからないとのことですが,
「摂政や…関白によって,天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となった」という説明がなぜ必要なのかを考えてみましたか?
単に資料文⑶を活用しなければならないと思ったからですか?
それもあるでしょうが,「⑷の時期」とは摂関政治の時期であり,その意味で,摂政・関白の国政運営上での役割を考えたわけですよね?では,なぜ「天皇の性格や行政能力に関わらず」という部分が国政運営上,問題となるのでしょうか。
もう一つ考えたいのは,設問文で「太政官や公卿」と書かれている点です。この表記から分かるように,「太政官」とは「公卿」と異なるものですよね。しかし公卿は「太政官」の公卿です。つまり,太政官には公卿以外の構成員が存在していることに気づきませんか?

こうしたことがらを手がかりとして資料文⑵を考えてみてください。

≪書き直し3回目≫

A公卿が政治的決定を行い,天皇の裁可を受けた。公卿は,当初,有力氏族の氏上が就き,後に有能な官僚が就くようになった。

B天皇主導の下,天皇と太政官組織が連携し,天皇が強い権力を握る中,摂関によって天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となり,天皇はその権力を行使可能となった。重要事項の決定では,天皇,摂関に加えて太政官の公卿も合議に参加した。

> A
> 公卿の説明を後半に移動しました。
> B
> 資料(2)は、「天皇が太政官組織を主導して、天皇権力を強めた」ということでしょうか。
> また、摂政が天皇の性格や行政能力に関わらない国政運営を可能にしたことで「天皇が権力行使を可能になった」ということでしょうか。

AはOKです。

Bについて。
「天皇主導の下,天皇と太政官組織が連携し,天皇が強い権力を握る中,摂関によって天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となり」の部分はOKです。
蔵人頭や蔵人には,たとえば太政官の事務局である弁官の官人(大弁など)が任じられており,天皇は貴族を超えて(あるいは抑えて)太政官の事務局との連携を確保できる体制にありました。これが「天皇と太政官組織が連携し,天皇が強い権力を握」ったことです。
そのうえで,天皇の権限行使に摂政・関白が関与したことによって,天皇の資質・能力や年齢にかかわらず,天皇の権限が公正・適正に行使できる態勢が整います。
このことは,資料文⑶に基づけば,貴族層による天皇に対する制限といえます。つまり,太政大臣(天皇の師範となる有徳者が就く)が貴族層(の多く)を代表して天皇の権限を制御できるよう,太政大臣の職務内容を明確化し,さらに拡張する形で摂政・関白が登場したと解釈することができます。
ですから,「天皇はその権力を行使可能となった」との表現は適切ではありません。表現を再考してみましょう。

なお,このように摂政・関白は天皇の権力行使を制御しつつ「大きな権限」(資料文⑷)を握ったわけですが,しかし,重要な国政事項については公卿による合議を基礎とする体制になっていました。つまり,天皇と摂政・関白,そして太政官の公卿がバランスをとりながら協力して国政を運営していたのが摂関政治だったと言えるのです。

≪書き直し4回目≫

B天皇主導の下で天皇と太政官組織が連携し天皇が強い権力を握る中,摂関は天皇権力を制御して天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となり,天皇の権限は適切に行使された。重要事項の決定では,天皇,摂関に加えて太政官の公卿も合議に参加した。

「天皇の権限は適切に行使された」との表現で間違っていないのですが,この表現で「国政の審議」がどのように行われたのかが説明できているでしょうか。
その点をふまえ,もう一度考えてみてください。

≪書き直し5回目≫

B天皇と太政官組織が連携し天皇が強い権力を握る中,摂関は天皇権力を制御して天皇の性格や行政能力に関わらず国政運営が可能となり,天皇は摂関と一体となって権力を適切に行使した。重要事項の決定では,天皇,摂関に加えて太政官の公卿も合議に参加した。

第1文は,内容的には「天皇」を主題にした文章となっていますから,「摂関は天皇権力を制御して」の部分を「摂関が天皇権力を制御して」とするほうが適切です。
そして,「天皇は摂関と一体となって権力を適切に行使した」と表現していますが,「国政の審議」が問われているのですから,「天皇は摂関と一体となって国政の審議に関わった」,あるいは「天皇と摂関が一体となって国政の審議に関わった」と表現するほうが適切です。

とはいえ,基本的にはOKです。