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年度 2015年

設問番号 第1問

テーマ 神仏習合/古代


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問われているのは,在来の神々への信仰と仏教との共存が可能となった理由。

共存とは,異質なものが衝突することなく同じ場所に存在することなので,在来の神々への信仰と仏教との間には,お互いを受け入れる要素・余地がある,ということになる。したがって,在来の神々への信仰と仏教のぞれぞれについて,他方を受け入れる余地,あるいは,共通している・類似していることがらを考えていくとよい。
資料文を見ると,⑶が氏寺(仏教)と氏神(在来の神々への信仰)の共存している状態を示しているので,それよりも前の時代を扱っている⑴と⑵を主な素材として考えていこう。

まず⑴について。
○「神体である三輪山」→山を神として祭る
ここから,在来の神々への信仰とは,自然崇拝(山や岩など自然物に霊魂が宿ると考えるアニミズム)であること,自然崇拝に由来することが分かる。
○「のちに(中略)建てられた社殿は礼拝のための施設」→社殿は「のちに」建てられたものでしかなく,元来は,そうした施設そのものが存在しない。
ここから,神々への信仰は元来,礼拝のための作法や教義は存在せず,それらは後から付けられたものであること,いいかえれば,融通無碍であることが分かる。

ここでもう一つ,⑶の「氏神である春日神」との表現に着目してもよい。
氏神とは,氏をまもる守護神,氏が祖先とあおぐ神であり,自然物が神々として神格化され,それが祖先神とみなされた。

次に⑵について。
○「塔の下には,勾玉や武具など(中略)が埋納されていた」
○塔の下に埋納された品々=「古墳の副葬品と同様の品々」
ここで考えたいのは,寺院における塔とはどのような役割を果たすものなのかである。
仏教では,仏舎利(釈迦の遺骨)や仏像が礼拝の対象となり,仏舎利を安置する建物として塔が建てられていた(このことは京大の語句記述問題で問われたことがある〔2014〕)。そして,日本最初の本格的な寺院とされる飛鳥寺は,塔を中心としてその周りに3つの金堂を並べる伽藍配置がとられており,当初は仏舎利(釈迦の遺骨)が主な礼拝の対象であったこと,仏舎利への信仰が中心であったことが分かる。(しばらくして,舒明天皇の百済大寺や再建後の法隆寺のように,塔<仏舎利>と金堂<仏像>を並列する伽藍配置が出現する。)
一方,仏舎利を納める塔の下(心礎)に「古墳の副葬品と同様の品々」が納められていたことは,古墳での死者(前の首長)への葬送儀礼と同様の行為が行われたことを意味する。つまり,寺院における仏舎利(釈迦の遺骨)への礼拝が,古墳での葬送祭祀に類似するものとして受容されていることが分かる。
なぜ,そのような受容が可能だったのか。
ここで想起したいのは,氏寺が祖先(死者)の冥福を祈り,供養する(祖霊追善)という役割をもち,一族の政治的結集の場としての意味も持っていたこと,である。つまり,寺院を建立して仏舎利を祭ることが祖先を供養することにつながる,という点である。それゆえ,仏教は古墳での死者の葬送祭祀を代替することとなった。
ところで,古墳における葬送祭祀は(祖先としてつながる)個別の死者への葬送・供養のための行為であり,氏神(祖先とあおぐ神)を祭ることとは異なる。つまり,古墳での葬送祭祀は神々への信仰とは別次元の行為である。したがって,古墳の造成に代わるものとしての寺院の建立=仏教の受容は,十分に神々への信仰と共存し得る。神々を(氏神として)祭りつつ,古墳を造成して個々の死者(祖先)を葬送・供養していたのが,神々を氏神として祭りつつ,氏寺として寺院を建立して祖先を供養するというあり方へ変化した,と考えることができるのだから。

なお,宗像神社の沖津宮である沖ノ島(福岡県)では,4世紀後半〜7世紀の祭祀遺跡から古墳の副葬品と同様の品々が発見されており,資料文⑵にある「古墳」との表現にこだわる必要はないとも言える。つまり,仏教のもつ仏舎利への信仰という性格は,山や岩など自然物を霊魂が宿る存在として祭る,在来の神々への信仰と親和的な「異国の神への信仰」としての扱いを可能とした。
別解はこの視点からの解答例だが,沖ノ島遺跡についての知識は教科書レベルではないので,このように考えなければならないわけではない。


問われているのは,奈良時代から平安時代前期にかけて,神々への信仰は仏教の影響を受けてどのように展開したのか。

さて,資料文では⑷〜⑹が神々への信仰の展開について説明してある。
⑷ 奈良時代前期…神宮寺の建立,神前読経
⑸ 平安時代前期…神像彫刻の作成
⑹ 平安時代中期…本地垂迹説の広まり
これらが仏教の影響を受けたものであることを説明していけばよい。ただし,神々への信仰と仏教の関係ではなく,神々への信仰の展開が主題となっている点に注意しよう。
まず,神宮寺の建立や神前読経。
これは神仏習合が始まっていることを示すもので,ともに,神々は仏教による救済を求めているとする中国伝来の神仏習合思想に基づくものである。
次に,神像彫刻の作成。
「僧の姿をし」ていることは,これまた,神々が仏教による救済を求めている姿だとされる。
とはいえ,神々はもともと山や岩など自然物に宿った霊魂であったのに対し,偶像として造形されるようになった点に,まずもって変化を見ておきたい。仏教における仏像彫刻と仏像への礼拝からの影響である。さらに,神仏習合が進み,神々が護法善神(仏教の守護神)として仏教に取り込まれていくなか,さまざまな階層のある仏の一つ(菩薩や天など)として位置づけられるようになった状況を見たい。こうしたなかで,神々と仏を同体とする考えが生じるのであり,それを基礎として神々を仏の仮の姿と考える本地垂迹説が登場するにいたるのだから。

ところで,本地垂迹説の広まりは,資料文⑹によれば,平安時代中期である。しかし,設問での時期設定は「平安時代前期」までである(トラップ!?)。
したがって,答案のなかに「本地垂迹説が広まった」ことを書くわけにはいかない。では,「本地垂迹説が生まれた(形成された)」ならいいではないか,とも思わなくはないが,やや詭弁に近い。
というわけで,本地垂迹説の形成・普及が神々への信仰にとってどういう事態をもたらすのか,その趨勢を表現して答案を〆るのがよいだろう。
神々への信仰は,設問Aで確認したように,自然崇拝に由来するもので,教義や体系的な理論を持ち合わせてはいなかった。ところが,神々が仏教に取り込まれ,仏と同体とされ,さらに個々に本地とされる仏が設定されると,仏教の体系的・普遍的な理論のなかで神々が体系的に語られるようになる。その結果,のちには本地垂迹説に立つ両部神道や反本地垂迹説の伊勢神道などが登場する。つまり,神仏を同体とする考えは,神々への信仰が体系化,理論化される前提となった。

なお,資料文⑴で社殿(礼拝のための施設)が触れられているものの,社殿がいつ建てられたのかは高校教科書レベルでは知識がないし,資料文⑴からも不明である。つまり,社殿の建立に仏教が影響しているのかどうかは不明である。したがって,社殿の成立を答案のなかに含む必要はない。もちろん,仏教の影響とする考え方もあるので答案のなかに含めても構わないが。


(解答例)
A神々への信仰は自然崇拝に由来して元来,融通無碍である一方,仏教のもつ祖先供養の呪術は古墳での死者の葬送祭祀を代替した。(60字)
(別解1)A神々への信仰は自然崇拝に由来して元来,融通無碍であり,仏舎利への信仰を中心とする仏教は当初,異国の神として受容された。(60字)
(別解2)A豪族は,アニミズムに由来する神々への信仰を引き継ぎ,氏神として祀る一方,古墳での死者の供養に代えて仏教を受け入れた。(59字)
B奈良時代には,神々は仏教による救済を求めているとするなどの神仏習合思想が浸透し,神宮寺の建立,神前読経などが行われた。平安時代前期には,神々の偶像化が進んで神々と仏を同体とする考えも生じ,神々への信仰が仏教の教義を借りて体系化され始めた。(120字)
(別解)B奈良時代には,神々は仏教を守る護法善神であるとするなどの神仏習合思想が浸透し,神宮寺の建立,神前読経などが行われた。平安時代前期には,神々の偶像化が進んで神々と仏を同体とする考えも生じ,神々への信仰が仏教の教義を借りて体系化され始めた。(119字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A神々への信仰は自然崇拝から発展した自由度の高い柔軟なもので一方で仏教は寺院が古墳に代わって祖先の埋葬に使用された。

B奈良時代には神宮寺の建立や神前読経が行われるなど神仏習合が進み、平安時代前期には僧形八幡神像がつくられ神と仏の一体化が図られたり、神は仏が仮の姿を現したものだとする本地垂迹説も生まれるなどより一層神仏習合は進み、仏教の下に組み入れられた。

Aについて。
前半はOKですが、寺院は「祖先の埋葬」に使用されるものではありません。
6~7世紀段階ではまだ古墳が祖先を埋葬する施設です。たとえば、飛鳥にある石舞台古墳は、飛鳥寺(資料文⑵)を建立した蘇我馬子の墓とされます。
ですので、異なった機能を考えてみましょう。

Bについて。
神々への信仰の展開を説明しましたか?
末尾の「仏教の下に組み入れられた」は、確かに神々への信仰を主語(主題)とした表現です。しかし、それ以外の文章は神々への信仰と仏教との関係についての説明になっていませんか?
これでは設問の要求に適格に応えた形になっていません。構成し直しましょう。

なお、僧形八幡神像について「神と仏の一体化」と評価するのは適当ではありません。僧侶の姿をしているものの神像彫刻ですから。
ところで、神々への信仰が自然崇拝から発展したとするならば、神々は姿をもつものだったのでしょうか?どう思いますか?

≪書き直し≫

A神々への信仰は自然崇拝に由来した自由度の高い柔軟なもので、一方で仏教の寺院が古墳に代わって祖先崇拝や祭祀に用いられた。

B奈良時代には神宮寺の建立や神前読経が行われ神々への信仰に仏教が浸透し始め神仏習合が進んだ。平安時代前期には僧形八幡神像が作られ神が偶像化され、神々と仏を同一とみなすことで本来見えない神々が仏の力で具現化されるなど仏教の下に組み入れられた。

> A
> 寺院は「祖先崇拝や祭祀に利用された」と考えました。
> B
> 全体を「神々の信仰」について述べたものになるように構成し直したつもりです。
> 僧形神像は「神の偶像化」と考え、本地垂迹説の部分を「本来姿の見えない神々が、神と仏を同一視することで仏の力で具現化された」としました。

A・BともにOKです。