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年度 2017年

設問番号 第4問

テーマ 大正〜昭和初期の陸海軍と政党政治/近代


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問われているのは,2個師団増設をめぐる問題が政党政治に与えた影響。
2個師団増設をめぐる問題と聞けば,すぐに第2次西園寺公望内閣を総辞職に導いた問題と思いがちだが,掲げられた年表には,第2次大隈重信内閣によって2個師団増設が実現したことまで触れてある。つまり,この設問でいう「2個師団増設をめぐる問題」とは,第2次西園寺内閣から第2次大隈内閣までいたる問題として考えておくのが妥当である。
次に「政党政治」とは何かを確認しよう。
政党政治とは,政党が主導する政治,いいかえれば,政党が主体となって内閣を組織し,主導する政治を指す。立憲政友会の原敬内閣を端緒とし,憲政の常道期において行われた政治のあり方である。つまり,2個師団増設をめぐる問題が政治上の大きな争点となっている時期は,まだ政党政治の時代ではない。このことを念頭におきながら「政党政治に与えた影響」を考えていこう。

では,2個師団増設をめぐる問題の経緯を,年表を補いながら,簡単に確認しておく。
山県有朋と陸軍が,辛亥革命をうけて陸軍2個師団の増設を第2次西園寺公望内閣に要求
→陸軍2個師団増設を拒否されたことで上原勇作陸相が辞職
→軍部大臣現役武官制により第2次西園寺内閣が総辞職
桂太郎が元老会議により首相に推挙され,第3次内閣を組織
→桂首相は組閣にあたり元老政治から脱却(決別)する姿勢を示す
 :『詳説日本史』の2013年の改定で掲載史料が差し替えられた箇所
→第1次護憲運動が高まり,政府を批判する都市民衆騒擾につながる
→桂首相が非政友会系の新党組織に着手するも,多数派の形成に失敗
→大正政変=第3次桂内閣が総辞職
海軍・薩摩閥の山本権兵衛が立憲政友会を与党として内閣を組織
→軍部大臣現役武官制を改正し,陸海相の任用資格から現役規定を削除
→ジーメンス事件(海軍高官の収賄事件)が発覚して都市民衆の抗議行動が高まり,内閣総辞職
元老山県・井上馨らが大隈重信を首相に推挙=民衆や言論界からの支持を期待
→大隈重信が立憲同志会(もと桂新党)などを与党として内閣を組織
→1915年の総選挙で与党が政友会に圧勝
→陸軍2個師団増設が実現

ここからうかがえるのは,
(第1次護憲運動など)都市民衆騒擾が頻繁におこっていること
そのなかで軍部大臣現役武官制が改正されたこと
藩閥勢力も民衆(や言論界)からの支持を意識し,政党の協力を得ないと内閣組織が難しくなったこと
陸軍・長州閥の長老とも言える桂太郎が元老政治と決別して自ら政党の結成に着手し(桂の死後に正式結党),その政党を与党とする内閣が成立し,衆議院で第1党の地位を確保するにいたっていること

ここで留意したいのは,まず第一に,問題文に「内閣に対する軍部の自立性も強かった」と書かれている点である。
内閣に対する軍部(陸海軍)の自立性が強かった根拠の一つは,軍部大臣現役武官制にあった。ところが,これが改正されたことにより,軍部(陸海軍)の内閣に対する自立性が後退することになる。当時,陸軍は山県閥,海軍は薩摩閥のもとにあり,藩閥を構成する政治勢力であったため,内閣に対する藩閥の影響力が後退することをも意味した。そして,代わって政党の陸海軍に対する影響力を拡大することになった。
第二に,2008年第4問(原敬内閣がのちの「憲政の常道」の慣行につながる本格的な政党内閣となった理由・背景を問うた問題)との関連である。
2008年第4問は,米騒動という全国的な民衆騒擾の高まりのなかで,元老や官僚勢力が政党の政治的・社会的な統合力に期待をかけたことで政党が本格的に内閣を担う時代がはじまったことを問うた問題であった。第1次護憲運動は「民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例」(実教『日本史B』)であり,共通点をみるのは難しくないだろう。政府を批判する都市民衆騒擾(都市民衆の抗議行動)が内閣を倒す要因となるなか,政党の内閣に対する影響力・発言力が強まったのである。
そして第三に,桂新党にも注目したい。
桂太郎が自ら結成に着手した政党は,彼の没後に立憲同志会として正式に発足し,第2次大隈重信内閣の与党となる。そして,1915年の総選挙で立憲政友会を抑えて衆議院第1党の地位を確保する。それまでの政友会と藩閥官僚による政治支配に代わり,官僚勢力を含めて組織された複数政党が対抗しあいながら政権を担当する複数政党制(あるいは二大政党制)が成立する可能性が示されたと言える。憲政の常道につながる事態である。
これらの内容をまとめればよい。


問われているのは,①浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約の成立を推進した背景,②この方針に対する国内での反応。

まず,①について。
掲載されている年表では,浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約締結だけでなく,高橋是清内閣がワシントン会議に参加し,四カ国条約や海軍軍縮条約,九カ国条約を締結したことも記されいる。この点を念頭におけば,条約成立を推進した背景としてワシントン会議以降の国際情勢,国際協調と軍縮の動きをまずあげることができる。
そのうえで,浜口内閣が金輸出解禁を実施したことにも留意したい。この時の金輸出解禁は旧平価で断行されたため,実質的な円切上げをともない,国内経済に深刻なデフレをひき起こしていた。そこで浜口内閣は,解禁実施前から産業合理化の推進を勧めるとともに,財政緊縮の方針を掲げて歳出の抑制をはかっていた。そして海軍軍縮の実現は,その財政緊縮の一環と位置づけられていた。

次に,②について。
浜口内閣は,補助艦艇保有量の対米7割が確保できないまま,ロンドン海軍軍縮条約の調印に踏みきったが,その際,海軍軍令部長の反対をおしきっていた。このため,海軍軍令部長の反対をおしきって内閣が兵力量を決定したのは統帥権の干犯にあたるとして,野党の立憲政友会や海軍の一部などから批判をあび,そのなかで浜口首相が狙撃される事件を招いた。統帥権干犯問題である。

以上のことがらをコンパクトにまとめればよい。


(解答例)
A都市民衆の抗議行動を招いて軍部の自立性が後退し,政党の影響力が強まる契機となったうえ,桂太郎が元老政治と決別して政党結成に着手し,政権を担いうる政党が複数並び立つ出発点となった。(90字)
Bワシントン会議以降,国際協調・軍縮の動きが国際的に進展していたうえ,金輸出解禁にともない財政を緊縮する必要があった。立憲政友会や海軍の一部が締結に反発し,統帥権干犯問題が生じた。(90字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A民衆を巻き込んだ第一次護憲運動が起き,対抗して立憲同志会を結成した桂太郎は大正政変で失脚した。以後政党の力が強くなり,組閣には政党の支持が必要となり,憲政の常道の時代となった。

B幣原喜重郎外相による米・英との協調外交が進められ,金輸出解禁に伴う緊縮財政が必要となり推進された。国内では,兵力量決定は統帥権の干犯にあたるとして海軍軍令部や野党の批判を受けた。

Aについて。
「立憲同志会」をなぜ答案に書き込んだのですか?君の答案だと書き込む必然性が判断できません。

「組閣には政党の支持が必要となり」という部分は,年表では具体的にどこを参照した表現ですか?

ちなみに,「憲政の常道」とは政党内閣が継続して組織される時代であり,単に組閣に政党の支持が必要となった時代のことではありません。ですから,「組閣には政党の支持が必要となり,憲政の常道の時代となった。」との説明には論理の飛躍があります。

ところで,もし『詳説日本史B』(山川)を使っているのなら,第一次護憲運動のところに掲載されている史料を見てください。その史料と第一次護憲運動や大正政変とはどういう関連があると思いますか?考えてみてください。

Bについて。
前半はOKですが,
「兵力量決定は統帥権の干犯にあたる」との表現は不十分,説明不足です。そもそも「兵力量決定」は編制権ですから。

≪書き直し≫

A護憲運動による軍部出身者の内閣の退陣、山本権兵衛内閣の政党の影響力拡大を図る政策で軍部の自立性が弱まり、桂太郎は元老政治からの脱却のための新党結成を図り、複数政党制の端緒となった。

B幣原外相の対米・英協調外交、金輸出解禁に伴う緊縮財政のために推進された。国内では、立憲政友会や海軍軍令部が、統帥権を拡大解釈し、兵力量決定の条約締結を統帥権干犯だとして批判した。

> 質問に回答します。
> 立憲同志会を書いたのは、設問から、政党名を挙げた方がよいと判断したからです。しかし立憲同志会の結成は桂の死後だと教科書を読むと書いてあり、史実としてあやまっていることに気が付きました。「組閣に政党の支持が必要だった」については、年表中の1915年の部分から判断しました。しかし、「組閣には」 の部分が不適切でした。次に、教科書の資料からは、桂が元老政治からの脱却を図ったことが読み取れました。護憲運動、大正政変との関係は、護憲運動を機に桂は元老政治の脱却を図り、政党結成を試みたが、大正政変で失敗した,だと思います。

Aについて。
「護憲運動による軍部出身者の内閣の退陣」
この部分は必ずしも間違いではありませんが、桂太郎は当時、現役軍人を退いており、かつ組閣の時点で内閣中心の政治、そのための政党の結成を構想しており、第1次・第2次内閣の時とは異なりますので、「軍部出身者の内閣」と書くのは必ずしも適切ではありません。
ここは、護憲運動により軍部大臣現役武官制が改正されて軍部の自立性が弱まったことが書けていれば、それで問題ありません。

後半部は何の問題もありません。

というわけで、OKです。

ところで,前回に書いた質問についてです。
まず
> 「立憲同志会」をなぜ答案に書き込んだのですか?
という質問を書いたのは、
君の最初の答案では、
「立憲同志会を結成した桂太郎は大正政変で失脚した。以後政党の力が強くなり」
とあって、立憲同志会の結成を書き込む必要が文脈から読み取れなかったからです。
そもそも政党結成に乗り出した人物が失脚したと書いたにも関わらず「以後政党の力が強くなり」では意味が通じませんから。
なお、大正政変で第3次桂内閣は総辞職しますが、だからと言って桂太郎が「失脚した」わけではありません。政変後に急死していなければ、政権担当者として復活した可能性は否定できません。そもそも立憲同志会の初代総裁になったでしょうし、第2次大隈重信内閣が立憲同志会を与党として成立することもなかったでしょう。

次に「組閣には政党の支持が必要となり」の部分への質問についてです。
1915年の部分から判断したのだろうと想像していましたが、そのことと政党政治との関係をどのように考えましたか?
組閣に政党の支持が必要となったとしても、政党政治が展開するとは限りませんからね。

> 護憲運動、大正政変との関係は、護憲運動を機に桂は元老政治の脱却を図り、政党結成を試みたが、大正政変で失敗した,だと思います。 確かに桂個人からすれば「失敗した」のかもしれませんが、
桂のような人物がそのようなことを意図し、実行に移したことが政党政治の形成に繋がった、とも評価できます。

BはOKです。