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年度 2018年

設問番号 第1問

テーマ 藤原京の特徴/古代


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問われているのは,それまでの大王の王宮のあり方と比べて,藤原京ではどのような変化が起きたのか。
律令制の確立過程における藤原京の歴史的意義にふれることが条件づけられている。

まず,それまでの大王の王宮がどのようなあり方をしていたのかを確認しておく。
もともと大王宮は,大王の邸宅であり,大王の代替わりごとに移っていた。そこでは,有力な王族や大臣・大夫に任じられた中央有力豪族が集まって政務を協議されていた。しかし,朝廷のさまざまな職務は有力な王族や中央有力豪族の邸宅に分散し,そこに伴造を務める中央中小豪族や地方豪族らが出仕して世襲で分担されていた。
その後,推古天皇の小墾田宮以降,大王宮には大王の邸宅だけでなく官人が集まる朝堂・朝庭が設けられる。大化の改新では大王宮が飛鳥から難波に移され,朝堂院や官庁(官衙)などが設けられた大規模な宮(難波長柄豊碕宮)が建設され,朝廷の職務を大王宮の周囲に集中させようとする動きが進んだ(京域を計画的に開発する動きが着手されていたとされるが,孝徳天皇の死去により王宮は飛鳥に戻り,京域の建設は未完に終わる)。このように推古朝以降,大王宮のあり方に少しずつ変化が生じたものの,大王の代替わりによって移転することに変わりはなかった。
それに対して藤原京は,それまでの大王宮とは異なり,問題文にも記されているように,初めて都城制を採用した宮都である。
一方,藤原京では天皇の邸宅(内裏)を中心として荘厳な宮城(宮)が建設された。政務や儀式を行う朝堂院,儀式の際に天皇が出場する大極殿を設けるとともに,朝廷のさまざまな職務を分担する官庁などを集中させた。さらに,宮城の周囲には京が設けられ,条坊制に基づいて東西・南北の道路によって整然と区画された。寺院や市が整えられるとともに,王族や豪族らに邸宅が支給され,彼らの集住が進められた。こうして天皇権威が荘厳に誇示されるとともに,官庁と王族・豪族らの邸宅が分離されることを通じて官僚制の整備が進められた。そのうえで,王族や豪族らが能力などに応じて一人ひとり天皇から位階を授けられ,位階に応じた官職に任じられ,宮城にある官庁に勤務する体制が整えられていく。
さらに,藤原京は三代の天皇の宮都とされた。天武天皇により建設が始められ,持統天皇のもとで遷都したあと,文武天皇へと代替わりした際にも宮都として継承された。この点が藤原京のもう一つの新しさである。諸官庁を含む荘厳な宮城(宮)が設けられるようになれば,宮都が一定期間固定されるのも当然のことである。
このように藤原京は,律令制の確立過程において官僚制の整備,言いかえれば氏族制から官僚制への転換を促進するという歴史的意義をもった。


(解答例)
それまでの大王宮は代替わりごとに移った上,朝廷の職務は有力な王族や中央有力豪族の邸宅に分散していた。それに対して藤原京は,天皇の住む宮のなかに政務や儀式を行う大極殿・朝堂院,朝廷の職務を担う官庁を設けると共に,宮の周囲に条坊制に基づく京を設けて王族や豪族らを集住させ,三代の天皇の宮都とされた。こうして藤原京は,氏族制から官僚制への転換を推進する意義をもった。(180字)
(別解) それまでの大王宮は代替わりごとに移ったうえ,さまざまな職務は有力な王族や中央有力豪族の邸宅に分散していた。それに対して藤原京は,天皇の住む宮城のなかに政務や儀式を行う朝堂院・大極殿,さまざまな職務を担う官庁を整えるとともに,宮城の周囲に条坊制に基づく京を設けて王族や豪族らを集住させた。そして三代の天皇の宮都とされ,藤原京は官僚制の整備を推進する意義をもった。(180字)


【添削例】

≪最初の答案≫

歴代遷宮であった大王宮が固定された本格的な都城であり、唐の長安にならって条坊制により京域を碁盤の目状に区画化し、以前までは京域外に築かれていた官僚の邸宅を官僚制の整備に伴い京域内に設け、官僚を集住させ宮城内に設けた諸官庁や朝堂院で政務にあたらせた。また宮城内には大極殿が儀式の場として設けられた。こうして藤原京は中央集権国家の象徴とされた。

答案を読む限り、都城がどのような形態をもつものなのかを理解できていないように思えます。

まず、
> 歴代遷宮であった大王宮が固定された本格的な都城
という文章を見ると、大王宮=都城と理解しているように思えます。
それを証し立てるかのように、都城が宮城と京とによって構成されていることが明記されていません。

以前の大王宮に相当するのが宮城であり、宮城のまわりに京を設ける都市形態を都城(都城制)と言います。
そして、藤原京は宮城のまわりに条坊制によって区画された京を設けた、その意味で本格的な都城の最初です。
この点を明確に表現して欲しかったところです。

> 唐の長安にならって
どこで仕入れた知識でしょうか。
藤原京は中国の都城制に基づきますが、唐の長安を模倣したものではありません。教科書を正確に読んでください。

> 以前までは京域外に築かれていた官僚の邸宅
と書いていますが、藤原京以前にも「京域」をもつ都があったことを知っていますか?
もちろん、斉明天皇から天武天皇の頃、大王宮の置かれた飛鳥に京域が存在したとされますから(ただし条坊制に基づく計画的な区画は行われていないとされます)、藤原京以前に「京域」があったと表現することは、厳密に言えば、問題ではありません。
しかし、飛鳥に実質的に成立した京域には豪族が集住していました。「以前までは京域外に築かれていた官僚の邸宅」との認識は誤りです。
そもそも、大王宮のまわりに設けられた京は、豪族らに邸宅を支給して集住させることを目的の一つとしています。そして、京に集住させられた豪族らは、大王宮(→宮城)に設けられた大極殿・朝堂院や諸官庁に勤務し、そこで職務にあたります。都城の整備と官僚制の成立とは不可分なのです。

> 宮城内に設けた諸官庁や朝堂院で政務にあたらせた。また宮城内には大極殿が儀式の場として設けられた。
なぜ宮城の説明をまとめて行わなかったのですか?
「また」という接続表現を使っているところは、前後の関連づけがうまくできず、しかし「大極殿」という指定語句を使うために取ってつけたように文章を追加したようにしか読めません。

> こうして藤原京は中央集権国家の象徴とされた。
「こうして」との表現は説明不足です。それまでの説明のどこが「中央集権」にあたるのかが不明確ですから。官僚制の整備と中央集権国家の形成とを関連づけて表現しましょう。
そもそも官僚制が整うとはどういうことなのでしょうか?理解できていますか?

≪書き直し≫

それまでは天皇ごとに大王宮を移し,有力豪族や王族が邸宅で職務にあたっていたが,藤原京では天皇の住居のある大王宮の内部に天皇を権威付けるための儀式を行う朝堂院や政務を行う大極殿,役人が職務にあたる諸官庁が置かれた。宮の周囲には条坊制により区画された京を設け,豪族を集住させた。三代の天皇によって都として使用された藤原京は氏族制から官僚制への転換という意義を持つ。

朝堂院と大極殿の役割が逆です。
朝堂院はもともと政務を行うのが中心で、大極殿は国家的な儀式が行われる場です。もちろん、のちには朝堂院も儀式の場になってしまいますが、藤原京では政務の場として機能しています。

あとはOKです。