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年度 1976年

設問番号 第1問

テーマ 古墳・古代寺院の造立とその背景/古代


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(A)
設問の要求は,豪族や大王(天皇)などの墳墓として巨大な古墳が築造されるようになった理由。

この設問は,次の2つの内容を含んでいる。
(1)なぜ古墳が築造されたか,つまり豪族や大王の墳墓が「古墳」という形態をとったのはなぜか。そして,(2)なぜ「巨大な」古墳が築造されたか,つまり豪族や大王の墳墓が巨大化したのはなぜか。

(1)について。
「古墳」=墳墓という判断からは意味のない問いのように見えるが,一般には「古墳」は弥生期の墳丘墓などの首長墓とは別の,古墳文化に特有の概念として使われている。たとえば『詳解日本史』三省堂では,「古墳は弥生時代の首長墓にくらべ,はるかに壮大な墳丘をもち,特定の個人を埋葬する墓であった」と表現しており,首長のための墳墓の1つの類型として弥生墳丘墓があり,別の類型として古墳があるのである。

では,なぜ「古墳」が築造されたのか。『詳説日本史』山川では次のように説明してある。「古墳は各地の首長たちの共通の墓制としてつくりだされたものであり,その背景には古墳の出現にさきだって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。」

(2)について。
巨大化した古墳を築造するには進んだ土木技術と多くの労働力を駆使することが必要であり,豪族がそれを可能とするほどの強大な権力をにぎったこと,弥生時代に比べると豪族の支配者的性格がより強くなったことを示している。

(B)
設問の要求は,(1)東大寺,(2)平等院鳳凰堂がそれぞれつくられた事情。

(1)東大寺について。
リード文では「東大寺の大仏」の造立が記されているので,ここで求められている「東大寺」がつくられた事情についても,東大寺大仏に引きつける形で説明していくとよい(大仏は東大寺金堂の本尊である)。そして,東大寺の大仏が造立されるきっかけとなったのは大仏造立の詔(743年)であるから,その詔が発された事情を中心として説明していけばよい。
大仏造立の詔が発されたのは聖武天皇の時代だが,その頃は疫病や飢饉が相次いで社会不安が広がっており,さらに740年に発生した藤原広嗣の乱は朝廷に深刻な動揺を与えた。それに対して聖武天皇は,仏教の鎮護国家思想にもとづいて国家の安泰を保とうと,741年には国分寺建立の詔を発し,743年に盧舎那大仏造立の詔を発した。盧舎那大仏の造立は当初,紫香楽宮で進められたが,745年平城京に還都にともない,その郊外で再開された。そして,752年開眼供養が行われ,完成した。これが東大寺大仏である。

(2)平等院鳳凰堂について。
平等院鳳凰堂は,藤原頼通が宇治の別荘を阿弥陀堂としたもので,浄土教の貴族への広まりを示す一例であるから,浄土教が貴族の間に広まっていった事情について説明すればよい。
浄土教は死後(来世)の極楽浄土への往生を約束する阿弥陀仏への信仰であり,この信仰そのものは平安初期から存在していた。ところが10世紀以降,律令制度の崩壊,地方支配体制の転換という情勢のなか,京・地方を問わず盗賊など暴力が蔓延し,災厄がしきりに起こって社会不安が広がる一方,末法思想の流行にともなって貴族の間に精神的不安感が高まっていた。そうした現世への不安から来世での幸福を希求する浄土教が貴族・庶民を問わず普及していたのである。

(D)
設問の要求は,(イ)の時期=東大寺大仏の造営期から(ウ)の時期=平等院鳳凰堂の造営期までのあいだに,貴族の経済的な基盤はどのように変化したか。
条件として,寄進地系荘園,調・庸,浮浪,禄の4つの語句を用いることが求められている。

まず,指定語句が何に関する,あるいは,いつの時期の語句なのかを確認しよう。
「調・庸」と「禄」→律令制度
「浮浪」→律令制度の解体期
「寄進地系荘園」→平安時代後期

次に,それぞれの時期がどういう支配体制のもとにあったかを確認しよう。
(イ)の時期=東大寺大仏の造営期は律令制度の展開期であるが,大仏造立の詔と同じ年,墾田永年私財法が定められて大土地所有が公認され,それ以降,貴族・寺社による初期荘園の形成が進むとともに,地域社会では農民の階層分化がいっそう進展していた時期,つまり律令制度の動揺期である。

律令制度のもとでは公地公民の原則が掲げられていたため,貴族は土地・人民に対する私的支配(大土地所有)を原則として否定され,位階・官職にもとづいて朝廷から給付される田地や封戸,禄をその経済基盤としていた。
ところが,墾田永年私財法以降,国司・郡司の協力を背景としながら各地で墾田の開発や買得を進めて荘園(初期荘園=墾田地系荘園)を集積し,1つの経済基盤としていった。

(ウ)の時期=平等院鳳凰堂の造営期は,10世紀における律令制度の解体をうけ,それにかわる新しい社会システムとして荘園公領制の形成が始まった頃である。

律令制度の解体にともない,封戸や禄といった朝廷からの公的給付は滞っていき,貴族(なかでも摂関家のような有力貴族)は荘園を主な経済基盤とするようになっていく−ちなみに,荘園が急増し,その結果,荘園公領制と称される新たな社会システムが成立するのは12世紀のこと−。
10世紀以降の荘園は,初期荘園とは異なり,租税免除(不輸)の特権を認められた荘園が一般的で,そのなかには朝廷から太政官符・民部省符の交付をうけて認可を受けたもの(官省符荘)と国司の認可だけのもの(国免荘)とが存在していた。
したがって,荘園と称されているからといって租税免除の特権を有しているわけではなかったし,田地ごとに租税免除の認可を受ける形となっていたため,しばしば不法に免税特権を主張する荘園もあり,しばしば国司の国内支配の障害となった。また,国免荘のなかには,国司が任期の末期に自分自身や縁故のある有力貴族・寺社に対して,租税免除の特権を認めたものも多く(国司退任後の生活,特に次の人事に備える行為),次期の国司のもとではその国内支配の障害ともなり,収公されることが多かった。
また,荘園成立の経緯に着目した類型でいえば,寄進地系荘園が増加する(特に増加するのは11世紀半ば以降のことで,(ウ)の時期はちょうど増加し始めた頃である)。開発領主どうしの所領支配をめぐる競合がその背景の1つであるが,他方で,皇族・有力貴族やそれぞれの家に仕える中下級貴族(受領層)が私的な収益の確保をめざして在地の開発領主に働きかけて寄進を促し,その寄進をうけた地域を核に周辺の公領を取り込む形で荘園が設立されるケースもあった。


(解答例)
(A)
豪族が権力を強大化させ,大王を中心に広域に連合を形成したため。

(B)
(イ)
疫病・飢饉で社会不安が広がり,藤原広嗣の乱など政争が激しさを増すなか,聖武天皇は仏教の鎮護国家思想に基いて国家の安泰を図ろうと,盧舎那大仏の造立を発願した。 (ウ)
地方政治が混乱し,盗賊など暴力が横行し,災厄が頻発して社会不安が広がるなか,末法思想の流行を背景に,来世での幸福を希求する浄土教が貴族の間に広がっていた。

(C)(ア)g (イ)c

(D)
奈良時代の貴族は,位階・官職に基づいて田地や封戸,禄を朝廷から給付されていたが,墾田永年私財法が制定されて以降,各地で墾田を集積して荘園を形成していった。そして,農民の浮浪・逃亡や偽籍が増加して公地公民制が動揺し,調・庸など人頭税中心の律令税制が崩壊するのに伴い,摂関政治の確立する平安時代中期には朝廷からの公的給付は次第に滞り,摂関家など有力貴族は寄進地系荘園からの収益に依存する度合を強めた。