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年度 1976年

設問番号 第2問

テーマ 中世〜近世における武家社会の特質と変化/中世・近世


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(A)
設問の要求は,半済とはどのような制度か。つまり,半済の内容説明が求められている。

リード文に「半済や守護請の制度は,守護大名が国内の武士を組織する手段として大きな役割を果たした」と書かれていることを考えれば,単に年貢収納権として説明するのではなく,守護大名が国内の武士を組織する手段として機能した側面についても説明しておかなければならない。つまり,守護は収納した年貢半分(のち土地半分)を配下に加わった武士に分給する(宛行う)ことも認められた点を明記することが不可欠である。これによって,守護が国人たちと主従関係を結んで被官(家臣)へと編成することが幕府によって公認されることになったのである。いいかえれば,在地で進展していた守護による国人の被官化という動きを追認するとともに,その動きを拡大することによって守護のもとでの戦乱の鎮静化・国内秩序の安定をはかろうとしたのである。

なお,南北朝の内乱が深化するなか,各地で国人たちによる荘園・公領の侵略が進み,彼らが年貢を兵粮(軍費)との名目で横領するという動きが横行していた。そのことを念頭におけば,半済は国人たちによる荘園・公領の侵略を抑制し,荘公領主による荘園・公領の年貢半分の収納を守護のもとで保障するという役割も持っていたことに気づくだろう。

(B)
設問の要求は,鎌倉末期以降における武士の社会的結合の変化。条件として,主従関係の変化と関連させることが求められている。

鎌倉末期以降における武士の社会的結合の変化とは,血縁的結合から地縁的結合への変化であり,その具体的内容は次の通りである。このうち,条件として掲げられている“主従関係の変化との関連”をきちんと説明できるかどうかがポイントである。

鎌倉前中期)
惣領制
 一族が惣領を頂点としてまとまる血縁的結合
 →惣領が一族を代表して将軍と主従関係を結ぶ

鎌倉末期以降)
地縁を重視する傾向が強まる
 近隣の中小武士どうしで提携(党や一揆)
 守護など有力武士と主従関係を結ぶ

(C)
設問の要求は,(1)武家諸法度のうち,どのような条項に対する違反が特に厳しく取締まられたか。そのうち,2つの条項について要旨を記すこと。(2)それぞれの取締りが励行されなくてはならなかった理由。

(1)について。
まず,武家諸法度にどのような条項が含まれていたかを考えよう。特に指定がないのだから,元和令・寛永令などを問わず,とりあえず列挙してみよう。
 新規築城の禁止
 居城修築の許可制
 私婚の禁止
 徒党の禁止
 参勤交代
 大船建造の禁止
これくらいは思い浮かぶだろうか。初めて目にするデータがあるようなら史料集で条項を確認して欲しい。

次に,武家諸法度違反を理由に処罰された具体例がないか,考えてみよう。
教科書により掲載されている事例はまちまちだが,たとえば山川『詳説日本史』では,福島正則が武家諸法度違反で改易処分をうけたことが明記してある。では,その理由は?山川の教科書には明記されていないが,福島正則は“居城修築の許可制”に対する違反で処罰されており,これは答案で活用したい。
他に処罰された大名はいないか?三省堂『詳解日本史』では肥後の加藤忠広,宇都宮の本多正純,福井の松平忠直などが脚注で列挙されているものの,ここまで覚えている人はなかなかいないだろう。
では,どうするのか。
居城修築の許可制にからめて“新規築城の禁止”を答えるという方法もあるが,戦国時代以来の流れを考慮にいれて,上記の条項のうち,違反行為が厳しく取締まられただろうと推論できるものを探るとよい。
戦国時代以来,戦国大名や統一権力が進めてきたのは,(a)一揆の解体と,(b)武士の土地・人民に対する直接支配権の弱体化,である。このうち,“私婚の禁止”,“徒党の禁止”が(a)に関連する条項,“参勤交代”が(b)に関する条項(参勤交代は大名の将軍に対する忠誠を示す軍役に準ずる奉公だが,大名の領主権を弱体化させ地方割拠を抑制するという側面をもっていた)。
ただし“参勤交代”は,武家諸法度寛永令で制度化されたものだが,
 大名小名,在江戸交替,相定ル所也。毎歳夏四月中参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ,且ハ国郡ノ費,且ハ人民ノ労也。向後其ノ相応ヲ以テ,之ヲ減少スベシ。
とあるように(特に後半部分に注目),江戸に参府する時期について定めると共に,大名の参勤交代に従う家臣の人数が最近はなはだ多くなっているのに対してその人数を減らすべきことを命じている。つまり,参勤交代にかかる経費の節減を命じているのである。このことを考えると,解答の一例として挙げるのが妥当なのかどうか,やや微妙である。一揆の解体を意図した条項である“私婚の禁止”か“徒党の禁止”を挙げるのが適当だろう。

それぞれの条項が厳しい取締りの対象とされた理由は次の通り。
 新規築城の禁止,居城修築の許可制→大名の軍事力強化を警戒
 私婚の禁止,徒党の禁止     →大名どうしの提携を警戒

(D)
設問の要求は,末期養子(跡継ぎの子がなくて死んだ大名には死の直前または死後に相続人を立てること)が許されていなかった理由。条件として,封建社会における主従関係のあり方という観点から説明することが求められている。

なぜ末期養子が禁止されていたのかは,教科書ではほとんど説明がない。
しかし,条件として提示されている「主従関係のあり方という観点」に注目すれば,末期養子の禁が緩和された4代将軍家綱の時代についての説明のなかで,殉死の禁止に関連して次のような記述があることに気づくだろう。
山川『詳説日本史』

「1663(寛文3)年,成人した家綱は代がわりの武家諸法度を発布し,あわせて殉死の禁止を命じ,主人の死後は殉死することなく,跡継ぎのあたらしい主人に奉公することを義務づけたA。」
「A 将軍と大名,大名と家臣の関係において,主人の家は代々主人であり続け,従者は主人の家に奉公する主従の関係を明示した。もはや,下剋上はありえなくなった。」
三省堂『詳解日本史』
「主君の死を追って家臣が切腹する殉死を禁じ,家臣が主君に仕えるという奉公の形をあらため,家臣は主家に仕えるように義務づけた。」
つまり,家綱の頃に,主従関係のあり方が“主君個人に対して家臣が主従関係を結ぶ”というあり方から“主君の家に対して家臣が主従関係を結ぶ”というあり方へ転換していったのである。ということは,末期養子が禁止されていた時代における主従関係のあり方は“主君個人に対して家臣が主従関係を結ぶ”というあり方であったことがわかる。

とはいえ,ここで説明されているのは家臣が奉公する対象についてのみである。逆の関係,つまり主君が知行地(領知)や禄を給付し,奉公を課す対象についてはどうなのか。家臣の代がわりに際し,主君は跡継ぎのあたらしい家臣に対して先代と同じ知行地や禄を保障したのか。
その点に意識して末期養子を定義しなおせば,末期養子の禁とは
 大名=家臣の代がわりに際し,跡継ぎが大名の死の直前や死後にきまった場合は,跡継ぎに対して先代の知行地(領知)を相続させない,あえて言い換えれば,先代と同じ知行地を給付・保障しない
という措置である,と説明できる。そして
死ぬ間際よりも以前に「跡継ぎ」と決めてあった人物であれば,子どもなどの血縁者かどうかは関係なく,先代の知行地(領知)を相続・保障されたこと
もわかるのだが,さて“誰が決めた”のか?
当然,大名だが,大名の心のなかで決まっていればいいのか?
将軍と大名の主従関係においての話なのだから,大名だけでなく主君たる将軍(ひいては幕府)においても跡継ぎとして認知されていることが不可欠である。
つまり,跡継ぎ=相続人は,大名の死去間際よりも以前に大名によって決められ,そのうえで,幕府の認知を受けておくことが必要であったことがわかる。

結局のところ,主従関係とは,主君個人と家臣個人(ともに武士団の長である)の間に結ばれた契約関係・信頼関係だったのであり,自動的に世襲される性格のものではなかったのである。だから,大名本人の意思を確認することが困難な末期養子を認めて,あえて大名家を存続させる必要は,必ずしもなかったのである。
なお,大名の死去間際や死後に跡継ぎが決められる場合,跡継ぎの決定をめぐって家臣団が分裂し,いわゆる御家騒動が起こる危険性がある。それを回避しようとする意図もあった。


(解答例)
A守護が荘園・公領の年貢半分を軍費として収納し,地方武士に分給することを認める制度で,のち土地半分の収納権へと発展した。
B鎌倉時代の武士は惣領が一族庶子を率いて将軍と主従関係を結ぶという血縁的結合を基礎としていたが,分割相続の繰り返しにより所領の細分化を招いた。そのため,鎌倉末期以降,嫡子単独相続への移行が進み,血縁的結合は解体した。そして,地縁を重視する傾向を強めた武士たちは各国の守護と主従関係を結ぶようになった。
C居城修築の許可制−大名の軍事力強化を警戒した。幕府の許可なく大名どうしが婚姻を結ぶことの禁止−婚姻を通じて大名どうしが提携し,幕府に反抗することを警戒した。
D主従関係は本来,個人間の契約関係であり,本人の意思の確認が困難な末期養子を認めてまで大名家を存続させる必要はなかった。