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年度 1977年

設問番号 第3問

テーマ 江戸後期の商品流通の変化・立憲体制の形成と初期議会/近世・近代


問題をみる

設問の要求は、江戸後期に産業が発達し商品流通が活発になったにもかかわらず、大坂の商業機能が衰えた事情。
条件として、指定語句(藩専売・株仲間・在郷商人)の使用が求められている。

これは“納屋物の流通とその変化”というオーソドックスなテーマに即した出題であるが、そのことは問題文のなかで参考データとして挙げられている阿部正蔵の指摘のなかに「諸国の百姓町人から大坂の問屋にあてて送ってくる商品荷物」(=納屋物)という記述があることからもわかる。

基本的なフレームは次の通り。
 大坂の問屋商人=株仲間を結成して流通を独占→大坂が「天下の台所」として機能
  ↓
 江戸後期…在郷商人の台頭・藩専売の増加
 <結果>株仲間を介さない商品流通が拡大→大坂の商業機能の低下

このあたりの事情を阿部正蔵は「近年、諸国の百姓町人から大坂の問屋にあてて送ってくる商品荷物が著しく滅少してきており、それが物価騰貴の一因ともなっている」と記しているわけである。


(解答例)
問屋商人が株仲間を結成して流通を独占し、大坂が各地の物資の集散地として機能していた。ところが産業が発展するなか、各地で地域市場が形成されて在郷商人が台頭した。また藩財政の立て直しのため、特産物の領外への販売権を独占する藩専売制を採用する藩が多くなった。その結果、株仲間を介さない商品流通が拡大し、大坂の商業機能は衰えた。


4が誤り。
岩倉遣外使節に参加した木戸孝允らがドイツ(プロイセン)の宰相ビスマルクの演説に大きな関心を寄せたことは事実だが、最初の訪問国がアメリカであったこと、津田梅子らがアメリカに留学、中江兆民や西園寺公望らがフランスに留学したことなどを考えれば、“ドイツ以外の諸国、なかでも共和国にほとんど関心を示さなかった”というのが誤りであることはすぐにわかる。


超然主義の内容を簡単に説明すればよい。


設問の要求は、議会開設後は超然主義にもとづく政治運営が次第に困難となった理由。

議会開設後は“政党の動向には左右されない”という立場からの政治運営が困難となったというのだから、(a)帝国議会がどういう存在であったか、(b)政党と帝国議会の関係、の2点について確認しておく必要がある。

(a)帝国議会がどういう存在であったか
明治憲法では帝国議会は“天皇の立法権を協賛する機関”と規定され、法律や予算を審議し承認する権限をもっていた。いいかえれば、内閣(政府)が行政を行う上で基礎となる法律や予算は、帝国議会の審議・承認を経て初めて成立するものと規定されていた。
もちろん、緊急勅令や予算不成立の際の前年度予算の執行が規定されていたものの、前者は議会閉会という緊急の場合に限られていたし、後者については予算規模の拡大(→増税)を意図する場合には活用できなかった。結局のところ、予算規模の拡大、つまるところ増税の決定権を議会が握っていたのである。

(b)政党と帝国議会の関係
帝国議会は二院制が採用され、貴族院は皇族・華族など特権階級に属する人びとによって構成されたものの、衆議院は公選議員により構成され、彼らは理想や主張を同じくする者どうしで政党を結成していた。 さらに、両院の権限は基本的には対等であったが、衆議院が予算先議権をもっていた。

こうしたことから、藩閥勢力に対抗する立場にたつ政党が衆議院で多数を占めた場合、予算の審議・決定において政党の意向を全く無視することは極めて困難だったのである。


(解答例)
B 津田真道

4:アメリカを最初の訪問国に選んだように共和国にも関心を示した。

内閣は政党の動向に左右されることなく、超然として政策を立案・実行するとする主張。

衆議院では政府反対派の民党が多数をしめ、経費節減・民力休養を掲げて予算削減を主張し、予算審議権を活用して政府と激しく対立した。その結果、政府は議会運営を円滑化するため、政党との提携を余儀なくされた。