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年度 1979年

設問番号 第1問

テーマ 国分寺造立の背景/古代


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設問の要求は,聖武天皇による国分寺造立の事業は,(1)7世紀後半以来の仏教の動き,(2)当時の政治・社会の動きとどのように関連していたのか。
この設問のポイントは,(1)についてきちんと説明できるかどうか。答案のなかに,「7世紀後半以来」とか「天武朝以来」などと明記して,そのころからの仏教の動きを説明しよう。

(1)7世紀後半以来の仏教の動き
「7世紀後半」という時期設定,「仏教」というテーマ設定のもとで思い浮かぶのは,白鳳文化のもとでの仏教に関する事項しかない。
天武・持統天皇のころ,朝廷は大官大寺や薬師寺などの寺院を官寺として建立し,それらに国家の安泰を祈祷することを使命とさせていた。これが,聖武天皇のころに強まった仏教の鎮護国家思想につながることは言うまでもない。

(2)当時の政治・社会の動きとの関連
藤原広嗣の乱,飢饉や疫病の流行
→政治と社会が動揺・政治や社会の不安が高まる
 ↓
仏教によって動揺を防ぐ・仏教の鎮護国家思想によって不安を鎮める

なお,地域社会はもともと神々の信仰(神祇信仰)を媒介として秩序が保たれており,旧国造クラスの在地の豪族は,その神々の祭祀をつかさどることを通じて人民に対する実質的な支配力を確保していた。ところが,律令にもとづくさまざまな負担が公民の浮浪・逃亡をひきおこし,さらに飢饉や疫病の流行がそれに加わって,在地の共同体秩序は大きく崩れていくのだが,そのことは,宗教的には,既存の神々には秩序を維持するだけの力が失ってしまったという事態を意味する。 それゆえに,それを補うべく仏教が積極的に活用されたのである。そして,それにともなって神々の信仰(神祇信仰)と仏教の融合,つまり神仏習合が進展することになる。


(解答例)
律令国家確立期である7世紀後半以降,仏教への国家統制が進む一方,官寺の建立や護国経典の尊重など,仏教に対して鎮護国家の使命を果たすことを期待する動きが強まった。聖武天皇の頃には,飢饉や疫病の流行,藤原広嗣の乱など,社会・政治の矛盾が表面化して律令国家が激しく動揺していた。そのため聖武天皇は仏教の鎮護国家思想によって社会・政治の不安を鎮めようと考え,国分寺造立の事業に着手した。(189字)
【添削例】

仏教の鎮護国家思想の下、朝廷は7世紀後半から官立大寺院の建立や護国経典の尊重などを通じて仏教を保護・統制してきた。天平期になると、藤原広嗣の乱や飢饉、疫病の流行から社会不安が増大し、浮浪・逃亡も増加するなど律令体制が激しく動揺していた。そこで聖武天皇は仏教の鎮護国家思想に基づいて国分寺建立の詔を発し、国ごとに僧寺・尼寺をおき、社会の不安を静めようとした。
(字数が届きません・・・)

OKです。

> 字数が届きません・・・)
という点ですが、指定字数(200字以内)の8割は書けているわけですから問題ありません。
もう少し字数を伸ばしたいというのなら、
 7世紀後半が律令体制の形成期であったこと
を指摘しておけばよいでしょう。そもそも天皇中心の中央集権国家を支える政治的イデオロギーの1つとして仏教が国家的な保護と期待をうけたわけですから。