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年度 1981年

設問番号 第2問

テーマ 応仁の乱の意義/中世・近世


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設問の要求は、内藤湖南の見解について、各人の自由な視点から論評すること。
条件として、出題者の要約した論旨を参考にすることが求められている。

「各人の自由な視点から」論評せよとされているが、やはり歴史的事実にもとづきながら答案を作成することが不可欠。そして、「論評せよ」というのだから、内藤湖南の見解についてどう思うかを明記する必要がある。湖南の見解に賛成できるのか否か、歴史的事実にもとづいて論拠を示したうえで記述しよう。
その際、湖南の講演が“1921(大正10)年”に行われていることにも注意しておきたい。湖南のいう「今日の日本」とは、あくまでも、その頃の日本を指しているのである。

まず、湖南の見解を整理しておこう。
(a)今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、応仁の乱以後の歴史を知っておけば十分である。
(b)応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史である。
ここでの湖南の主たる関心は「今日の日本を知ること」にあるが、(b)という事実認識を根拠として“応仁の乱以後の歴史を知っておけば十分だ”と論じている。

次に、湖南が「応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史である」と認識した事情・根拠を確認しよう。
問題文に示されている論旨を整理すれば次のようになる。
(1)歴史は「下級人民の向上発展してゆく過程」であり、応仁の乱は「そのもっとも大きな記録」である。
(2)応仁の乱以後百年ばかりの間(つまり戦国時代)に下剋上が進み、有力な家の多数が入れかわった。たとえば、大名出身の華族の大部分はみな応仁の乱以後に出て来た家である。
ここから、1921年当時、社会の上流階層・支配層として存在していた華族の大部分が、戦国時代のなかでその地位を確立した家であることを1つの論拠として、「応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史である」と論じていることがわかる。 また、応仁の乱以後百年ばかりの間には下剋上という現象が進んだだけでなく、兵農分離という過程も進行しており(それを促進したのが太閤検地)、その結果、百姓身分だけを構成員とする近世村落が形成されたが、それは(内部で階層分化をともないながらも)明治期以降の村落につながっている。
さらに、近代の和風住宅の様式の源流といえば、応仁の乱頃(東山文化の時代)に確立した書院造である。
こうした点からすると、湖南の見解に一定の妥当性を見出すことが可能である。

では、応仁の乱以前のことがらは「今日の日本」に全く影響を残していないのだろうか。
さきに“近世村落”を取り上げたが、その基礎になったものは南北朝期以降に形成されていた惣(惣村)である。つまり、「応仁の乱以後」に確立したことがらであっても、それは応仁の乱以前からの歴史的過程のなかで実現したことがらであり、そのことを無視することはできない。
また、天皇という存在を考えてみよう。たとえば、大日本帝国憲法ではアマテラスの神勅を根拠に天皇の統治権を規定しているが、これなど古代史(とりわけ『日本書紀』『古事記』の神話)を前提としなければ了解しえないことがらである。

こうした点を総合的に考えたうえで、湖南の見解に対して自由に論評していけばよい。

(注)
以前の原稿では、最後のところで
「ということは、極論すれば、応仁の乱(あるいは戦国時代)以後、社会の基本構造は全く変化していないということだが、果たしてそうか。」
と書いていたが、完全な問題の読み間違いでした。


(解答例)
内藤湖南は、大正期の日本を知るには応仁の乱以後の歴史を知っていれば十分であると主張している。しかし、南北朝期以降に形成された惣村が近世村落成立の前提であったように、応仁の乱後に確立したことがらであっても、それ以前からの歴史的過程のなかで実現したのであり、そのことを無視することはできない。また、明治維新が天皇親政の復活という形式で実現したことは、古代史を前提として理解する必要がある。このような点を考慮すると、湖南の見解は極端すぎる。とはいえ、大名出身の華族の大部分は、応仁の乱以後の下剋上の風潮のなかで台頭し、地位を確立した人々である。また、太閤検地・兵農分離を経て形成された近世村落は、内部で階層分化をともないながらも明治期以降の農村につながっている。さらに、応仁の乱前後にできあがった書院造は近代の和様住宅様式の源流である。こうした点からすると、湖南の見解は妥当だと言える。(390字)