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年度 1981年

設問番号 第3問

テーマ 明治憲法体制下の内閣制度/近代


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設問の要求は、明治憲法の時代の内閣が短命であった理由。条件として、明治憲法のもとでの政治制度の特色に即して説明することが求められている。

明治憲法のもとでの政治制度の特色に“即して”説明せよというのだから、まずは明治憲法体制のもとで内閣がどのように規定されていたのかを確認しておく必要がある。
そして、明治憲法のもとでの内閣を、大きく3つくらいの類型に分け−−(1)藩閥内閣、(2)政党内閣、(3)官僚を中心とする内閣−−、それぞれの内閣について、その動向を制約した政治勢力を確認し、それらがなぜ内閣を制約できたのかを明治憲法体制の枠組みのなかでチェックしていこう。

<明治憲法のもとでの内閣>
(1)天皇の輔弼機関
 ↓
 ○天皇大権に依拠して強大な行政権を握る
 ○天皇からの信任が不可欠
 ○天皇に直属する国家機関(枢密院・陸海軍の統帥部)の支持・協力が必要
(2)国務大臣の単独輔弼制…内閣の連帯責任が規定されていない
 ↓←各大臣の任免権を天皇がもつ
 首相の閣内統率力が弱い・閣内不一致が内閣総辞職に直結しやすい
(3)議院内閣制を不採用…議会に対する責任が規定されていない
 首相の選定・推挙は元老や内大臣らが担当

<内閣とその動向を制約する政治勢力との関係>
(1)藩閥内閣の場合−明治〜大正前期−
藩閥の実力者(元老)が首相に就任し、藩閥官僚を大臣に任用することによって、首相の閣内統率力・内閣の統一を確保。さらに枢密院や陸海軍の統帥部への統制も確保。

○議会=法律・予算の審議・承認権をもつ(→増税の決定権を握る)
 貴族院…華族が中心→藩閥の影響下にある
 衆議院…公選議員により構成→藩閥の統制が及ばない
衆議院には藩閥の統制が及び切れないからこそ、当初は超然主義を掲げたものの、結局、政党との提携や、さらには藩閥の実力者みずからが総裁として政党を結成することによって、衆議院に対する藩閥の影響力・統制力を確保し、国政運営の円滑化をはかろうとする動きが具体化していくのである。初期議会から立憲政友会結成にいたる政治過程を想起すること。

(2)政党内閣の場合−大正〜昭和初期−
衆議院に基盤をおく政党の総裁が首相に就任し、政党員によって大臣の過半を構成することで、首相の閣内統率力・内閣の統一を確保

○議院内閣制が規定されていなかったため制度的な保障がない
 →元老の推挙・調整により初めて実現
○天皇の諮詢機関として枢密院が存在・陸海軍の統帥権が内閣から独立

(3)官僚を中心とする内閣の場合
伊藤・山県のような、官僚や陸海軍を統御しうる政治力をもつ元老が死去してしまった後の非政党内閣を想定して欲しい。最後の元老となった西園寺公望が官僚・陸海軍を統御しうる政治力をもたず、また天皇がそれにかわる政治力を発揮しない状況では、内閣の統一性を保持することが難しくなる。藩閥や政党のように内閣外での利害調整をになう場が存在しなければ、各省のセクショナリズムを背景とする閣内不一致がおこりやすく、制度的には首相の閣内統率力が弱いために、閣内不一致が内閣総辞職に直結しやすい。

○陸海軍の統帥権が内閣から独立
→このため、準戦時体制が拡大するなかで陸海軍の国政運営における発言力が強まる。陸海軍の動向によって内閣が左右されてしまうのである。
 もっとも、首相の選定・推挙が元老(や内大臣ら)によって担われたため、元老・内大臣といった宮中グループの政治力を完全に排除することはできず、陸海軍(軍部)が内閣を完全に掌握できたわけではない。そのため,元老を中心とする宮中グループと陸海軍の駆け引きのなかで内閣は揺れ動いていく(そのうえ陸海軍が一枚岩にまとまっていたわけでもなかった)。


(解答例)
内閣は統治権の総覧者である天皇の輔弼機関とされ、天皇の諮詢機関・枢密院や天皇の統帥下にあった陸海軍、天皇の私的顧問で重要政策の決定に関与した元老など、内閣から独立した国家機関が存在したため、政策の決定・遂行に制約が多かった。また、各大臣の単独輔弼制が採られ、任免権も天皇がもったため、閣内不一致が総辞職に直結しやすかった。その上、基本的に議会に基盤をもつものでなかったため、議会運営も困難であった。