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年度 1982年

設問番号 第2問

テーマ 中世の一揆と近世の百姓一揆の違い/中世・近世


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設問の要求は、中世には各階層にそれぞれ目的に応じて多様な一揆が存在したのに反し、近世では百姓一揆だけになった理由。

まず問題文に列挙されている一揆の内容を確認しておこう。
中世
 国人一揆…国人が相互の紛争解決や農民支配のために結ぶ→守護から独立した地域秩序を形成
 土一揆 …惣村の地侍や名主・小百姓らが広域に結合して実力行動
 徳政一揆…徳政を掲げた土一揆(実力行動により徳政を実施)
 一向一揆…一向宗門徒の国人・地侍を中心とする国一揆
 国一揆 …国人・地侍を指導層、惣村を基盤として守護を排除・自治支配を実現
近世
 百姓一揆…百姓が幕府・大名に対して年貢減免などを要求

次に、一揆の担い手が中世と近世とではどのように変化しているかをチェックしよう。
中世では国人や地侍、名主・小百姓など担い手は多様だったが、近世では百姓だけに限られている。ここから、近世になると国人や地侍=在地(在村)の武士たちが一揆の担い手から消えてしまっていることに気がつくだろう(島原の乱がその最後)。
ということは、この問題は、近世になって国人や地侍が一揆の担い手とならなくなった理由を問うたものだと、読みかえることが可能である(なお、中世には一向一揆や法華一揆のような宗教一揆が存在していたのに対し、近世には宗教一揆が島原の乱を最後に消滅しているので、宗教勢力が一揆の担い手とならなくなった理由を追加して考えてもよい)。

中世における一揆の担い手
国人=在地領主として守護大名から独立した支配力をもつ(一揆を結ぶことで確保していた)
農民=惣村という自治村落を形成→なかには武士身分を獲得して地侍と呼ばれるものもいた(兵農が未分離)
→こうした国人・地侍や農民がそれぞれ目的に応じて多様な形で一揆を結んでいた

近世になって国人や地侍が一揆の担い手とならなくなった理由。
 兵農分離・城下町集住、一揆・徒党の禁止、(私戦=私的な武力行使の否定)
 →統治機構を担う官僚へ転化

宗教勢力(信仰を軸に自治的な地域秩序を実現=大名支配を排除)が一揆の担い手とならなくなった理由
 仏教勢力の世俗的な権力=農民や商工業者に対する影響力などが奪い取られた
 キリスト教など将軍権威の絶対性を否定する宗教の徹底的な禁止


(解答例)
中世は、国人が在地領主として自立的な支配力をもつ一方、広い階層の百姓が自治村落である惣村を形成し、名主のなかには武士身分を獲得して地侍となるものも存在した。そのため、国人・地侍や百姓を担い手として多様な一揆が結ばれた。ところが太閤検地以降、兵農分離が進展し、国人・地侍の城下町集住も進んで、近世には武士身分が総体として百姓身分を支配する体制が成立した。その結果、百姓一揆だけが唯一の一揆となった。