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年度 1984年

設問番号 第1問

テーマ 新井白石『読史余論』の時代区分/中世・近世


問題をみる
設問の要求は、新井白石『読史余論』における時代区分の特色。条件として、その時代区分のなかに重複した部分が現われることに注目することが求められている。

まず、「九変五変論」と呼ばれる時代区分の内容を、問題文から確認しよう。
「九変」
 一変…藤原良房の摂政就任による「外戚専権の始」
 二変…藤原基経の関白就任
 三変…冷泉天皇の世から「外戚、権を専に」した
 四変…後三条・白河両天皇の親政
 五変…堀河天皇の世からの院政
 六変…後烏羽天皇の世から「鎌倉殿、天下兵馬の権を分ちつかさど」った
 七変…後堀河天皇の世からの北条氏の執権政治
 八変…後醍醐天皇の建武中興
 九変…足利尊氏が光明天皇を立てて「天下ながく武家の代」となった

「五変」=「武家の代」
 一変…鎌倉幕府の成立
 二変…北条氏の執権政治
 三変…室町幕府の開創
 四変…織田・豊臣政権の成立
 五変…「そののち終に当代の世」となった

まず、こうした時代区分は誰が政治権力を掌握していたかを基準とする政治史上の時代区分であることがわかるだろう。
そして、「九変」が公家政治の時代区分、「五変」が武家政治の時代区分であり、“足利尊氏が光明天皇を立てて「天下ながく武家の代」となった”とあることから考えれば、新井白石が、時代の大きな流れを“公家政治から武家政治への転換”と判断していたこともわかる。

次に、両者の“重複した部分”を確認しておこう。
それは、鎌倉幕府成立から建武新政にかけての時期である。鎌倉幕府成立により始まった鎌倉時代は公武二元支配が展開した時代であり、建武新政期は天皇のもとで公武一統が実現した時代である(なお、後堀河天皇とは承久の乱後に幕府により擁立された天皇である)。それに対して、足利尊氏による光明天皇擁立以降の室町時代は、南朝勢力が1392年まで存続していたとはいえ、武家のもとで公武一統が形成され、実現していった時代である。つまり“重複した部分”とは、公家政治の没落過程と武家政治の勃興過程とが重なりあった時代だといえ、そのあとに、武家により擁立された天皇のもとで武家政権が全国支配を担う時代が訪れたというわけである。

教科書レベルの知識を使ってもこれくらいの内容を答案におりこむことができるが、新井白石が公家から武家への政権移行の根拠をどのように考えていたのかについて補足しておく。
新井白石は朱子学者であるが、朱子学では宇宙自然・道徳・政治はひとつながりのものとして考えられ、宇宙の根源である理が人間の心にも宿り、それが人間の本性である道徳性の根拠となっているとされていた。この立場からすれば、道徳的にすぐれた人間が身分の上位を占め、政治権力を握るのがあるべき姿とされ、もし政治の頂点に立つ君主が不徳である場合、有徳者によってその地位を奪われることは当然とみる易姓革命の理論が肯定される。
もっとも律令形成期以降、武家政権のもとでも天皇が君主として存在し、そして天皇は同姓によって継承されてきていた。つまり、文字通りの易姓革命は日本の歴史上、その存在を認めることはできない。しかし白石は、公家政治の展開・没落過程のなかに易姓革命に類似する事態の進行をみてとったのである。
白石が、藤原良房の摂政就任による「外戚専権の始」を「一変」と評していることから判断すれば、白石が想定した公家政治の本来の姿はそれ以前の政治のあり方、いわば天皇親政であった。ところが、藤原良房の摂政(一変)により政治の実権が天皇の手を離れて以降、政治の頂点にたつ君主の“名”(権威)と“実”(実権)が分離してしまい、“実”(実権)は外戚→院→武家へと移行していく。すべては政治の頂点にたつ君主の“不徳”のなすところ、というわけである(実際、白石は後醍醐天皇を「不徳」と評している)。そして白石は、「南朝既に亡び給ひし後は、天下の人皇家あることをしらず」と書き、足利義満の政治に言及する際に「王朝既に衰へ、武家天下をしろしめして、天子をたてて世の共主となされしより、その名人臣なりといへどもその実のある所は、その名に反せり」と述べている。つまり、南朝滅亡により武家政治のもとで“名”(権威)と“実”(実権)が一致する状態が復活したというのである。


(解答例)
朱子学者新井白石は、誰が政治権力を掌握していたかに基づいて時代区分を行い、公家政治から武家政治への転換という流れを示した。政治権力が天皇から外戚・院・武家へと移ることを述べたうえで、鎌倉幕府成立から南北朝期に至る公武並立の時代を経た後、南朝滅亡により武家のもとで権威・権力の一体化した政治が復活する過程を描き、徳川政権の正統性を歴史的に論証しようとした。