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年度 1985年

設問番号 第3問

テーマ 近世豪農が学問を必要とした理由、明治以後の教育史/近世・近代


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設問の要求は、近世の豪農が学問を必要とした理由。条件として、彼らの農村内における役割にも留意することが求められている。

まず条件から考えていこう。
豪農の農村内における役割といえば“村の指導層であること”につきるが、村が(1)百姓たちの生活共同体であり、(2)幕藩体制下における支配の末端機構(基本単位)であったことを考えれば、大きくわけると2つの役割を担っていたことがわかる。
(1)地域の農業を指導…農書(農業技術書)を読むことが必要
(2)村役人…領主との折衝・法令の伝達・年貢の割当などを担う
なお、江戸時代も後期になると村の共同体秩序は大きく動揺し、そのなかで村民教化のためにも学問が必要とされた(→儒学や国学などの学問の浸透)。

さて、ここまでの考察でほとんど設問の要求を満たしたように思える。ただ、設問では「農村内での役割に“も”触れ」とある点から考えると、農村内での役割に由来する理由だけではなく、それ以外についても求められているようにも読める。判断しかねるところだ。青本・緑本・河合塾(速報)がそろって農村内での役割に由来する理由だけに限定して解答例を作成しているので、それで十分だと言える。
なお、上記以外の理由としては
(3)経済発展にともなって商業的農業や手工業へと経営を拡大していたこと
もあげられる(赤本のみ指摘)。経営を維持・拡大していくためには、物価動向など市場に関する情報の収集・処理の能力が不可欠である。


(解答例)
村は百姓の生活共同体であったが、幕藩体制下の行政支配の末端に位置づけられていた。豪農は村の指導層として自治・勧農を主導する一方、村役人として年貢の村請制や人別改などの行政を担い、村民教化や年貢割当て、文書作成などのために学問を必要とした。

設問の要求は、明治以後の教育の発達。条件として、時期区分をし、それぞれの時期の特徴を説明することが求められている。

いつまでを対象として説明すればよいのかが明記されていないが、少なくとも占領期の教育改革までは説明しておく必要があるだろう。

(1)明治初期:富国強兵のために国民皆学の実現をめざす(試行錯誤の過程)
  1872年 学制頒布…小学校の設立をめざす・実学重視 ←→ 学制反対一揆
  1879年 教育令 …地方分権的な教育制度へ変更→翌年の改正で国家統制が復活
(2)明治中期:国家主義的な学校制度が確立
  1886年 学校令 …義務教育4年制・帝国大学を頂点とする学校制度の確立
  1890年 教育勅語…忠君愛国を教育理念として提示
  1903年 小学校教科書の国定化
(3)資本主義の確立と発達:教育の普及・拡大
  1907年 義務教育4年から6年に延長
  1918年 大学令…高等教育機関の拡充(私立大学・単科大学などを公認)
  民間では自由教育運動…文部省主導の画一的な教育に反対・児童の個性を尊重
(4)十五年戦争期:総力戦体制への編成
  1941年 国民学校令…小学校の改組(皇国民の練成)
(5)占領期:教育の民主化
  1947年 教育基本法…教育勅語に変わる新しい教育理念(教育の機会均等・男女共学・義務教育9年制など)
      学校教育法…新しい学校制度(6・3・3・4制)の導入
  1948年 教育委員会法…教育行政の地方分権化(公選制の教育委員会設置)


(解答例)
明治初期に学制が公布され国民皆学が目指されたがすぐには実現せず、立憲体制の形成に伴って学校令で学校体系整備が進み、教育勅語で徳育重視の教育理念が示された。明治末〜大正期には資本主義発達を背景に教育が普及・拡大し、個性尊重を掲げる自由教育運動も起こったが、ファシズム進展のなかで教育の軍国主義化が進んだ。敗戦後、個人の尊厳重視などを理念として教育が民主化された。