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年度 1987年

設問番号 第2問

テーマ 鎌倉幕府成立の意義/中世


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設問A
設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。

問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。

朝廷が制定した年号を使用しないこと、または別の年号を使用することは、朝廷の支配に服さず、そこから独立することを意味する。源頼朝は以仁王の令旨に応じ、安徳天皇を擁する朝廷に対して反乱を起こしているのだから、朝廷による改元(年号の変更)を認めるわけはない。
なお、平氏の都落ちにともなって京都では後鳥羽天皇が即位し、その朝廷との間で和解を果たした源頼朝は、後鳥羽天皇を擁する朝廷が用いる年号を使用するようになる。

設問B
設問の要求は、(1)グラフから荘園と東国武士団との関係を読みとること、(2)そこに見出される武家政権の成立の意義。

まず東国武士が荘園公領制における職の秩序のなかでどのような位置を占めていたかを考える。
彼らは開発領主層であり、荘園では荘官、公領では郡司・郷司・保司として、現地の管理・年貢の徴収と荘園領主や国司への納入をにない、その職務にみあった収益を得ていた(荘官職や郡司・郷司・保司職を保持していた)。つまり、荘園や公領(郡・郷・保)は、東国武士の生活基盤であるとともに、武士団を養うための経済基盤であった。したがって戦乱により荘園領主・国司の支配力が後退すると、それに乗じて支配権・収益の拡大をめざし、兵糧米と称して荘園・公領の年貢・公事を横領することもあったのである(荘園公領制下の職の秩序そのものの否定にまで及ぶことがあったということ)→グラフの作田数が治承3年以降、文治1年ころまで徐々に減少していることが、そのことを示している。

次に地頭がどういうものであったかを確認しよう。
治承・寿永の内乱のなかで源頼朝により設置された地頭(荘郷地頭)とは、頼朝反乱軍に参陣した東国武士たちにその所領の支配権(荘官職や郡司・郷司・保司職)を保証する(本領安堵)とともに、敵方武士の所領を軍事占領してそこから収益を得ることを公認する(新恩給与)という制度であった。
荘園領主や国司ではなく源頼朝によって荘園・公領での職を保証されたということは、職の補任権が荘園領主や国司から源頼朝へと移ったことを意味しており、上述のような職の秩序そのものの否定にまで及びかねない東国武士の利害と行動を一定程度保証するものであった。

こうした地頭は、反乱当初は源頼朝が独自に補任していたが、朝廷から十月宣旨(1183年)をえて東山・東海道の荘園・公領の維持・年貢徴収を任されて(これが支配権を獲得したことの実態)以降――翌84年源義仲滅亡で北陸道の支配権も獲得――、東国では朝廷公認のものとなっていく。それにともなって地頭は、荘園領主や国司の荘園・公領支配を支え、荘園領主や国司による年貢収取を保証するという役割を強く求められるようになる→北陸道が源頼朝の支配下に入った元暦1年以降(翌文治1年は減少しているものの)次第に作田数が復活していることが、そのことを裏付けている。

つまり、東国武士の利害を一定程度まで貫徹させつつも、同時に、荘園公領制の職の秩序そのものの否定にまで及んだ彼らの行動を抑制して荘園公領制の枠内におさえ、荘園公領制(職の秩序)の安定を図ろうとするもの――それが地頭という制度であった。


(解答例)

源頼朝は以仁王の令旨に応じ、安徳天皇を擁する朝廷に対して反乱を起こしていたため、安徳天皇のもとでの改元を認めなかった。

東国武士団は本所から荘官に任じられていたが、治承・寿永の乱に乗じて年貢横領など荘園侵略を進めた。頼朝は彼らを御家人に組織して武家政権を樹立し、彼らを地頭に補任すると共に本所への年貢納入を義務づけた。その結果、東国武士団の在地領主権が保障される一方、彼らの侵略行為は抑制され、荘園制の安定が確保された。