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年度 1988年

設問番号 第3問

テーマ 幕末・明治の日米関係(開国〜条約改正)/近代


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設問の要求は、1853(嘉永6)年から1899(明治32)年に至る日米関係の変遷。
条件として、4つの指定語句を使用し、最初に用いたところに下線を施すことが求められている。

簡単そうに見えるが、見た目以上に難しい。
どこが難しいかというと、−指定語句でいえば−日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)については、アメリカを主語にして記述できるのだが、それ以降について書こうとすると、南北戦争がはじまるとアメリカが対日外交から後退してイギリスが対日外交を主導していくこともあって、アメリカと日本との関係を中心にすえて記述するのがなかなか難しくなる。その点を意識していないと、「米国が南北戦争のため対日政策に消極的になると、代わって英国が貿易の主導権を握り、英公使パークスは改税約書を締結して税率を引き下げた」(Z会)や「幕末の貿易の中心は英国で、パークスは改税約書を締結して関税を大幅に引下げさせた」(青本)のような文章を書いてしまう。これでは、改税約書の調印が日米関係とは関係のない出来事として記述されてしまい(改税約書の調印にはアメリカも関与している)、設問の要求に適切に応えたことにはならない。

いくつかの段階で時期区分し、それぞれの特徴を明確化しよう。
(1)対日外交を主導
 ペリー来航…北太平洋での捕鯨業の補給基地・中国貿易の中継基地を確保するために日本の開国を要求
 日米和親条約…日本との国交樹立に成功
 日米修好通商条約…不平等条約のもと日本を世界市場に包摂(自由貿易体制に組み入れる)

(2)南北戦争による後退→対日外交の主導権がイギリスに移る
 イギリスに追随…四国艦隊下関砲撃事件や改税約書
  →自由貿易体制の堅持・日本市場の欧米経済へのさらなる従属化を推進
 イギリスとの違い…条約改正交渉に友好的
  〜岩倉遣外使節の交渉には応じなかったが、寺島の協定関税撤廃交渉には応じる(日本市場をめぐる貿易上の利害関係が希薄だったことが背景)

(3)イギリスの日本接近
 →対等な外交関係への移行…日米通商航海条約(1894年調印→1899年発効)

なお、アメリカは1898年ハワイを併合、フィリピン群島を領有して太平洋地域に進出し、1899年には中国を対象として門戸開放・機会均等主義を表明している。一方、日本は1895年台湾を領有、1898年清に福建省の不割譲を約束させるなど、南進の動きを見せていた(その延長線上に1900年北清事変に乗じた厦門占領の計画がある)。このように、1899年ころは中国・太平洋地域をめぐって日米関係が緊張する時代が幕をあけはじめたころである。ただし、日露戦後ほどの緊張状態は存在せず(ハワイ併合をめぐって若干の軋轢は存在したが“対立”として特記するほどのものではない)、教科書レベルでも日米関係の緊張は“日露戦後の南満州市場をめぐる対立”として初めて記述されるのが一般的なので、そこまで答案のなかに含める必要はない(赤本の解答例はそこまで含めているが)。


(解答例)
アメリカは捕鯨や中国貿易の拠点を求めて日本に接近し、日米和親条約で開国させ、日米修好通商条約で不平等条約のもと世界市場へ強制的に編入するなど、対日外交を主導した。南北戦争で後退した後は、対日外交を主導したイギリスに追随して改税約書調印などに参加し、不平等条約体制の維持・強化に努めた。明治維新後、岩倉による条約改正予備交渉の打診には拒否の態度をとったが、次第に好意的立場へと変化し、寺島の税権回復交渉に応じる態度を示した。その後、イギリスの対日姿勢の転換に伴い、アメリカも日米通商航海条約を調印して領事裁判権の撤廃・協定関税制の一部廃止を実現させ、その結果、日米関係は対等な外交関係へ移行していった。