過去問リストに戻る

年度 1989年

設問番号 第1問

テーマ 検非違使と蔵人(律令的政治体制の変質)/古代


問題をみる
(A)
設問の要求は、検非違使庁と蔵人所の形成過程。条件として史料文を参考とすることが求められている。

まず、検非違使や蔵人について知っていることを整理してみよう。
検非違使…嵯峨天皇のもとで設置され、京内の治安維持など警察の任務にあたったが、のちには衛府や弾正台・刑部省・京職の職務を吸収し、訴訟・裁判の業務も担うようになった。→役所が検非違使庁
蔵人…平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂(これが薬子の変に発展)に対処するため、嵯峨天皇が810年に設置したもので、機密文書を扱わせ、天皇の側近にあって詔・勅の伝達や訴訟などを太政官にとりつぎ、太政官をつうじないで天皇の命令をくだせるようにした。→役所が蔵人所。

その上で、史料文を参照しよう。
先に確認したことがら以外のデータといえば、
 蔵人所について“蔵人頭は内廷以外の種々の行政にもあずかるようになった”
だけ。これを先のデータに追加して答案を完成させよう。

(B)
設問の要求は、検非違使庁や蔵人所などの令外官が形成される歴史的背景。

設問の「など」には一体どのような令外官が含まれているのか不明。まさか中納言や参議のような8世紀に設置された令外官まで含めているのだろうか。あるいは、桓武朝に新設された勘解由使も含むのだろうか。おそらく出題者は検非違使庁と蔵人所だけに限定しているのだと思うが、非常に曖昧な(悪くいえばいい加減な)表現である。ここでは、検非違使庁と蔵人所だけに限定して、その歴史的背景を考えよう。

さて、検非違使・蔵人が設置されたのは嵯峨天皇のときだが、嵯峨天皇を含む平安初期といえば、律令体制の再編期である。まずそこから考えてみよう。

公民支配が動揺するなか、朝廷の財政難がますます深刻となり、それに対処するため、朝廷では官司や官人の整理・統合が行なわれて律令政治の効率化・簡素化とともに、財政負担の軽減がはかられていた。
さらに、それ以前から社会の変化に応じてさまざまな法令がだされたが、それらの法令を、律令の規定を改正するものとしての格と、施行細則としての式とに分類・編集し、律令体制を当時の政治や社会の実情に即したものへと再編成しようとする動きも進んでいた。
こうした時代背景を考慮に入れれば、新たな令外官が設置されてそのもとにさまざまな官庁の職務が吸収されていったことは、官庁の整理・統合(統廃合)を進め、財政負担の軽減をはかるという意味をもっていたことは察しが付くはず。

さらに、検非違使庁や蔵人所は天皇直属の官庁で、検非違使や蔵人は「官職についている者のなかから天皇が特別に任命する職であった」(山川『詳説日本史 改訂版』p.60)。「官職についている者のなかから」任命されるということは、つねに他の官職を兼ねることが必要な官職だということであり、たとえば蔵人頭の場合、近衛中将(左右近衛府の次官)や大弁・中弁(左右弁官の長官・次官)という官職についている貴族が任じられ、もとの官職を兼任したまま、蔵人所を構成した(なお頭中将は蔵人頭兼近衛中将のこと)。その結果、天皇は、検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになったのである。
桓武天皇以来、天皇に権力を集中させて貴族をおさえながら(天皇の貴族に対する政治的主導権の確立)、積極的に政治を改革しようとする動きが進んでいたが、検非違使庁や蔵人所といった新しい令外官の形成はそうした動きの一環でもあったのである。

なお、天皇への権力集中とそのもとでの律令官庁の再編成は宇多・醍醐朝に完成を迎えるが、それを前提として摂政・関白が制度として定着する。天皇への権力集中が進んだがゆえに、天皇個人の能力いかんにかかわりなくその権限を行使できる体制として、摂政・関白が登場されたのである。


(解答例)

検非違使庁は嵯峨天皇が設置し、京内の治安維持にあたったが、後には弾正台などの職務を吸収した。蔵人所は、平城上皇と嵯峨天皇の対立にともなう朝廷の分裂に対処するために嵯峨天皇が設置し、機密文書を扱ったが、後には朝廷内の様々な実務に関与した。

律令制が動揺するなか、桓武天皇以降、律令政治の再編成が進められていた。嵯峨天皇は検非違使庁や蔵人所といった新しい天皇直属の令外官を設置し、そのもとで律令官制の統廃合を進めることで、天皇の政治的主導権を確保すると共に、財政負担の軽減を図った。
【添削例】

≪最初の答案≫
A検非違使は弘仁年間に設置され京内の警察を任され、後には裁判に関する職務も吸収した。蔵人所も同時期に天皇の機密文書を扱う機関として設置され後には内政に関する様々な実務を行うようになり、それぞれ、朝廷から重職とされた。
B奈良時代後期には公地公民制の崩壊から律令制度が動揺していた。特に治安の悪化や不正の横行、内政に関する諸問題が多く発生し、既存の律令の枠組みでは対処しきれない事態が生じていた。そのため司法・警察・内政に関して令外官を形成する必要があった。

Aについては,OKです。

Bについて。
この説明では,検非違使と蔵人という令外官は中納言・参議・勘解由使などの令外官とは性格が異なること(Aで問われていることから気づいて欲しい)に気づいていないことが露呈してしまっています。その性格の違いに注目しながら,もう一度考え直してください。

≪書き直し≫
B律令体制の崩壊が進み、国家財政が悪化すると、朝廷は検非違使を設置し、衛府・弾正台・刑部省・京職などの職務を吸収させたり、天皇側近の蔵人所を設置することで政治機構を簡略化し、天皇に集中させ、財政の緊縮化をはかった。

まず,
> 検非違使を設置し、衛府・弾正台・刑部省・京職などの職務を吸収させたり
こうした具体的な内容はAですでに問われている内容であり,Bで触れる必要はない。

次に
> 律令体制の崩壊が進み
検非違使庁・蔵人所の形成が進んだ平安初期について「律令体制の崩壊」と表現するのはあまり適当ではない。
なにしろ,その頃は格式の編纂が進められていた時代であり,律令格式すべての整った国家体制,いわば中国的な律令体制の整備が進められていた時代です。確かに公地公民制は大きく動揺していたものの,まだまだ再建への志向性が残されていた。そういう意味で,戸籍が作成されなくなり,班田収授が放棄された段階(つまり10世紀半ば以降)をもって「律令体制の崩壊」と表現するのならともかく,9世紀段階を律令制崩壊期と位置づけるのは不適当。

それから,
> 天皇側近の蔵人所
「天皇に直属していること」を蔵人所についてのみ説明しているが,検非違使庁も天皇直属の機関。
つまり両者ともに,政治機構を簡略化だけでなく,律令諸官庁の主要機能を天皇の掌握下におくこと(天皇への権力集中)に貢献していたのです。その点を明確化しておきたい。