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年度 1990年

設問番号 第2問

テーマ 院政〜鎌倉期の京都・鎌倉(中世都市)の発達/中世


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設問の要求は、院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展の特徴。条件として京都・鎌倉の図を参考にすることが求められている。

当該の時期の京都と鎌倉については三省堂『詳解日本史B 改訂版』では説明があるものの、山川『詳説日本史B 改訂版』にはなく、教科書レベルの知識ではなかなか対応できない。与えられている説明文と図を読み解いていくしか、対処の方法はない。

(1)京都について。
京都はもともと平安京(朱雀大路を中心に計画的な街路がつくられた)であり、貴族・官人の集住する政治都市として建設されていたことは知っているはず。そして、荘園公領制が確立する院政期以降は、荘公領主の集住地として各地の荘園・公領からの物資の集散地となり(一橋大1991年度第1問も参照のこと)、政治・経済の中心地としての都市へと変化していたことも知っているだろう。
それらを前提に説明文と図からデータを読み取ろう。

説明文から。
白河上皇は、京の南に離宮(鳥羽殿)、鴨川の東に御所(白河殿)や法勝寺を建立。
粟田口…車馬で賑わう−−(a)

図から。
太線になっているのが朱雀大路−−(b)
平安京の南に鳥羽殿、東に白河殿や法勝寺・六波羅邸(平清盛邸)−法住寺殿(後白河院の御所)や三十三間堂(後白河院の発願により建立)がどういう意味をもつのかは受験レベルを超えるので判断の対象外においておけばよい−。これらは政権中枢に関連する語句だが、すべて鴨川ぞい−−(c)
粟田口・大津・淀が黒点(●)となっている−−(d)

(2)鎌倉について。
鎌倉は幕府の所在地なのだから政治・軍事都市である。そのことを前提に説明文と図からデータを読み取ろう。

説明文から。
由比ガ浜の繁栄ぶり…京の近くの大津や淀にたとえられる−−(ア)
由比ガ浜と鶴岡八幡宮とを結ぶ若宮大路
幕府は八幡宮の東隣(幕府@)から若宮大路ぞい(幕府A)に移転−−(イ)

図から。
鶴岡八幡宮と由比ガ浜を結ぶ若宮大路が太線となっている−−(ウ)
和賀江津と材木座が黒点(●)となっている−−(エ)
寿福寺(北条政子が建立した臨済宗寺院)…どう扱うか?→判断の対象外においておけばよい

(1)-(b)と(2)-(ウ)をあわせて考えれば、鎌倉の若宮大路が京都の朱雀大路に相当していること、つまり鎌倉は平安京をモデルとして若宮大路を中心に都市建設が進められたこと(鶴岡八幡宮が大内裏に相当)が推測できる。

(1)-(a)(d)と(2)-(ア)を総合すると、大津・淀も粟田口と同様に交通・流通の拠点として繁栄していたことがわかり、黒点(●)は“交通・流通の拠点”をあらわす印だと判断できる。したがって和賀江津も材木座も鎌倉における“交通・流通の拠点”だとの推測がなりたつ(なお和賀江津は北条泰時のときに整備された港湾)。政治・軍事都市という性格が強い鎌倉も経済的な発展を遂げていたのである。

(1)-(c)と(2)-(イ)は“政権中枢の移動”に関するデータである。京都では大内裏から洛外の鴨川ぞいへ、鎌倉では鶴岡八幡宮の隣から若宮大路ぞいへと移動している。いずれも“交通・流通の拠点”により近い場所へ移動していることがわかる。

あとは、これらのデータをまとめればよい。
そのとき、都市の性格・あり方ではなく発展の特徴が問われていることに注意してほしい。赤本のように、「京都は(中略)荘園領主の都市だが、鎌倉は(中略)港湾都市であり、同時に(中略)政治都市でもある」と都市としての性格だけ対比して説明しても、答案としては不十分である。

なお、三省堂『詳解日本史B 改訂版』では次のように説明されている。
「京都は政治都市から,政治・経済の中心地としての都市へ移りつつあった。京中は大路・小路などの道路にそって町屋が形成され,武士と商工業者の増加はいちじるしく,武士の多くは六波羅探題や京都大番役につとめる者で,京中に屋敷をかまえる者もいた。また,さまざまな職種の手工業者や貴族・武家・寺社などの使用人として働く者があらわれ,猿楽や田楽などを専門とする芸人も生まれた。」(p.83)
「鎌倉も幕府の権力が確立するにしたがい,政治都市(武者の都)として発展し,若宮大路を中心に計画的な街路がつくられ,市内は保という行政区画に分割された。保には保奉行人がおかれ,盗人・悪党の逮捕や路上での売買の取り締まりも行った。また,由比ヶ浜東端の和賀江島の修築などを行い,海運で鎌倉に物資が集められるようになった。」(p.84)


(解答例)
荘園公領制の確立する院政期以降、左京を中心とする京都は、各地の荘園・公領からの物資輸送路である東や南へと都市域を発展させ、鴨川沿いに政権中枢が形成された。それに対して鎌倉は、幕府権力の安定にともない、港湾整備の進んだ由比ケ浜と鶴岡八幡宮を結ぶ若宮大路を中心に平安京を模して計画的に都市域が整備された。