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年度 1991年

設問番号 第4問

テーマ 条約改正をめぐる政府と民党の対立/近代


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設問の要求は、政府と民党との間に条約改正についてどのような論点(改正の内容や方法)をめぐる対立が生じたか。対象時期は議会開設前後から初期議会期。

条約改正交渉の担当者は、岩倉具視→寺島宗則→井上馨→大隈重信→青木周蔵→陸奥宗光→小村寿太郎、と移り変わっているが、“議会開設前後から初期議会期”という対象時期に該当するのは“大隈(黒田内閣)→青木(山県〜松方内閣)→陸奥(第2次伊藤内閣)”−井上外交は内閣制度創設の前後なので対象時期から除外して考えるのがよい−。
大隈…領事裁判権を撤廃するかわりに大審院に限定して外国人判事を任用
青木…英露の対立を背景にイギリスが相互対等の原則での条約改正(領事裁判権の無条件撤廃)に応じる→大津事件で失敗
陸奥…日英通商航海条約調印で領事裁判権の撤廃・関税自主権の一部回復・内地雑居(発効を5年後とする・重要輸入品について協定関税制を残すとの譲歩(『本番で勝つ!日本近現代史』p.115参照)

さて、政府と民党のあいだでの条約改正をめぐる論点に移ろう。
ここで気になるのは“民党”という言葉である。議会開設前については何を指すのかが曖昧なためちょっと面食らうが(立憲改進党は存続していたが自由党は解党していて存在しない)、“民権派の政党勢力”を指すものとおおざっぱに把握しておこう。
それにしても、井上外交に対してならいざ知らず、大隈・青木・陸奥外交に対する“民権派の政党勢力”の態度について、何か知識をもっているだろうか?教科書をみてみよう(青木外交に対する民党の態度については三省堂・山川・実教ともに記載ないし、国内での反対運動もない)。

三省堂『詳解日本史B』
大隈外交について。「大隈重信外相による交渉内容が,井上案と大差のないことが国民に伝わると,民権家だけでなく,現行条約通り内地雑居の禁止などを徹底して履行させるべきだとする国粋主義的な対外硬派(注3)など,猛烈な反対運動がおこった。そして大隈が,対外硬派の団体玄洋社の青年に負傷させられ,交渉は失敗に終わった。」(p.236〜237)
 注3「欧米列強に対し,譲歩を行いながら,改正交渉を進める政府に反対し,強硬外交を主張する者をいう。1892年の選挙干渉後,西郷従道・佐々友房・品川弥二郎らは国民協会を組織し,国権の拡張を積極的に主張した。」(p.236)
陸奥外交について。「第5議会以後も,予算案をめぐる政府と民党とのはげしい対立はつづくが,対外硬派や国権論の台頭とともに,民党の要求も条約改正を重視するようになっていった。」(p.241)

山川『詳説日本史 改訂版』
大隈外交について。「条約正文以外の約束として,大審院に外国人判事の任用を認めていたことがわかると,政府内外に強い反対論がおこった。このため政府は,大隈外相が対外硬派の団体玄洋社の一青年により負傷させられた事件(1889年)を機に,ふたたび改正交渉を中止した。」(p.264)
陸奥外交について。「第2次伊藤内閣は,民党第一党の自由党と接近し,1893(明治26)年には天皇の詔書の力もあって海軍軍備の拡張に成功した。しかし,改進党などの残存民党とかつての政府党国民協会が連合して条約改正問題で政府を攻撃し,政府と衆議院は日清戦争直前の第六議会まで対立をくりかえした。」(p.263)

実教『日本史B 新訂版』
大隈外交について。「大隈も井上案を踏襲したが,外国人裁判官の任用は大審院にかぎることにした。しかし外国人任用に対してふたたび反対の声が高まり,大隈は反対派に襲撃された。このため黒田内閣は総辞職し,交渉はまたも中止となった。」(p.259)
陸奥外交期について。「改進党などが条約改正交渉で強硬な態度を政府に求める「対外硬」を主張して政府攻撃を強めると,軍備増強などで妥協路線を強めつつあった自由党も政府批判にまわり,伊藤内閣はきびしい立場に追いこまれた。」(p.262)

大隈外交に対する民党(民権派の政党勢力)の態度を説明しているのは三省堂『詳解日本史B』のみだが、(井上外交と同様の)外国人判事の任用に対して民権派も反対していたことがわかれば問題ない。
陸奥外交に関しては、実教『日本史B』だけが「条約改正交渉で強硬な態度を政府に求める「対外硬」を主張」と論点を説明している。それに対して、三省堂『詳解日本史B』は「条約改正を重視するようになっていった」としか説明されておらず、これでは対立の論点が何であったかはわからないし、山川『詳説日本史B』も同様。とはいえ、実教『日本史B』の説明でも「強硬な態度」がどういう内容を意味するのかは不明。その意味で、教科書レベルの知識では対応しきれないと言える。 『本番で勝つ!日本近現代史』では、次のように説明した。

民党のうち自由党は伊藤内閣に接近したが、立憲改進党はかつての吏党の国民協会(選挙干渉の責任をとって内相を辞した品川弥二郎らが結成)などと野党連合(対外硬派)をつくり、条約改正問題をめぐって政府を攻撃した。彼らは内地雑居(外国人の国内通商の自由)に反対して現条約励行(外国人の通商を居留地に制限している現行条約を厳格に実行すること)を主張した。(p.89)
現条約励行論について少し説明を補っておく。“日本政府が性急な交渉をしようとするから欧米諸国への譲歩が必要になってくる。内地雑居の禁止を厳格に実行して欧米人の経済活動に制約を加えれば、欧米諸国は不自由を感じ、向こうからから条約改正を申し出てくるはずで、そうすれば条約の内容で譲歩する必要も生じない”という主張で、実教『日本史B』で書かれている「強硬な態度」である。
(解答例)
議会開催前,政府は外国人判事任用などを内容として改正交渉を進めたが,民権派は欧米に譲歩しながら交渉を進める政府を批判した。初期議会時にはイギリスとの条約改正交渉が進展したが,外国人の内地雑居を認める政府に対して改進党などが反対し,現条約を励行することで欧米からの改正の申し出を待つべきだと主張した。