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年度 1993年

設問番号 第2問

テーマ 元寇(日本軍の戦闘方法=武家社会の特質,高麗の果たした役割)/中世


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設問の要求は,蒙古襲来における日本軍の戦いかたはモンゴル軍とくらべてどのような特徴があったか。条件として,(a)日本の武家社会の特質と関連させること,(b)恩賞・武士団・集団戦・一騎討ちの語句をすべて使うことが求められている。

指定された語句をみれば,集団戦(→モンゴル軍)と一騎討ち(→日本軍)を対比させて答案を作成すればよいことがわかる。
そして“武家社会の特質”との関連が条件として求められていることから,“惣領制にもとづく軍事力編成”に関連づけて説明する必要があることがわかる(“武家社会の特質”という問い方については1985年第2問も参照のこと)。

 惣領制…血縁関係にもとづいて武士団を編成
 <惣領が一族(庶子)を統率,所領は惣領・庶子で分割相続>
 →鎌倉幕府は惣領の一族統率権を保障,それに依拠して軍事動員を確保(所領給付も軍役賦課も惣領を通じて行う)


設問の要求は,高麗の政府や人民が(1)モンゴルの対日戦争で果たした役割,(2)モンゴルの対日戦略に与えた影響。条件は,(1)〜(4)の文章を参考にすること。

まず説明文の内容を確認しよう。
(1)モンゴルの外交使節が日本に渡ることを宰相が妨害(1266)
(2)王室がモンゴルに屈伏した後も軍隊三別抄が抵抗を継続(1270〜1273)
(3)日本征討用の軍船を多数建造(1274,1279)→人民に多くの負担
(4)多くの高麗人民が戦闘員として動員された

これらの内容をまとめれば次のようになる。
対日戦争での役割:
 兵員・装備(兵船)を供給(兵站基地)
対日本戦略への影響:
 服属した高麗政府ですら非協力的・高麗人民の抵抗→モンゴルの日本遠征の遅れ

なお,高麗人民の抵抗や戦闘に動員された高麗の士気の低さは,モンゴルの日本遠征の失敗の原因の1つであり,モンゴルに第3次遠征を断念させた背景の1つでもある。


(解答例)

鎌倉武士は惣領を中心に血縁的武士団を編成し,恩賞を求めて幕府の軍事動員に応じた。そのため日本軍は,組織的な集団戦を行う元軍に対し,軍功を明らかにするために一騎討ちで戦った。

モンゴルの対日本戦略において,高麗は日本との交渉の先導役であり,兵員・装備を供給する兵站基地であった。しかし,政府の屈伏後も高麗人民の抵抗が続き,高麗政府ですら日本への使節派遣に非協力的であったことは,日本遠征の遅れと失敗の原因となった。
【添削例】

≪最初の答案≫

A日本軍は惣領を中心とした武士団によって構成され、恩賞を得ることを目的としたため、奇襲的な集団戦法をとったモンゴル軍とは異なり、一騎打ち戦法をとり、軍功を明らかにしようとした。
B日本と国交があり、臨海国であった高麗は対日戦略上重要な拠点であり、モンゴルは高麗を支配し、使節の派遣や軍艦の建造、兵役などを強制した。しかし、高麗政府・人民ともに非協力的で士気も低く、高麗軍の反乱もおこり、結果的に遠征の失敗を導いた。

Aについて。
モンゴルの戦法のところで「奇襲的な」と形容しているのですが,これは不要です。日本側が名乗りを挙げてから戦うという戦法をとったこととの対比を意識したのかもしれませんが,その戦法はモンゴル側にとっては常識的ではなく,日本独自の作法を守らなかったからといって「奇襲的」とは表現することはできません。

それ以外はOKです。

Bについて。
> 日本と国交があり
これは誤り。高麗は,10世紀に成立して以降,日本との間に国交関係を持たなかった(日本の朝廷は国交を結ぶことに消極的であった)。

それ以外はOK。