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年度 1997年

設問番号 第2問

テーマ 鎌倉幕府と北条氏/中世


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設問の要求は,鎌倉幕府の体制のなかで,摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。条件として,(a)北条氏と将軍との関係,(b)反北条氏勢力と将軍との関係,の双方にふれることが求められている。

まず「鎌倉幕府の体制」を考え,そのなかで「将軍」がどのような存在であったかを考えた上で,この設問の要求に直接答えるとよい。
鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係を基礎として成り立っており(もともと幕府は将軍家のこと),幕府にとって将軍は不可欠な存在である。そして,源氏将軍が断絶して以降,摂関家や皇族から将軍を迎え,幕府の権威付けとしていた。

次に,問題文から引き出すことのできるデータは以下の通り。
(1)→北条氏は将軍の後見役として実権を握った
(2)→源氏将軍断絶後は摂関家から将軍を迎えた・ただし幼少(名目的な存在)
(3)→北条氏と対立した将軍は追放された・将軍は反北条氏勢力の結集点
(4)→将軍本人に北条氏と対立する意向があったかどうかに関わりなく,将軍は反北条氏勢力の結集点となっている

ネックは,3行(90字)と字数が非常に少ないことだ。以上のデータをいかに90字以内で書けばよいのか,頭をひねってみよう。その際,問題文を単に要約していては,設問の要求にきちんと答えきれるかどうか危うい。設問の要求が“摂家将軍・皇族将軍がどのような存在だったか”であることを忘れないように。


設問の要求は,得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは,ならなかった)理由。条件として,護良親王が得宗(北条氏嫡流)をあえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだことにあらわれている日本中世の身分意識と関連づけることが求められている。

条件に「日本中世の身分意識」との関連づけが求められていることから,91年度の建武新政に関する出題(なかでも設問B)が類似問題であることに気づけば解きやすいが,おそらくほとんどの受験生は「日本中世の身分意識」についての知識を持ち合わせていないのではないだろうか−山川『詳説日本史』には全く説明がないが,三省堂『詳解日本史』には「中世社会の身分」という項目で説明がある−。その意味で難問である。

とりあえず問題文(5)からデータを引きだそう。
「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷ども」
「わがもの顔で天下にのさばり,朝廷をないがしろにしてきたが,ついに最近,後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た。」…「下剋上の至り」と評価
つまり,“在庁官人の子孫”が朝廷の政治を左右し,天皇の地位を処断することを,護良親王は“下剋上の至り”と評している。
ということは,護良親王がもっていた身分意識は,“天皇が身分秩序の頂点”で,“在庁官人(→御家人)はしもじもの身分”,“しもじもの身分が天皇の地位を処断することなどもってのほか”というものだとわかる。

さてここで,後醍醐天皇の討幕運動の思想的な背景となったとされる朱子学の大義名分論を思い起こそう。
君臣の上下関係を基礎とする階層秩序に正義をもとめ,人びとがその階層秩序におけるそれぞれの社会的地位に応じた行動・義務を遂行すべき,とする考え方である。

そして当時の日本には,天皇を頂点とする身分秩序が存在していた。鎌倉幕府が成立し,その勢力が拡大していたとはいえ,天皇を中心とする朝廷が京都に存続し,その支配がまだまだ効力をもっている状態では−幕府はあくまでも公武協調の姿勢を貫いていた−,天皇を頂点とする位階・官職の体系が存続し,官位と家柄の結びついた階層秩序が社会を規定していた。これが護良親王(や北畠親房)の準拠していた身分意識であった。

#それへの対抗勢力として,社会現象としては“悪党”,文化現象としては
#“ばさら”が鎌倉末期〜南北朝期にあらわれ,室町時代の社会・文化状況
#のひとつの基調を形づくることになっていく。94年度第2問も参照のこと。

そして幕府も,朝廷の全国支配を(理念的に)前提としつつ公武協調の姿勢を貫く以上,その身分意識から自由ではありえず,将軍家は天皇家・摂関家に並ぶ家柄として意識され(なにしろ将軍家は天皇家・摂関家同様,権門すなわち荘園領主であり知行国主であった),将軍は貴種であることが条件とされていた。在庁官人出身の北条氏が将軍となるには,この身分意識の存在が障害とならざるをえなかった。
−もともと源頼朝は,流人という立場で挙兵して幕府を組織したため,幕府の中核となるべき強固な主従制をもっていなかった。だからこそ,頼朝は以仁王令旨や寿永二年十月宣旨など朝廷の権威を活用することにより自らの権力と御家人制の確立を進めていた。このことを考えれば,幕府の存在が朝廷の権威,そのもとでの身分秩序を前提とするものであることも想像できるだろう−

なお,もともと幕府の地位・権限(治安維持の機能)は朝廷の法令(新制)により規定されていたが−建久の新制(1191年)−,1230年代以降は朝廷側の新制では規定されなくなり,かわって幕府による弘長の新制(1261年)以降,御成敗式目を根拠として幕府自身の法令(新制)によって規定されるようになっていた。もともと朝廷下の軍事権門として位置づけられていた幕府が,朝廷から独立した政権としての地位を確保するにいたったというわけだ(近藤成一「鎌倉幕府の成立と天皇」『講座前近代の天皇 第1巻 天皇権力の構造と展開その1』(青木書店,1992)を参照)。
そうした状況のなか北条得宗家は,惣領制のもとでの血縁的結合から離れた中小御家人(庶子家)たちを御内人へと組織し,独自の主従制を形成しはじめていた。こうした主従制の形成は,天皇を頂点とする身分秩序を直接の媒介とせず,それゆえに得宗はあえて将軍となる必要がなかったといえる。
さらに言えば,支配の正統性は朝廷からのみ付与されるものではなく,その統治の是非にもとずいて被治者からも与えられるものである以上,北条得宗家が支配の正統性を確立するのに必ずしも将軍になる必要はなかった。

とはいえ,すべての御家人を主従制下に編成できたわけでなく,武家政権の首長としての将軍の存在を否定することはできない。また,幕府は蒙古襲来に対応するための軍事体制の構築をきっかけに,朝廷からの権限委譲を通じて公家・寺社の支配領域へ介入する(非御家人の動員など)ようになったが,それにともなって幕府のもつ権限の正統性の根拠として再び朝廷(天皇)がクローズアップされることになる。結局のところ,北条得宗家も天皇を頂点とする身分秩序から逃れることはできなかったということだ。

なお,緑本(Z会)の解説では「天皇からの血筋の遠近によって身分の尊卑をはかる当時の身分意識を理解できるかどうかが最大のポイントである」と書いてあるが,「天皇からの血筋の遠近」というのはよくわからない。確かに天皇と外戚関係をもつものが朝廷で主導権を握ったのは鎌倉時代でもそうだが(たとえば西園寺氏),天皇との血縁にかかわりなく摂関家から摂政・関白が出ていた。摂関家は「天皇からの血筋」が近いのだろうか?また,天皇の親族のみによって上位の身分が占められていたとでもいうのか?“門閥”あるいは“貴種”であることと「天皇からの血縁の近さ」とは必ずしも一致しないはずである。


三省堂『詳解日本史』では次のように記述されている。
「中世社会の身分
 中世の社会に生きた人々はさまざまな身分に属して暮らしていたが,大別すると,公家(貴族),侍(武士),百姓(凡下),下人の4つの身分に分けられた。公家は古代以来の支配者で,朝廷から官位をあたえられていたが,院政期になると,摂政・関白職が藤原北家から分かれた五摂家にかぎられるようになるなど,それぞれの家が特定の官職を世襲するようになった。侍は戦闘を職業とする身分とみなされ,朝廷から低くはあったが官位があたえられた。」(p.85)
ここで述べられた枠組みを前提とすれば,“北条氏は侍身分で,朝廷から官位があたえられたが,公家に比べると低かった”と言える。
では,将軍は「公家(貴族)」なのか,「侍(武士)」なのか。
源頼朝が二位の位階をもっており(『吾妻鏡』のなかの守護・地頭設置に関する史料中に「二品」と出てくることは知っているはず),右近衛大将兼権大納言に任じられたこと,さらに実朝暗殺後は摂関家や皇族から将軍が招かれていることを考えれば,“将軍は「公家(貴族)」身分であった−あるいはそれに準ずる身分であった−”ことが推論できる。
(解答例)
A幕府は将軍と御家人の主従関係を基礎としたため,北条氏が執権として実権を握る限り将軍は不可欠で,摂家・皇族将軍が名目的存在として推戴されたが,かえって反北条勢力の結集点となった。
B鎌倉時代にあっても天皇を頂点とする身分秩序が機能しており,幕府もその身分秩序を前提とし,将軍家は天皇家や摂関家に準ずる家柄と意識されていた。それ故,いくら専制的な権力を掌握しようと,伊豆国の在庁官人出身の北条氏は将軍にはなれなかった。
(別解)中世社会でも天皇を頂点とする身分的上下関係が存在しており,将軍は皇族や摂関など公家身分に準ずる存在とみなされたが,在庁官人出身の北条氏は侍身分に過ぎず,一段低い身分と意識されていた。この身分意識ゆえに,北条氏は将軍にはなれなかった。
【添削例】

≪最初の答案≫

A北条氏は摂家将軍・皇族将軍を通じて御家人との間で形式上の主従関係を成立させ,実権を握っていた。他の御家人たちは将軍を中心にして北条氏を倒そうと考えていた。

B征夷大将軍は朝廷から任命されるもので,清和源氏の棟梁源頼朝など皇族の血を引くと考えられるものに与えられていた。しかし,北条氏は皇族とは程遠い地方の在庁官人出身であり,政治の実権を握っても低い家柄のため,将軍になることはできなかった。

> A北条氏は摂家将軍・皇族将軍を通じて御家人との間で形式上の
> 主従関係を成立させ,実権を握っていた。他の御家人たちは将軍
> を中心にして北条氏を倒そうと考えていた。

まず,「北条氏は摂家将軍・皇族将軍を通じて御家人との間で形式上の主従関係を成立させ」という部分について。

これは「北条氏」が「御家人との間で形式上の主従関係を成立させ」るための媒介として「摂家将軍・皇族将軍」を利用していたということなのか,それとも「摂家将軍・皇族将軍」と「御家人との間で形式上の主従関係」が成立していたということなのか。意味的には後者なのだろうが,文章表現上からは前者の解釈が自然に導き出されてしまう。文意を明確にしたい。

そして,後者で意味をとった場合,では,なぜ摂家将軍・皇族将軍と御家人との間に「形式上の主従関係」を成立させる必要があったのかが分からない。それは摂家将軍・皇族将軍(ひいては将軍そのもの)が御家人にとってどのような存在であったかという問題に行き着くが,その点を何らかの形で答案のなかに表現しておく必要がある。そのことを明言しておかないと,「他の御家人たち」が「北条氏を倒そうと考え」る際に「将軍を中心に」据えようとする動向の理由が説明できない。

> B征夷大将軍は朝廷から任命されるもので,清和源氏の棟梁源頼
> 朝など皇族の血を引くと考えられるものに与えられていた。しか
> し,北条氏は皇族とは程遠い地方の在庁官人出身であり,政治の
> 実権を握っても低い家柄のため,将軍になることはできなかった。

河合塾とかZ会の解答例を見る限り,この答案でも OK のように見えるのだが,北条氏が桓武平氏であること−承久の乱の際の「義時追討の宣旨」に「平義時」とあることを思い起こして欲しい−を考慮に入れた場合,
将軍=「清和源氏の棟梁源頼朝など皇族の血を引くと考えられるもの」
   ↓↑
「北条氏は皇族とは程遠い」
という対比は本当に成立するのだろうか。それに,源氏である源頼朝とその子ども,皇族(親王)将軍はともかく,九条頼経・頼嗣の摂家将軍は「皇族の血を引く」のだろうか?

個人的には極めて疑問で,院政期〜鎌倉時代における身分意識は“血筋”ではなく“家格(家柄)”に基づくものであり,北条氏が「在庁官人出身」つまり“侍”(必ずしも「武士」という意味ではない)でしかなかった点が問題とされていたのだと判断しています。

≪書き直し≫

A鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係で成立しており,北条氏は幼少の将軍を立てることで幕府の実権を握ろうとした。一方で反北条氏勢力の御家人は将軍を中心に結託し,北条氏打倒を企てていた。

Bですが,
北条氏が桓武平氏の血筋なのは知りませんでした。でも,それなら家柄的にも問題ないんじゃないんですか?(家柄と血筋の違いがあんまり分かりません。)北条政子は将軍と結婚してますが,家柄的には認められてられてなかったんですか?

AはO.K.です。

> Bですが,
> 北条氏が桓武平氏の血筋なのは知りませんでした。でも,それな
> ら家柄的にも問題ないんじゃないんですか?(家柄と血筋の違いが
> あんまり分かりません。)北条政子は将軍と結婚してますが,家柄
> 的には認められてられてなかったんですか?

まず,家柄と血筋の違いについてです。

君は「皇族の血を引く」と書いていたけれども(ちなみに摂関家は皇族の血は引いていない),それが“血筋”。ところが,天皇からの血筋の遠近と“家柄(家格)”とは異なる。“家柄(家格)”とは朝廷(ないしは貴族社会)の中におけるそれぞれの家の地位をさすもので,必ずしも天皇個人との血縁関係に由来するものではありません。以下,具体的に家柄(家格)の序列を紹介しておきます。

まず,一番上の家柄(家格)は“公卿(上達部)”とよばれる。
<摂家→清華家→大臣家→羽林家→名家>という家柄(家格)の序列があり,それぞれの家出身者が就くことのできる官職,その昇進コース,最高官職がほぼ決まっていた。たとえば,清華家には村上源氏(堀河天皇の外戚)の久我家,閑院流藤原氏(白河天皇や鳥羽天皇の外戚)の三条・西園寺・徳大寺など7家があるが,彼らは太政大臣にまで就任できる家柄だった。
これに次ぐ家柄(家格)は“諸大夫”と称され,位階でいえば四位,五位クラスの人びとで,いわゆる受領層。さらにその下には六位以下の“侍”が位置し,中下級の実務官人や在庁官人クラスがここに該当する。こうした“諸大夫”“侍”は公卿の家に仕える人びとであったため,公卿からはしばしば蔑視されていた。

なお,こうした家柄(家格)は院政期にほぼ固定化したものの,やや流動性はあり,たとえば平清盛や源頼朝は諸大夫クラス(受領層)から公卿クラスへの成り上がり者だったと言える。

> 北条政子は将軍と結婚してますが,家柄的には認められてなかっ
> たんですか?

結婚するのに家柄はほとんど関係ないです。ただ,母親の出自(家柄)は子どもの扱いに反映されます。出自の家柄が低ければ,たとえ長男であっても嫡男としては扱われません。

ちなみに,政子が源頼朝と結婚したのは,頼朝が流人であった時代。平氏政権がつぶれるなんて予想もつかない段階では,流人と結婚するなんていうのはもっての他で,父親の北条時政は反対し,別の人物との縁談を進めるんですが,政子は父の反対を押し切って頼朝との結婚を強引に実現させてしまいます。というわけで,結果論からすれば政子の決断が良かったという話になります。なにしろ,政子は初代将軍の妻,2代・3代将軍の母という地位を得,さらにその後は尼将軍と称されて鎌倉幕府の実質的な頂点に君臨することになったのですから。

そして,その政子という存在をバネに北条氏は幕府での地位を確立させ,御家人内部においては最高といえる家柄(家格)を確保することになります。ただし,公家勢力の立場からすれば“東夷ども”と侮蔑の対象だし,出自の由緒からいえば在庁官人=“侍”クラスじゃないかという話になるわけです。
鎌倉末期ともなれば,家柄(家格)も極めて上昇していたわけですが,だからこそ,それを否定するために“出自の由緒”を持ち出して落しめようというのです。

≪書き直し2回め≫

B鎌倉時代,幕府と朝廷は共存するものであり,将軍は貴族社会においても認められるものでなければならなかった。しかし,北条氏は在庁官人出身という貴族社会においては下位に位置付けられる身分出身で,この点で将軍にはふさわしいとみなされなかった。

ほぼ OK なんですが,
「将軍は貴族社会においても認められるものでなければならなかった」
という表現が分かるようで分からないものになっていませんか。
後半で,北条氏について「貴族社会においては下位に」と表現していることを考慮すれば,“貴族社会においても上位に位置付けられる身分であった”くらいの方が分かりやすいですね。